八代郡(読み)やつしろぐん

日本歴史地名大系 「八代郡」の解説

八代郡
やつしろぐん

面積:五六五・三九平方キロ
竜北りゆうほく町・宮原みやはら町・かがみ町・千丁せんちよう町・東陽とうよう村・いずみ村・坂本さかもと

東は九州山脈をもって宮崎県東臼杵ひがしうすき椎葉しいば村・上益城かみましき矢部やべ町と境し、境界線上に国見くにみ(一名釈迦院岳、一七三八・八メートル)烏帽子えぼし(一六九一・七メートル)などの山々が連なる。北は矢部町、下益城しもましき砥用ともち町・中央ちゆうおう町・小川おがわ町と境する。南は球磨郡五木いつき村・球磨村などと葦北あしきた芦北あしきた町と境し、西は八代市と不知火しらぬひ(八代海)で、海を隔てて宇土うと半島の宇土郡不知火町・三角みすみ町、天草郡大矢野おおやの町・松島まつしま町などに対する。郡域を大別すると、国道三号の東部はおおむね山間部、西部は自然的に発生した沖積平野で、平地の中央部を南北に通ずる国鉄鹿児島本線より西の水田地帯はほとんど近世の干拓地で、八代平野とよばれる。南部に位置する坂本村のほぼ中央に日本三大急流の一つ球磨川が北西に流れ、八代市の中央部を貫流して不知火海に注いでいる。

八代郡の名は、「続日本紀」天平一六年(七四四)の条に「五月癸未朔庚戌、肥後国雷雨地震、八代・天草・葦北三郡官舎、并田二百九十余町」とみえ、四七〇余の民家、一千五二〇余の人々が洪水に遭い、山崩れ二八〇余ヵ所、圧死者四〇余名とある。次いで神護景雲二年(七六八)七月一九日、大宰府は八代郡正倉院の北畔に蝦蟇が広さ七丈ばかり列して南に向かって去る、という怪異を報告している。

〔原始〕

旧石器時代の遺跡で現在まで確認されているのは、宮原町の立神たてがみ遺跡のみである。同遺跡からはチャート・黒曜石製のナイフ形石器・細石刃・細石核が発見されている。縄文時代の貝塚は、中・後期の遺跡として竜北町の土穴瀬つちあなぜ硴原かきはら大野おおの、鏡町の有佐ありさ、千丁町新牟田の島しんむたのしま、後・晩期の遺跡としては、竜北町の西平にしびらだんなどがある。いずれも鹹水産の貝塚で、ハイガイアカガイなどの貝類を主とする。弥生時代の遺跡は、縄文・古墳時代の遺跡が多いわりには発見例が少ない。しかし八代市上日置かみひおき町の白石しらいし遺跡からは中期の黒髪式土器に伴い人骨三体分が出土しているので、今後発見される可能性がある。古墳時代の遺跡は、古代の「火の国」の中心地に比定されている川流域の竜北町・宮原町および旧龍峰りゆうほう(現八代市)の一帯に古墳が群集する。五世紀頃の遺跡としては、竜北町高塚たかつか字東原の金道の台地上から昭和三二年(一九五七)に朝顔形の壺を配列した方形周濠墓が県下で最初に発見され注目された。前方後円墳は竜北町の東新城ひがししんじよう姫の城ひめのじよう物見櫓ものみやぐら中の城なかのじよう端の城はしのじようの各古墳が知られ、いずれも周溝をもち埴輪円筒を伴う。

八代郡
やつしろぐん

甲斐国の中部から南部にかけて存在した。現東八代郡・西八代郡の全域および南巨摩郡身延みのぶ南部なんぶ両町の富士川左岸地域、南都留みなみつる足和田あしわだ村の西さい湖湖岸地域にあたる。東を都留郡、北を山梨郡、西を巨摩(巨麻)郡、南を駿河国富士郡に境を接していた。

〔古代〕

「和名抄」東急本国郡部は郡名に「夜豆之呂」の訓を付す。古代の郡域は北東は現八代町以南と考えられる。笛吹川と富士川とが西側の郡境を形成していたことはほぼ間違いないが、北と東の郡境は必ずしも明瞭ではない。甲府盆地の南縁、御坂みさか山地の北麓に位置する曾根そね丘陵地帯は、甲斐の古墳文化発祥の地で、現中道なかみち町を中心に銚子塚ちようしづか古墳・大丸山おおまるやま古墳など前期の大規模古墳が集中していることで知られている。郡名の初見は「続日本紀」神護景雲二年(七六八)五月二八日条で、「甲斐国八代郡人小谷直五百依、以孝見称、復其田租終身」とある。「和名抄」は管郷として八代・長江ながえ白井しらい沼尾ぬまのお川合かわいの五郷を載せるから、令制による下郡である。同書東急本国郡部は国府は八代郡にあったとしており、この国府は一般に御坂町国衙こくがの地をさすと解されているが、当時同所が八代郡に属したかどうかはかなり微妙である。

「延喜式」神名帳には「佐久サクノ神社」「弓削ユケノ神社」、「表門ウヘトノ神社」(九条家本の訓はウハトノ)、「浅間アサマノ神社」「中尾ナカヲノ神社」「桙衝ホコツキノ神社」の六座が記される。このうち浅間神社が名神大社で、ほかは小社であった。浅間神社は富士山の噴火を岳神の怒りと恐れ、その怒りを鎮めるために建てられたもので、富士山の周辺を中心に全国各地に同名の神社が次々に建てられている。富士山は平安時代にはしばしば噴火を繰返し、貞観六年(八六四)の西の峰の大噴火は富士北麓の八代郡地域に大きな惨害をもたらした。同年五月二五日、駿河国は富士郡正三位浅間大神の大山が噴火、地震が三度あって、一〇日余を経ても火はやまず、溶岩は本栖もとす湖を埋めたと朝廷に報告した。噴火の第一報である。次いで七月一七日、甲斐国も溶岩が八代郡本栖・の両湖を埋め、熱湯で魚鼈は皆死に、百姓の居宅は埋まり、火焔はさらに東方の河口かわぐち湖に向かったと惨状を詳細に報告した。よって朝廷は畿内・東海道の諸国に対し神社の破損や祭礼の疎慢のために神明が祟りを発したと警告し、八月五日には甲斐国司に対し噴火は駿河浅間名神の禰宜・祝らが斎敬を怠った結果であるとし、駿河国同様奉幣解謝するよう下知した。翌七年、甲斐国司は朝廷に対して富士の大山の西の峰の噴火による八代郡の惨禍を述べたのち、今年八代郡擬大領無位伴直真貞に浅間明神が神がかりし、自分は甲斐国において斎き祀られたいと思い、いろいろ不吉な現象をなしたが一向に悟らないため、今回の大噴火を起こしたのであり、速やかに神社を定め祝・禰宜を置き、自分を奉斎せよとの託宣があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報