日中戦争(1937~45年)時代の中国共産党軍の名称。共産党と国民党は、37年の「第2次国共合作」で抗日統一戦線を形成。華北にあった共産党軍(紅軍)の主力は国民党軍に編入され、「国民革命軍第八路軍」となった。ゲリラ戦を繰り広げ、華中や華南で活動した共産党の「新四軍」とともに日本軍を苦しめた。抗日戦勝利後の47年、新四軍などと合わせて「人民解放軍」と改称した。(共同)
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中国人民解放軍の前身,正称は中国国民革命軍第八路軍。1927年創建された紅軍は37年8月国共再合作がなると国民革命軍に改編された。華北にあった主力は第八路軍(国民党政府はのち戦時編成として第十八集団軍に改称したが,中国共産党側は八路軍の名を愛用し,一般民衆から〈八路〉とよばれた)に改編,第115師(長林彪),第120師(長賀竜),第129師(長劉伯承)の3個師編成とされた。八路軍は抗戦初期日本軍が華北のほとんど全域を席捲すると,空白となった敵後方に進出して,〈基本的には遊撃戦だが,運動戦もゆるがせにしない〉方針で活動し,人民を組織して根拠地を建設するという長期持久の人民戦争戦略をとった。陝甘寧辺区から山西前線に出動した八路軍は,国民党政府軍が潰走したあと逆に来進して華北大平原に進出,人民が自発的に組織した抗日義勇軍を傘下に収めて勢力を拡大,陝甘寧辺区のほかに晋察冀(山西,チャハル,河北)辺区,晋冀魯予(山西,河北,山東,河南)辺区,晋綏(山西,綏遠(すいえん))辺区,山東軍区などの根拠地を建設,40年には正規軍40万,支配下人口1億人(日本側と中共側双方に税金を納めるものを含む)といわれる大勢力に発展した。
1940年百団(連隊)大戦の大攻勢に出たあと,日本軍の積極的反攻,皖南(かんなん)事変を頂点とする国共関係の悪化,華北の大凶作などの悪条件が重なって,42年には正規軍は30万に,支配下人口は半減する苦境に追いこまれた。しかし中共は三風整頓運動で党軍内の空気を一新するとともに,精兵簡政,生産自救の方針をうち出し,八路軍は軍の精鋭化で,正規軍の地方軍化,地方軍の民兵化を進める一方,戦闘,生産,工作を三大任務として,人民の負担を軽くした。また地下道戦,地雷戦,麻雀戦(小部隊でスズメが飛びかうように出没して敵をなやます)など多彩な戦術を用いて難局を乗り切った。43年から戦局は好転し,45年には八路軍は正規軍90万,民兵220万,19の解放区(根拠地)を建設し,1億の人口を支配するまでに発展した。抗日戦勝利のあと46年国共内戦が始まると,華北,西北,華東,中原などの野戦軍に改編,47年10月中国人民解放軍と改称した。
執筆者:宍戸 寛
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抗日戦争時代の中国共産党軍の名称。1937年7月、抗日戦争勃発(ぼっぱつ)とともに国民党と共産党との統一戦線により、主として陝甘寧(せんかんねい)辺区(陝西(せんせい/シャンシー)、甘粛(かんしゅく/カンスー)、寧夏(ねいか/ニンシヤ))にあった4万余の紅軍主力は、8月、国民党軍の部隊番号である国民革命軍第八路軍を名のることになった。朱徳(しゅとく/チュートー)を総指揮、彭徳懐(ほうとくかい/ポントーホワイ)を副指揮に、3個師団からなり、林彪(りんぴょう/リンピァオ)が一一五師長、賀竜(がりゅう/ホーロン)が一二〇師長、劉伯承(りゅうはくしょう/リウポーチョン)が一二九師長に任じた。のち正式には第一八集団軍と改称されたが、通称は八路軍といい、さらに八路軍は華北(かほく/ホワペイ)一帯に活躍した中共系の正規軍・遊撃隊の総称ともなった。抗日戦争開戦直後、八路軍は黄河(こうが/ホワンホー)を東に渡り、山西(さんせい/シャンシー)省北東部の平型関では一一五師が37年9月に日本の板垣兵団を大破した。その後、日本軍占領地区を縫って進出し、一一五師は山西省五台山(ごだいさん/ウータイシャン)に晋察冀(しんさつき)辺区を樹立し、さらに河北(かほく/ホーペイ)省東部に伸びた。一二九師は太行山(たいこうさん/タイハンシャン)で晋冀魯(しんきろ)予辺区を樹立して山東(さんとう/シャントン)省に伸び、一二〇師は山西省北西に晋綏(しんすい)辺区を樹立して綏遠(すいえん/ソイユワン)省(現、内モンゴル自治区中南部)に伸びた。武漢(ぶかん/ウーハン)陥落後、国民党は中共地区への圧迫を強め、日本軍も、とくに40年以後、残虐な三光作戦を実行したため、八路軍は困難に逢着(ほうちゃく)したが、遊撃戦を展開し、ついに勝利をもたらした。抗日戦争後は、新四軍などともあわせて、人民解放軍と改称した。三大規律八項注意に代表される厳格な、人民に奉仕する規律によって、「八路(パールー)」の名は人民の救い主のような愛称となり、これが勝利の最大原因となった。
[安藤彦太郎]
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日中戦争中の中国共産党の中核部隊。正式名称は国民革命軍第八路軍。1937年8月成立,国民政府軍事委員会の指揮下にあり,まもなく第十八集団軍と改称。3個師団よりなる。日本軍占領地域で主として活躍し,民衆を組織し政権を樹立,しだいに国民政府の統轄を排除した。成立当初の正規兵力は4~5万人であったが,日本敗戦時には90万人に発展,新四軍などと全国に19の解放区を持った。
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正称は中国国民革命軍第八路軍。のち第十八集団軍と改称。日中戦争中,華北を中心に対日戦に活躍した共産党系軍隊。日中戦争勃発後の第2次国共合作により,紅軍主力約3万が第八路軍として国民政府の指揮下に入った。総司令朱徳(しゅとく)は3個師を統轄し,「独立自主の遊撃戦争」を展開。晋冀魯予・晋綏・山東などの根拠地(解放区)を建設し,生産自給と整風運動により日本軍の掃討作戦に対抗した。日本の敗戦後,人民解放軍に改編された。
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… 貴州,雲南,四川など11省を迂回した紅軍は35年10月第1陣の第1方面軍が陝西北部に到着,新たな根拠地をつくったが,総兵力は3万に減っていた。中共は35年8月1日,一致抗日宣言を発表して,抗日民族統一戦線結成の新方針を定め,36年12月の西安事件を契機に国共停戦へと進んだが,37年7月日中戦争勃発を機に国共再合作が成り,紅軍は華北の部隊が八路軍(正しくは国民革命軍第八路軍)に,華中に残留した部隊が新四軍(正しくは国民革命軍新編第四軍)に改編された。中国人民解放軍【宍戸 寛】。…
…37年7月7日,蘆溝橋事件(七・七事変)が勃発すると,中共はただちに抗戦宣言を発して国民に武力抵抗を呼びかけ,国民政府も戦火が上海におよんだ8月14日,抗日自衛宣言を発し,挙国抗戦の体制がととのえられた。8月下旬,工農紅軍の主力3万は国民革命軍第八路軍(八路軍と略称され,のちに第十八集団軍とも称した)に改編されて華北の抗日の前線に出撃した。9月には国共合作が正式に成立,10月,南方各省の紅軍遊撃隊も集中して新編第四軍(新四軍と略称される)を編成して華中の前線に出た。…
…1927年8月1日賀竜,周恩来,朱徳らによって南昌蜂起を起こしたのを機に中国労農紅軍が成立し,井岡山を根拠地とした毛沢東・朱徳の第4軍を中心に発展し,31年には江西省瑞金(ずいきん)を首都に中華ソビエト共和国を樹立したが,蔣介石軍の5次にわたる包囲作戦によって,根拠地を放棄〈二万五千里の長征〉に出,35年秋陝西省北部に新たな根拠地を定めた。 37年7月蘆溝橋事件が起こり日中戦争が始まると第2次国共合作が実現し,紅軍は国民革命軍第八路軍,新編第四軍に改編された。華北の八路軍,華中の新四軍はいずれも日本軍が占領した広大な敵後方の地域に進出して,主として遊撃戦を展開して根拠地を建設し,日中戦争後期には在華日本軍の64%,傀儡(かいらい)軍(親日政権軍)の95%を相手とするまでに発展した。…
※「八路軍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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