仁徳天皇(読み)ニントクテンノウ

デジタル大辞泉 「仁徳天皇」の意味・読み・例文・類語

にんとく‐てんのう〔‐テンワウ〕【仁徳天皇】

記紀で、第16代の天皇応神天皇の第4皇子。名は大鷦鷯尊おおさざきのみこと租税を免除し、茨田まんだの堤を築造するなどの仁政を行ったという。「宋書」などにみえる倭の五王の讃または珍に比定する説もある。→大山だいせん古墳

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共同通信ニュース用語解説 「仁徳天皇」の解説

仁徳天皇

仁徳にんとく天皇 第16代天皇で、父は応神おうじん天皇とされる。難波(大阪)に都を置き、人々のかまどから煮炊きの煙が上っていないことを気遣い、租税を3年間免除、その間、自らは宮殿屋根の修理もしなかったとの逸話が残る。古事記は83歳で亡くなったとするが、日本書紀は没年齢を記さず、在位87年で死去としている。古代中国の史書「宋書」に記された「倭の五王」の1人とみる説がある一方、応神天皇と同一人物で実在しなかったとする説もあり、陵を巡って議論が続いている。

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精選版 日本国語大辞典 「仁徳天皇」の意味・読み・例文・類語

にんとく‐てんのう‥テンワウ【仁徳天皇】

  1. 第一六代天皇。応神天皇の皇子。名は大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)。即位後、難波の高津宮に遷都。「宋書」などに見える倭の五王のうちの讚に比定されている。また、珍(彌)とする説もある。その生前に造営した百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)は、日本最大の前方後円墳。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「仁徳天皇」の意味・わかりやすい解説

仁徳天皇 (にんとくてんのう)

応神天皇につぐ16代の天皇とされる。応神の子,履中,反正,允恭天皇の父。諱(いみな)はオホサザキ(大雀,大鷦鷯),宮は難波高津宮,陵は和泉百舌鳥耳原(もずのみみはら)中陵。天皇は幼にして聡明,壮におよび仁慈,ために〈仁徳〉と諡(おくりな)されたが,悪逆無道とされた25代武烈天皇でこの応神・仁徳の王系が途絶えるのと対比される。これは中国の易姓革命の思想によって,この王系の始祖を応神・仁徳とするための措置であろうと考えられ,応神・仁徳は同一人格とみる学説もある。治世中の事跡にも,菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と皇位を譲り合い,倭(やまと)の天皇の屯田(みた)を横領しようとした額田大中彦(ぬかたおおなかつひこ)皇子を罪せず,百姓の窮乏を知り,みずから倹約して苦を共にし,課役を免じて百姓を富ましめ,宮室を造らず,百姓らは進んでこれを造営したというような話が多い。
執筆者:

伝承像記紀の仁徳天皇の物語,特に《古事記》のそれは妻問い物語を軸に構成されている。天皇は多くの娘に求愛する主人公として登場し,そこへ皇后磐之媛(いわのひめ)の嫉妬がからんで独特な話柄をなす。たとえば皇后の嫉妬はつねに激しい言動で示され,それを恐れ国へ逃げ帰る寵姫を天皇が吉備の国まで追ってゆくというのが黒日売(くろひめ)の話である。こうした仁徳物語は,おそらくその祖型を神話の大国主神譚に負うものといえる。神話では越(こし)の国まで出かけて美女と逢う大国主(八千矛(やちほこ)神)に配して嫡妻須勢理毘売(すせりびめ)の〈うわなりねたみ〉(嫉妬)があり,それに閉口する主人公の姿は両者に共通し,しかも他に例をみない。また仁徳の仁君説話も大国主の兎を助けた話にみられる王者の慈愛と対応する。仁徳が実在性のたしかな天皇とはいえ,その物語は神話的原型を世俗化した一種の再話と性格づけられる。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「仁徳天皇」の意味・わかりやすい解説

仁徳天皇【にんとくてんのう】

《日本書紀》にみえる天皇。諱(いみな)は大鷦鷯(おおさざき)。応神天皇の皇子。記紀によれば難波(なにわ)宮を営み,狭山(さやま)池・茨田(まんだ)堤などを築かせて開拓を勧め,朝鮮・中国と交渉して文化を向上,大和朝廷の最盛期を築いたという。《宋書(そうじょ)》倭国伝の讃(さん)または珍(ちん)に比定する説がある。→倭(わ)の五王仁徳陵
→関連項目允恭天皇菟道稚郎子大阪[市]栗隈毛野難波奈良坂埴生坂反正天皇氷室茨田屯倉依網池・依網屯倉

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朝日日本歴史人物事典 「仁徳天皇」の解説

仁徳天皇

生年:生没年不詳
5世紀前半に在位したといわれる天皇(大王)。父は応神天皇,母は仲姫。実名はオオサザキ。『古事記』では大雀,『日本書紀』では大鷦鷯の字を当てている。履中,反正,允恭3天皇の父とされる。皇后は葛城襲津彦の娘磐之媛命で,彼女の死後,仁徳の異母妹八田皇女が皇后に立てられたという。皇居は難波高津宮(大阪市東区か)。仁徳は,異母弟【G7EDF道稚郎子/うじのわきいらつこ】と大王位を譲り合い,長幼の序を重んじるG7EDF道稚郎子が自殺したので,ようやく即位を決意したとか,人民の家々から炊飯の煙が立ちのぼらないのを見て課役を免じ,みずからに倹約と耐乏を課したとか,その聖帝,仁君としての風貌が強調されている。他方で,皇后磐之媛の目をぬすんで異母妹八田皇女のもとに通い,皇后の妬心をいたく刺激し,ついには彼女を憤死せしめたというおよそ聖帝らしからぬ伝承もある。聖帝,仁君として描かれているのは,仁徳の玄孫に当たる武烈天皇の代で仁徳の王統が途絶えたので,王朝最後の王=暴君とし,それとの対応関係により,王朝の開祖=聖帝と構想されたためにすぎない。中国の歴史書『宋書』(488年完成)にみえる倭王の讃あるいは珍に当たるとされているが,仁徳に該当する倭王の存在が認められるにしても,『古事記』『日本書紀』にみられる仁徳の位置や所伝は,あくまでも系譜の上で作り出されたものとみられる。すなわち,6世紀初頭に新たに王権を継承した継体天皇がみずからの正当性を主張するために,5世紀に実在したA,Bふたつの大王家の系譜と自己の保有する系譜とを統合する過程で,B大王家から出た最後の実在の大王である武烈すなわちワカサザキ(ワカタケル大王の子)の名前からヒントを得て,A,B両大王家共通の祖先名として,オオサザキなる王が案出されたのである。『延喜式』によれば,陵は和泉国大鳥郡(堺市,高石市)にあった百舌鳥耳原中陵。堺市にある全長485mの前方後円墳(大山古墳ともいう)は仁徳天皇陵として有名だが,年代的には合致しない。<参考文献>直木孝次郎『飛鳥奈良時代の研究』,前之園亮一『古代王朝交替説批判』,川口勝康「五世紀の大王と王統譜を探る」(原島礼二ほか『巨大古墳と倭の五王』),「大王の出現」(吉田孝編『日本の社会史』3巻)

(遠山美都男)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「仁徳天皇」の意味・わかりやすい解説

仁徳天皇
にんとくてんのう

生没年不詳。記紀では第16代天皇とする。大雀命(大鷦鷯尊)(おおさざきのみこと)といい、応神(おうじん)天皇の皇子。莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)は王位継承を辞退し、仁徳天皇が応神の後を継いで王位についたという。宮居は難波(なにわ)の高津宮にあったとし、とくに河内(かわち)平野の開発に努めたとする伝承が目だつ。仁徳天皇という諡(おくりな)は8世紀後半につけられたもので、その治政において、3年の間、税を免除したという事績に基づく。『古事記』『日本書紀』では、この天皇を「聖皇」(『記』)、「聖帝」(『紀』)とみなす意識が強く、儒教的徳治主義の思想で潤色されている箇所が少なくない。『宋書(そうじょ)』夷蛮伝(いばんでん)倭国(わこく)の条にみえる、倭の五王のなかの讃(さん)を仁徳天皇とする説や、珍(ちん)を仁徳天皇とする説などもある。墓は百舌鳥野(もずの)陵と伝える。現在仁徳陵に指定されている古墳(大山(だいせん)古墳)は大阪府堺(さかい)市大仙(だいせん)町にある。

上田正昭


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「仁徳天皇」の意味・わかりやすい解説

仁徳天皇
にんとくてんのう

第16代に数えられる天皇。在位 87年といわれる。名はオオサザキノミコト(大鷦鷯尊)。応神天皇の第4皇子。母はナカツヒメノミコト。5世紀前半の倭国の大王ということで,『宋書』倭国伝の倭の五王の「讃」や「珍」に比定される。『古事記』『日本書紀』には,天皇が難波高津宮(→難波京)に都し,難波の堀江を通じ,茨田堤を築き,和珥池(わにのいけ)を開くなどの農政に意を用いたという伝承がある。また楽浪遺民(→楽浪郡)の獲得を目的とする朝鮮遠征やへの使節派遣など外交にも留意した。大和政権(大和朝廷)の最盛期にあたり,その基礎も固まった。これは大陸や朝鮮半島の文物が急速に入ってきた時代の反映でもあろう。陵墓は大阪府堺市百舌鳥にある仁徳天皇陵(大仙古墳,2019世界遺産登録)。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「仁徳天皇」の解説

仁徳天皇
にんとくてんのう

記紀系譜上の第16代天皇。5世紀前半頃の在位という。大鷦鷯(おおさざき)天皇と称する。応神天皇の皇子。母は皇后仲姫(なかつひめ)命。応神は,仁徳の異母弟菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を皇太子としたが,応神の死後,太子は仁徳に皇位を譲ろうとした。仁徳が固辞したため天皇空位となったところ,異母兄の大山守(おおやまもり)皇子が皇位を狙い兵をあげた。これを鎮圧した後も仁徳が固辞したため,太子はみずから命を断って即位を促したという。難波に高津宮(現,大阪市中央区法円坂)を営み,葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の女磐之媛(いわのひめ)命を皇后として,履中・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)の3天皇をもうけた。人民の苦しみをみて3年の間課役徴収を停止するなど,仁政の王として賞賛されるが,応神の事績と重なることが多く,実在を疑う意見もある。葬られた百舌鳥耳原中(もずのみみはらのなか)陵は大阪府堺市堺区大仙町の大山(だいせん)古墳にあてられているが,時期的にあわないとする見解がある。「宋書」倭国伝の倭王讃(さん)または珍(ちん)に比定する説もある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「仁徳天皇」の解説

仁徳天皇 にんとくてんのう

記・紀系譜による第16代天皇。在位は5世紀前半ごろ。
父は応神天皇。母は仲姫命(なかつひめのみこと)。「日本書紀」によれば,応神天皇の死後,皇太子である弟が兄をさしおいて位につくのをよしとせず自殺したため即位。人家から炊煙のあがらないのをみて一時課税をやめ,人民の困窮をすくったという。都は難波の高津宮(大阪市東区)で,難波天皇とも称される。「宋書」倭国伝の倭王讃(さん)を仁徳とする説もある。仁徳天皇87年1月16日死去。(「古事記」では83歳)。墓所は百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)(大阪府堺市。日本最大の前方後円墳)。別名は大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと)。
【格言など】天の君を立つるは是百姓の為なり(「日本書紀」仁徳天皇7年)

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旺文社日本史事典 三訂版 「仁徳天皇」の解説

仁徳天皇
にんとくてんのう

生没年不詳
5世紀前半の天皇
名は大鷦鷯尊 (おおささぎのみこと) ,応神天皇の皇子。『宋書』倭国伝の倭の五王の一人讃または珍に比定される。人民の苦しみを見て,租税を免除し民生安定をはかったという話が記紀に伝えられている。大阪府堺市にある世界最大の大山(大仙陵)古墳は,仁徳天皇の陵墓と伝えられる。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「仁徳天皇」の解説

仁徳天皇
にんとくてんのう

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
正徳3.2(大坂・嵐三右衛門座)

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世界大百科事典(旧版)内の仁徳天皇の言及

【磐之媛】より

…《古事記》《日本書紀》《万葉集》に伝えられる仁徳天皇の皇后。葛城襲津彦(かつらぎのそつびこ)の娘で武内宿禰(たけうちのすくね)の孫にあたり,皇族外の身分から皇后となった初例とされる。…

【鷹狩】より

…【前嶋 信次】 日本には朝鮮半島を経由してもたらされた。記録では仁徳天皇43年に百済王族の酒君(さけのきみ)が献上したタカを天皇が百舌野(もずの)で遣ってキジを捕り,鷹甘部(たかかいべ)をおいたとあるのが最も古い(《日本書紀》)。また出土品には,関東地方に鷹・鷹匠(たかじよう)埴輪が数例あり,6~7世紀ごろのものとされている。…

【隼総別皇子・雌鳥皇女】より

…記紀にみえる仁徳天皇の庶弟妹。天皇は隼総別皇子を仲人として,雌鳥皇女に求婚したが,皇女はハヤブサワケと通じ,仁徳をたおすことをそそのかしたために二人は軍勢に追われて宇陀の曾尓(そに)(紀では伊勢の蔣代野(こもしろのの))で殺害された。…

※「仁徳天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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