本来,儒学を修め信奉する人一般をいう。また日本では,律令制度上の大学寮の教官を時にそう呼んだが,現在では,近世日本で儒学ないし儒学的教養の伝授を業とした人々を指すのが普通である。彼らは,科挙制度がなかったため政治的エリートないしその予備軍ではなく,しかも出自は多様で世俗的な,当時の中国・朝鮮にはなく日本にもそれまでなかった特殊な知識人層をなした。そして近世を通じてしだいにその数を増し,広範な儒学的教養の浸透を導き,種々の儒教思想をみずから生み,当時の思想史・文化史の重要な担い手であった。
世俗的な近世日本文化が展開し始めるとともに一部の武士,町人などの間に儒学的教養への関心が高まり,京の朝廷に属する博士家や,中世に儒学研究の中心だった禅宗寺院の応じきれない新しい需要が生まれた。それにこたえるところに新職業としての儒者が成立したのである。それゆえ,初期には浪人出身者が少なくない。彼らはあるいは大名に仕え,あるいは町に塾を開いた。後の場合,少なくとも京都ではすでに17世紀中にそれで生活可能だったようであり,1706年(宝永3)から江戸で教えた梁田蛻巌(やなだぜいがん)は〈生徒数十人〉で〈衣食粗(ほ)ぼ給(た)〉りたという。しかし幕末に至るまで,それだけでは生活が苦しいのが相場で,同じく漢籍読解力を必須とする医者を兼ねることが少なくなく,大名から扶持を受ける例もある。18世紀半ば以降の急激な藩校増加により,その教官となる者も増え,19世紀には広瀬淡窓のように地方にいながら整備された試験・進級制度をもつ寄宿制の塾経営に成功する者も現れた。
とくに江戸時代前半には,町儒者は世人の目には往々遊芸の師匠同様に映り,大名などに仕えても,医者などと並ぶ特殊技能者として扱われるのが通例だった。その象徴として,元禄(1688-1704)ごろまでは林羅山をはじめ剃髪にした者も多く,その後も総髪にした者が少なくない。それゆえ,江戸時代を通じて彼らが嘆いているように,治国平天下の学を修めているにもかかわらず,政策提言は時になしえても,熊沢蕃山,新井白石のように政治への直接的影響力をもつのは例外的であった。羅山が徳川家康らに仕えたのも,いわば儒学的知識の歩く事典としてであって,イデオローグとしてでも,行政家としてでもない。元禄以降,将軍家の〈御儒者〉林家当主は大学頭を称したが,幕府に大学はなかった。社会習俗の中に葬祭などにおける儒教的礼制を導入するのも,一般に困難だった。したがって,《論語》《孝経》などを学ぶ者が増加を続け,忠孝などの儒教的徳目は広く受容されていった反面,〈儒者なるゆゑ世事は知らぬはず〉(堀景山《不尽言》)という通念は根強かった。そのため,政治に無関心な文人となり,あるいはもっぱら個人の修養を説く道学先生となった者も多い。他面,比較的自由な儒学研究が進展し,広範な意見交換がなされ,多彩な日本儒学が生まれたのも,彼らが実際政治と密着せず,比較的自由で,生れより才能が重視されうる存在だったことと関連があろう。彼らは,宋・元・明(そして清)さらに朝鮮の儒学からも学びつつ〈道〉を求め,あるいは当時の武士の立場や規範意識に即して朱子学を再解釈し,あるいは町人の生活に合った教えとして儒教を再構成し,あるいは時の政治に有用たらしむべく経典に新解釈を加え,さらにそれらを批判し,折衷し,次々と新しい思想を生み,国学・蘭学の隆盛をも招いていったのである。
江戸時代が終りに近づくにつれ,武士の官僚化と知識人化が進み,儒教の影響力はさらに強まり,儒者の威信も上昇した。林家当主も寛政(1789-1801)以降学問所の長となって権威を高め,儒者を師として丁重に扱う大名や,藩校教育を受けて儒学者となる武士も増えた。野心ある町人,百姓にとっても,儒者は立身出世の道の一つであった。そして,徳川斉昭治下の水戸藩のように,低い身分から出た儒者たちが藩政の主導権をとる例さえ現れた。イデオロギー闘争の熾烈(しれつ)だった幕末ともなれば,政治的議論に儒学的教養は必須であり,いわゆる志士にも儒者や儒者的武士は少なくない。しかし,幕藩体制の瓦解は彼らの社会的存在基盤をも崩す結果を生み,彼らは学校教師,私塾教師,官員などとなり,一方多少とも洋学を身につけた新知識人が学界・思想界の主流として,彼らにとって代わったのである。
執筆者:渡辺 浩
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
儒教とくにその経典を学びまた教える者のこと。日本の古代・中世では、明経道(みょうぎょうどう)を講学した清原氏・中原氏などの博士が儒者といえる。ただ、その際、経典は漢籍の一環として、仏僧、博士、神官など各職域・身分において学ばれ、独自の専門領域は十分に成り立ってはいなかった。そのため近世以前には、儒者の語はあまり見出せない。ただ、戦国末から江戸期になると、政治・倫理・学術など儒学の需要が高まり、中国や朝鮮の漢字文献の輸入とその生産・流通が拡大する。儒学の典籍を読み解き唱導する専門家も多く現れ始め、これが儒者と呼ばれるようになった。将軍・大名などに仕えて給与としての禄や扶持を受け取る「御儒者(おじゅしゃ)」は、林羅山(らざん)が幕府に雇用されたことに始まり、しだいに各藩に広がった。また民間でも、中江藤樹(とうじゅ)・伊藤仁斎(じんさい)など学塾や医業などを営む「町儒者(まちじゅしゃ)」が増加していった。しかし日本では、中国・朝鮮などのように科挙・祭祀が確立され地主・為政者として儒学を率先する担い手となる体制は成立せず、儒者は政治周辺の存在となり生活基盤も弱かった。とはいえ、漢学者として経典を自由に選択する傾向も強く、そこから他のテキストに向かい、のちに国学・蘭学・兵学と称される諸学への転換も拡大した。
[黒住 真]
『渡辺浩著「儒者・読書人・両班―儒学的『教養人』の存在形態」(『東アジアの王権と思想』所収・1997・東京大学出版会)』▽『黒住真著「儒学と近世日本社会」(『近世日本社会と儒教』所収・2003・ぺりかん社)』
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…室町時代後半には五山僧の文学創作欲は衰え,代わって中国儒典の研究熱をたかめ,この方面の学者,たとえば桂庵玄樹(けいあんげんじゆ),文之玄昌(ぶんしげんしよう)(南浦)などが,かたわら詩文を製した。このような流れにつづいて,江戸時代の儒学は多く五山より発生したので,江戸時代儒者の作る漢詩文は,その初期の人たる藤原惺窩(相国寺の禅僧文華宗蕣),林羅山(建仁寺に学んだ)などの作品にみられるように,五山文学そのままの趣があった。 中世には五山文学以外に搢紳(しんしん)公卿の作品もあった。…
…そこには純粋な信仰に燃え,領主の権力を無視して,仏に帰依するといった側面は存在しなくなる。 儒者には,医者などとともに出自を浪人,庶民層にもつものが少なくなく,また藩に仕えても一領主に一生仕えるのではない面があった。身分制社会のなかで,ある程度の自由さをもち,その教授は武士層をこえて庶民にも及んだ。…
※「儒者」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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