大坂の豪商住友家当主の通称。近世前期3代友信(とものぶ)(1647―1706)が吉左衛門を称して以来、多くこの称が用いられた。友信は友以(とももち)(通称理兵衛(りへえ))の第5子で、東北、中国地方の銅山開発にも手を広げ、家業はいっそう栄えた。その子4代友芳(ともよし)も吉左衛門を称し、この代に伊予別子(べっし)銅山が発見開発された。5代友昌(ともまさ)、6代友紀(とものり)と吉左衛門襲名が続いたが、7代友輔(ともすけ)は万次郎のち万十郎を、8代友端(ともただ)は吉次郎を、9代友聞(ともひろ)は吉次郎のち甚兵衛を、10代友視(ともみ)、11代友訓(とものり)はともに吉次郎を称した。明治維新後12代友親(ともちか)がふたたび吉左衛門を称してから、13代友忠(ともただ)が続き、14代は友親夫人登久(とく)が継いだが、15代友純(ともいと)(西園寺公望(さいおんじきんもち)実弟)は旧公卿(くぎょう)徳大寺家から入り、吉左衛門を称した。16代友成(ともなり)、現当主17代芳夫も吉左衛門を称している。
[川崎英太郎]
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…近世の商家。住友財閥の前身。住友家は,2代友以(とももち)が京都で銅商泉屋を興し,1620年代から大坂を本拠として銅の精錬・輸出と外国品の輸入という家業の基礎を固め,3代友信,4代友芳の時代に諸銅山の稼行,江戸・長崎出店の設置,両替・為替業へ進出して,隆盛期を迎えた。また事業上の担保として家屋敷数十ヵ所を所有するとともに質地の流れ込んだ山本新田などの田畑を経営し,幕末には別子銅山の近辺で飯米用の新田を開発した。…
…その男則麿は父功により別家して男爵を授けられた。なお,公爵西園寺公望,男爵住友吉左衛門は実則の実弟である。【今江 広道】。…
※「住友吉左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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