中国で小作人をさすもっとも一般的な呼称。佃客(でんきゃく)、地客(ちきゃく)、荘客(そうきゃく)、租戸(そこ)、種戸(しゅこ)などともいう。佃の本来の語義は田地を耕種すること、転じて賃借の意味にも用いられる。一般的にいって地主と佃戸の耕作関係には二つの型式があった。一つは、佃戸が地主より田地を賃借し、地代として約定した定額の田租を納めるもので、租田(そでん)、租種(そしゅ)とよばれていた。他の一つは、田地の賃貸関係はなく、地主が佃戸を募って自分の田地を代耕させ、その報酬として豊凶にかかわりなく一定の分率で収穫を分配するもので、分種(ぶんしゅ)、佃種(でんしゅ)とよばれていた。両者を併称する呼称は租佃(そでん)である。分種には、佃戸が耕牛、犂(すき)、耙(まぐわ)(あわせて牛具という)を用意して、犂耕(りこう)、播種(はしゅ)、鋤耘(じょうん)(中耕除草)、収穫を行うもの(収穫の分率は通常主佃中半)と、地主が牛具を用意するものとの二類がある。後者にはさらに、佃戸が地主の家の牛具を用いて犂耕から収穫に至る作業を行うもの(主佃73)と、犂耕をせずに鋤耘、収穫の作業を負担するもの(主佃82)とがあった。分種は、在村の中小地主が自作にかわる自己経営の方式として近隣の貧農を用いて行い、租田は、大地主、とくに寄生的な都市在住の地主の所有地で多くみられた。また地域的には華北に分種が多く、華中、華南で租田が多い傾向がみられた。
歴史的にこのような租佃様式が成立するのは唐中期以後である。宋(そう)代では、租田を租賃、租種、分種を分収(ぶんしゅう)、合種(ごうしゅ)、半種(はんしゅ)、分田(ぶんでん)、分鋤(ぶんじょ)などとよんで両者を類別していた。租田の田租は、穀作田ではアワ、ムギ、マメ、イネなどその田で栽培される主要な穀物の一定量で定められ、畑や商品価値の低い作物しかできない瘠地(せきち)では銭租がとられていた。銭租の事例は宋代から認められる。分種では栽培したすべての作物の穀物と藁(わら)とが分配の対象となっていた。宋代では佃戸は地主に対して法的に不平等な地位に置かれ、佃戸が地主やその家族に対して暴行傷害致死の罪を犯すと一般の場合より重く罰せられ、逆に地主の佃戸に対する犯罪は刑量を軽くされていた。明(みん)代になるとこうした不平等はなくなった。また明代になると、佃戸は租田の開墾、改良に労働資財を投じたり、あるいは押租(おうそ)(田租の保証金)を納めたりして地主に対して債権をもち、この債権を譲渡する形式をとって租田を別人に譲渡する慣行が広まっていった。佃戸によって別人に譲渡される租田は一般に田面(でんめん)とよばれ、田面に対置される地主の所有権は田底(でんてい)とよばれていた。南北朝以前のことはあまり明らかでない。耕作者が耕牛をもつか否かで分率を変える関係が三国期に認められるが、分種と同じ関係かどうか、租田慣行の由来とともに詳考すべきところである。
[草野 靖]
『草野靖著『大土地所有と佃戸制の展開』(『岩波講座 世界歴史9 中世3』所収・1970・岩波書店)』▽『周藤吉之著『中国土地制度史研究』(1954・東京大学出版会)』▽『天野元之助著『支那農業経済論 上』(1940・改造社)』
中国において,一般的用語としては小作人を意味し,漢代豪族の大土地所有の耕作者にまでさかのぼることができる。西晋(3世紀半ば)以降,佃客の呼称もあらわれるが,なお主家の家籍に付けられていて家内奴隷に近かったらしい。佃戸が基本的な生産の担い手として土地制度史上重要になってくるのは宋(10世紀)以後で,均田制にかわって私的大土地所有が発展,佃戸制が普及した。佃戸は一応独立した経営をもち,客戸として国家の戸籍に付けられ,身丁税を負担した。地主とは租契によって結ばれたが,両者は対等な契約とはいえず,地主側の恣意が一方的に強く働き,また租契のない場合も多かった。地租には分益租と定額租があり,だいたい収穫は5対5で配分されたが,耕牛や灌漑用具などを地主から借りると,地租は6割以上にも達した。副租として薪米鴨鶏なども要求された。凶年や端境期,冠婚葬祭など不時の出費にも地主から〈倍称の息〉といわれる高利の借金をし,地主への隷属を強め,債務奴隷化するものもあった。刑法上も格差があり,佃戸の地主に対する犯罪は,北宋中期で一般人より1等重く,南宋初には2等重い刑が科され,身分的にも〈主・佃の分〉ありとされた。南宋になると,両浙地方(江蘇省南部・浙江省)を中心に頑佃抗租(がんでんこうそ)とよばれる運動が起こり,佃戸は横の連帯をもって小作料不払い運動を展開した。15世紀半ば,福建地方に起こった鄧茂七の乱は,中国史上はじめて佃戸が起こした農民反乱で,以後,明・清期を通じて抗租運動が広範にくりひろげられる。明・清時代には,浙江・福建地方を中心に佃戸の永小作権が成立し,一田両主制が普及してきた。佃戸の刑法上の格差も消滅し,佃戸の地位は上昇した。〈良田は良佃にしかず〉といわれるようになり,地主は佃戸を選択し,佃戸から押金(保証金)を徴収した。しかし,佃戸制の消滅は,1950年の土地改革によって,地主制の廃止と農民的土地所有の確立までまたねばならなかった。
→地主
執筆者:柳田 節子
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中国王朝時代の小作農家の称。佃戸の労働による小作経営が一般化するのは宋,元,明,清である。佃戸は法的に自由民であるが,宋代では経営の自立性の低い隷農的農家も多数存在したらしい。南宋,元以降永小作権も生まれ,その地位は改善された。地代は分益租,定額租,金納などの形で徴され,率は古来折半(収穫の半分)を常例とした。宋以前では佃戸は一般的ではなく,西晋の佃客(でんかく)は不自由民の家内奴隷的労働,均田制下の佃人は,農民相互の生計補充的な小作慣行といわれている。
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…11世紀後半から20世紀中葉の土地改革にかけての期間,中国の小作農に当たる佃戸(でんこ)(あるいは佃農)の行った,小作料の徴収をめぐる地主(田主(でんしゆ)あるいは業主)への抵抗運動。中国ではすでに漢代から形態の上で小作制度に近似した慣行はあったが,土地を所有する地主が佃戸と契約を交わして土地を貸し出し,佃戸が小作料を納入する制度(租佃制あるいは地主佃戸制)が華中・華南を中心に普及していくのは10世紀に入ってからであり,すでに唐代後半,8世紀半ばに先駆的な例のある抗租についての資料も,11世紀後半,北宋中期,長江(揚子江)下流南岸デルタの蘇州市,嘉興市方面での動きを伝えるものをはじめとしてしだいに増えてくる。…
…10世紀,宋代以降の農業における生産関係のうえで,租佃制がこれまでにはない大きな比重を占めるようになった。とりわけ華中・華南では,低湿地を堤防で囲いこんで,囲田(いでん),圩田(うでん)と呼ばれる水田が造成されるなど,水稲栽培技術が飛躍的に向上し,大土地所有者は自家で経営しうる規模をこえる土地の大部分を,佃戸(でんこ)と呼ばれる小作農民に貸与し,租と名づけられる小作料を徴収するようになり,租佃制の発達は目覚ましかった。しかし華北の畑作地帯では,宋と金,金と元の戦乱の影響もあり,清初まで租佃制の発達は停滞した。…
…【笠井 恭悦】
【朝鮮】
朝鮮における地主制は李朝後期に形成され始め,日本の植民地支配期に農業における主要なウクラードとして定着し,解放後南北でそれぞれ独自に行われた土地改革,農地改革によって基本的に解体された。
[前史]
近代朝鮮の地主制の歴史的淵源をどこに求めるかについては一致した見解がないが,(1)16世紀中葉に台頭してくる在地両班(ヤンバン)(士林派)の経済的基盤となった地主・佃戸(でんこ)制に求める説,(2)18世紀中葉以降に商品貨幣経済の発展とともに登場してくる庶民地主と呼ばれる新しいタイプの地主(商人出身が多い)に求める説,が有力である。いずれにせよ李朝期の地主制は,国家の官僚支配体制と結合しないかぎりその地位が不安定であったこと,佃戸の耕作権が近代の小作人の場合よりはるかに強かったと思われること等の点で,植民地期の地主制とは性格を異にしていた点が留意されねばならない。…
… 学説の相違は直接生産者=農民の性格規定ともつながる。宋代に荘園制が普遍化したという説では,荘客,地客,客戸などとよばれる佃戸(でんこ)と,家内奴隷や佃僕といわれる奴隷に近い者,雇用人が直接生産者であり,南北朝から唐の中ごろまでは奴隷が重要な生産者であったが,宋になると佃戸がその位置を占めるようになったとする。佃戸は地主から田地,家屋,農具,牛,穀種などを借りる。…
…ところが,唐代中期から大土地所有制の内容が変化しはじめ,これに対応して部曲身分の解放が行われると,部曲の数は減少し,上級賤民としての部曲という用語は,10世紀末をもって,記録の上からも姿を消した。部曲に代わって農業労働に従事したのが佃戸であり,彼らは完全な自由民であった。このように,身分制は消滅の方向にあったが,一朝にしては清算されなかった。…
…彼らはわずかな土地しかもたない自作農ないしは自小作農であり,5等戸中には,財産がないのに納税の義務を負う無産税戸も含まれていた。 客戸は,もともと客来の戸を意味し,僑居する商工業者もその中にはいったが,大部分は佃戸,佃農などとよばれ,地主の土地を耕作する無産の小作人たちであった。佃戸は唐代の部曲とは異なって,社会的にも法的にも自由民であって,地主とは契約によって結ばれていた。…
…奴婢という名は残っているが,それはもはや唐律の奴婢ではなく,生涯契約の長期奉公人である。しかるに宋代に入って新たに地主とその小作人たる佃戸との間の犯罪に軽重の差を設ける法律が作られた。まず北宋の中期から,佃戸が地主を殴打したときは普通よりも1等重い刑罰に処し,地主が佃戸を殴傷したときは1等軽くするという特例を開き,南宋に入ってこの差等を各場合とも2等とすることに定めた。…
※「佃戸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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