伊達宗紀(読み)だて むねただ

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊達宗紀」の解説

伊達宗紀 だて-むねただ

1790-1889 江戸時代後期の大名
寛政2年9月16日生まれ。伊達村寿(むらなが)の子。文政7年伊予(いよ)(愛媛県)宇和島藩主伊達家7代となる。藩政改革に力をそそぎ,殖産興業策により財政再建に成功。また嘉永(かえい)6年のペリー来航に際しては幕府開国献策した。明治22年11月25日死去。100歳。通称主馬。号は春山

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の伊達宗紀の言及

【伊予国】より

…また,宇和島藩には井関盛英が編纂した《宇和郡旧記》(1681),《弌墅截(いちのきり)》があり,江戸初期の農事・文化水準の高さをうかがわせる。宇和島藩主伊達宗紀(むねただ)は藩士2人を佐藤信淵に入門させ,天保期以降,殖産興業政策を展開した。藩学は大洲藩の止善書院明倫堂(1747),宇和島藩の内徳館(1748,のち敷教館,明倫館,明誠館),新谷藩の求道軒(1783),吉田藩の時観堂(1794),小松藩の培達校(1802,のち養生館),松山藩の興徳館(1805,のち明教館),今治藩の講書場(1805,のち克明館),西条藩の撰善堂(1805)がある。…

【宇和島藩】より

…伊予国(愛媛県)宇和郡宇和島に藩庁を置いた外様中藩。豊臣秀吉の四国征伐後,宇和郡は1587年(天正15)戸田勝隆,95年(文禄4)藤堂高虎が領主となり,高虎は板島丸串城を本城として築城した。1608年(慶長13)富田信高が領主となり,15年(元和1)伊達政宗の庶長子秀宗が宇和郡10万石の領主として入部し,以後廃藩まで伊達氏9代の治世が続いた。秀宗は18‐35年(元和4‐寛永12),父政宗の隠居料として3万石を割き,この間宇和島藩は7万石であった。…

【伊達宗城】より

…伊予国宇和島藩8代藩主。旗本山口直勝の次男で,伊達宗紀(むねただ)(春山)の養子となる。1844年(弘化1)に襲封し,幕末四賢侯の一人に数えられる。…

※「伊達宗紀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android