人足寄場(読み)ニンソクヨセバ

デジタル大辞泉 「人足寄場」の意味・読み・例文・類語

にんそく‐よせば【人足寄場】

江戸幕府が幕臣長谷川平蔵の献策により設置した浮浪人収容所。寛政2年(1790)老中松平定信無宿人や引き取り人のいない刑余者を江戸石川島に収容して生業を授けたのに始まる。常陸ひたち上郷村や長崎・箱館などにも設置された。

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精選版 日本国語大辞典 「人足寄場」の意味・読み・例文・類語

にんそく‐よせば【人足寄場】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 江戸幕府が、寛政二年(一七九〇)、火付盗賊改長谷川平蔵の建議を用いて、隅田川河口の石川島と佃島との間の鉄砲洲向島に設置したもの。無宿者に手業を習得させる目的であったが、のちには追放者なども収容し、自由刑の執行場としての役割も果たした。常陸国筑波郡上郷村(茨城県つくば市)などにも設けた。加役方人足寄場。寄場。
    1. [初出の実例]「不埒致候手廻り之者は、〈略〉人足寄場え可差遣候」(出典:御触書天保集成‐一〇〇・寛政三年(1791)三月)
  3. 普請などの人足を寄せ集める場所。

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改訂新版 世界大百科事典 「人足寄場」の意味・わかりやすい解説

人足寄場 (にんそくよせば)

1790年(寛政2)江戸幕府が,増加する無宿,浮浪者に対して授産・更生の道をひらくと同時に,江戸市中から無宿者を一掃して治安の向上をはかることを目的として開設した一種の保安処分の施設。のち実質上,近代的自由刑の原初的形態たる性格をもつに至った。

 老中松平定信が,1780年(安永9)ごろ数年間のみ存在した南町奉行所の無宿養育所の先例などをヒントに,無宿収容施設の開設を発案し,これに対して火付盗賊改長谷川平蔵宣以(のぶため)がみずから実施を申し出,両者の間で具体案が練られたのち,平蔵が創設の業務にあたった。当初寄場に収容されたのは,まったく犯罪を犯したことのない無罪の無宿,および入墨などの刑を受けた前科のある無宿である。収容者には柿色の制服が着せられ,石灰・炭団(たどん)の製造,古紙再生などの手業(てわざ)や,川さらえ,精米その他の人夫的労働などがあてがわれた。仕事に出精し心底が改まったと認められたものは,商売道具を与えられるなどして出所を許される一方,逃亡その他の規律違反は死罪を含む厳罰に処せられた。1820年(文政3)には,無罪の無宿のほか,追放刑の宣告を受けた有罪者を追放せずにここに入所させることが始まり,寄場は事実上,自由刑(懲役刑)を行う場所としての性格をもつようになった。ただしこの場合,寄場から出所後も御構場所(おかまいばしよ)への立入りは禁止されたから,追放刑の執行は免除されるのではなく延期されたにすぎず,寄場は法的には最後まで保安処分の施設であった。1841年(天保12)から苦痛の多い重労働である油絞りが作業として取り入れられ,収容者も有罪の無宿が中心となるにおよんで,寄場はいっそう懲役場に近いものとなり,自由刑への実質的変更がさらに進んだといわれる。世界最初の近代的自由刑思想にもとづく懲役場たるアムステルダムの懲役場(1595創設)にも比せられる人足寄場は,逃亡者や出所後の再犯も多かったものの,ある程度無宿人・犯罪者更生の実を挙げて維新に至った。
石川島
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「人足寄場」の意味・わかりやすい解説

人足寄場
にんそくよせば

江戸時代、無宿人や引取人のいない刑余者を留置し、授産更生を図った施設。初め加役方(かやくかた)人足寄場、また略して単に寄場とも称された。同様の施設は、1780年(安永9)に深川茂森(しげもり)町に無宿養育所が建てられたが、逃亡者が相次ぎ、86年(天明6)に廃止されている。しかし、天明(てんめい)の飢饉(ききん)以降、江戸に無宿人が激増してふたたび社会問題化したため、老中松平定信(さだのぶ)は火附(ひつけ)盗賊改(あらため)役長谷川平蔵(はせがわへいぞう)の建言をいれ、1790年(寛政2)に人足寄場を設置した。その場所には、隅田(すみだ)川河口の石川島と佃(つくだ)島の中間にある鉄砲洲向島(てっぽうずむこうじま)の芦(あし)沼1万6030坪の沮洳(そじょ)地を整地してあてた。1792年には、寄場奉行(ぶぎょう)を設置して管理機構を整備し、また、隣接する石川大隅守(おおすみのかみ)屋敷を上地(あげち)して、その跡地1万6700坪を寄場付属地に編入している。寄場内には手業場があり、収容者に大工、建具、塗物、紙漉(す)きや米搗(つ)き、油絞り、牡蠣殻灰(かきがらはい)製造、炭団(たどん)作り、藁(わら)細工などに従事させた。これらの作業に対しては賃金が支払われたが、その3分の1は強制的に積み立てさせ、出所時に生業復興資金として渡した。収容員数は、文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~30)まで140~150人、天保(てんぽう)期(1830~44)以降は400~600人に上った。収容者には、柿(かき)色に水玉模様を白く染め抜いた衣類が支給され、また、人足の教化のために大島有隣(おおしまうりん)(1755―1836)らを講師として心学の道話を行っている。江戸以外にも、常陸(ひたち)国上郷(かみごう)村(茨城県つくば市上郷)、長崎、箱館(はこだて)、横須賀などに人足寄場が設置されており、いずれも江戸同様、予防拘禁による治安対策と授産更生という社会政策を兼ねるものであった。江戸の人足寄場は、明治維新により石川島徒場となり、その後幾度か改称されて、1877年(明治10)警視庁管轄下の石川島監獄署となった。遺構は95年に取り壊されたが、その制度は、巣鴨(すがも)監獄を経て府中刑務所に引き継がれた。

[馬場 章]

『人足寄場顕彰会編『人足寄場史――我が国自由刑・保安処分の源流』(1974・創文社)』『瀧川政次郎著『長谷川平蔵――その生涯と人足寄場』(1975・朝日新聞社)』

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百科事典マイペディア 「人足寄場」の意味・わかりやすい解説

人足寄場【にんそくよせば】

寛政改革で1790年江戸石川島に置かれた浮浪人収容所。実現に尽力したのは火付盗賊改(加役)の地位にいた長谷川平蔵宣以(のぶため)で,開設後も平蔵が管理にあたり,正式名称は加役方人足寄場。無宿者,刑期満了者で引取り手のない者などを強制収容し,大工・建具・指物などの技術を与えたり,普請人足として働かせた。明治維新で廃止。
→関連項目新門辰五郎中沢道二無宿

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「人足寄場」の解説

人足寄場
にんそくよせば

寛政の改革で松平定信が主導して江戸石川島に設置した無宿の収容施設。1790年(寛政2)の設立時には具体的立案にあたった火付盗賊改の長谷川平蔵が管轄し,加役方人足寄場といった。92年に寄場奉行がおかれ,その支配下となった。無罪無宿のうち引受人がなく人返しできない者を収容し,多様な手業に従事させた。引受人がでてきたり,手業を身につけ溜銭(労働による貯蓄)が一定額に達し定着可能と判断された場合に出所させる仕法であった。教化のため心学の道話も行った。収容者は無罪無宿というが,実際は入墨・敲(たたき)などの仕置ずみの者が大半で,収容者数は文政期頃までの百数十人から,天保期には500~600人へと激増した。これは1820年(文政3)からはじまった追放刑者の収容のためよりも,天保期の無宿野非人の激増と全無宿を召し捕るという方針の結果で,幕府の無宿対策=人返し政策を補完するものであった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「人足寄場」の意味・わかりやすい解説

人足寄場
にんそくよせば

正式名称は加役方人足寄場。江戸幕府が設けた無宿人収容所。松平定信は寛政の改革に際し,寛政2 (1790) 年江戸石川島に収容所を設け,無宿人,刑期を終えた浮浪人などに大工,建具,塗物などの技術を修得させ,その更生をはかった。以後,幕末まで存続。

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旺文社日本史事典 三訂版 「人足寄場」の解説

人足寄場
にんそくよせば

江戸中期,無宿者や引取人のない刑期満了者の収容施設
1790年,老中松平定信が寛政の改革の一環として江戸石川島に設置。大工などの手職をつけ,土工などで得た賃銭を与えて,6年後に出所,正業につかせた。ほかに常陸 (ひたち) ・箱館にも設置した。

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世界大百科事典(旧版)内の人足寄場の言及

【石川島】より

…現在は石川島播磨重工業の工場がある。【正井 泰夫】
[人足寄場]
 石川島はもと森島,鎧(よろい)島などと称されたが,寛永年間(1624‐44)に江戸幕府の船手頭石川八左衛門重次の所領となってこの島名で呼ばれ,また八左衛門島ともいった。1790年(寛政2)老中松平定信は,火付盗賊改の長谷川平蔵に命じ,島を埋め立てて人足寄場を建設させた。…

【遠島】より

…島の発展とともに島の経済が流人を収容できなくなり,のちには八丈,三宅,新島の3島,および隠岐だけに限られるようになった。幕末には開港により伊豆七島の流人が外国人と接触するのをおそれ,1862年(文久2)北海道箱館の人足寄場に送って人足として使役したが,翌年また旧に復している。流人は島において牢名主に類した流人頭,および村役人の統制に服し,島民の漁業・農業の手伝いをして苦しい生活を送ったが,技能をもつ者や,本土から金品が送られてくる者は比較的余裕があり,事実上妻帯して家庭をもつこともできた。…

【刑罰】より

…その対策として,1778年(安永7)に江戸に無宿養育所を設け,90年(寛政2)には佐渡に送って鉱山で使役する佐州水替(みずがえ)人足の制度が始まった。松平定信執政時代,定信の発議に応じて火付盗賊改長谷川平蔵が具体化した江戸石川島の人足寄場はこの問題に関する幕府の最終的な結論であり,一応の成果を挙げた。はじめは犯罪のおそれのある無宿を収容する保安処分的施設であったが,のちには追放刑に当たる者を執行前に収容することとなり,実際上追放刑を制限する機能を果たした。…

【更生保護】より

…江戸時代に加賀藩が設けた非人小屋(1669)は,施設や作業場を設け,乞食や浮浪者とともに刑余者を収容し良民への更生をはかったもので,日本最初の更生保護施設といえる。1790年(寛政2)に作られた石川島人足寄場は,無宿者や入墨または敲(たたき)の刑に処せられた者を収容して職業補導,授産,教養訓練等を行ったもので,いわば幕府による更生保護施設であった。欧米では,18世紀後半から出獄者の保護の団体が慈善目的で作られていたが,近代的な社会内処遇の制度であるパロール(保護観察付仮釈放,18世紀末以来)や,プロベーション(保護観察付刑の猶予,19世紀半ば以来)の制度も整ってきていた(〈行刑〉の項参照)。…

【無宿】より

…無宿人が江戸などの都市およびその近在に多数徘徊し,社会不安を起こすようになったのは18世紀後半の田沼時代からで,幕府は1778年(安永7)無宿人を捕らえて再犯のおそれある者は懲らしめのため佐州水替人足(佐渡金山の水替人足)に使役することを始め,以来数次にわたり長崎,大坂などの無宿を含めて佐渡送りにしている。また1790年(寛政2)には火付盗賊改長谷川平蔵の建議によって,無罪の無宿人に生業を与えて更生させるための施設として江戸佃島に人足寄場(にんそくよせば)を設け,油絞りなどの手業を習役労働させ,身元引受人さえあれば出所を許した。しかし,これらはいずれも対症療法としても手ぬるく,効果はほとんど上がらなかった。…

※「人足寄場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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