日本歴史地名大系 「入来院」の解説
入来院
いりきいん
〔平安時代の入来院〕
保延元年(一一三五)一〇月二五日の院主石清水権寺主大法師某下文(旧記雑録)に入来院とみえ、院主石清水権寺主大法師某が新田神社の別当寺
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
保延元年(一一三五)一〇月二五日の院主石清水権寺主大法師某下文(旧記雑録)に入来院とみえ、院主石清水権寺主大法師某が新田神社の別当寺
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薩摩国薩摩郡(鹿児島県薩摩郡など)内にあった所領名。院の一般的なあり方からみて,平安時代に薩摩郡の辺境の開発が行われたさい,その拠点となった院倉の名が,所領の発展に伴い所領名に転化したものと考えられる。入来院は平安末期には摂関家の荘園島津荘の寄郡(よせごおり)となって,収納物の一部が荘園領主摂関家に納められることになったが,1197年(建久8)の薩摩国大田文によれば,その面積は全体で92町2反,そのうち寄郡となった面積は75町であった。同院の開発は鎌倉時代前半いちじるしく進み,1250年(建長2)の検注帳によれば193町8反が把握され,その内部には楠本,ひさくくち,倉野,中村,城籠(じようこもり),塔原(とうのはら),副田,清色(きよしき),市比野(いちびの)などの小村が含まれていたことが知られる。
入来院に土着する本来の領主は,弁済使・別当職をもって国衙・荘園領主に対し収納をつかさどる伴氏であったが,12世紀後半一時薩摩国を掌握した阿多権守忠景の弟忠永の支配,源平内乱後没官領となったために設置された惣地頭千葉氏の知行,そして宝治合戦に連座した千葉氏が没収されたあと1246年(寛元4)いらい跡をついだ渋谷氏の地頭支配などが展開するなかで,伴氏の本領主としての支配はしだいに圧迫され,13世紀末には院内塔原村の一名主たるにすぎなくなった。一方,渋谷氏は元来相模国渋谷荘(現,神奈川県綾瀬市,藤沢市の一部)に本拠地をもつ東国武士であったが,上述の所領拝領以後13世紀末までに一族の大半が広大,肥沃な入来院に本拠をうつし,惣領制的な同族結合をもって上記の村々に割拠して確固たる支配を築き,南北朝以降は清色村に居城をもつ主家のもとに結束しつつ江戸時代に及んだ。
入来院の一帯は樋脇・入来2筋の小河川をとりまく小平野とそれに流れこむ多数の谷戸の集合から成り立っており,中世在地領主の山村支配のあり方を示すよい典型であるが,地理的環境が比較的よく保存されている上に,現在につづく渋谷氏各家が伝えた豊富な《入来院文書》のために,早くから中世武士と村落研究の宝庫として注目されてきた。すでに大正年間アメリカ合衆国イェール大学教授となった朝河貫一は同文書の翻訳とそれにもとづく中世封建制研究の成果を世界に公にし,いらい欧米の日本封建制研究はこれをおもな拠り所として発達したが,日本においては,第2次大戦後の社会経済史研究の隆盛のなかで,同院は荘園村落,在地領主の惣領制,農民の経営体としての在家,門など地域社会の支配と構造を解明するための宝庫として注目をあび,それらをテーマとする幾多の研究を生むとともに,乱開発による景観破壊をとどめて歴史的景観を維持するための努力も重ねられるようになった。なお朝河貫一によってはじめられた入来院中世文書の刊行は,1955年著作刊行委員会の手で増訂を施し完成され,81年には《近世入来文書》も刊行されて,入来院の歴史を探るための文献史料はほぼ完備したといえよう。
執筆者:義江 彰夫
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