癌は人類にとって大敵というべき疾患であり、癌の予防は人類のための医学の最重要な課題とされている現状から、前癌という用語が一時流行した時期もあったが、現在では、かえってこの意味が混乱しているのが実状である。かつては、ある病変それ自体は癌ではないが、癌が発生する頻度が高いと臨床的にあるいは経験的に理解されている疾患がいくつかあり、これらは癌の前段階であろうという考えから前癌状態あるいは癌前駆症とよばれてきたわけである。例としては、皮膚の癌の場合の光線皮膚炎、色素性乾皮症、老人性角化症、火傷瘢痕(はんこん)などの皮膚疾患、胃癌の場合の胃潰瘍(かいよう)、大腸癌の場合の大腸ポリープ症、肝癌(ヘパトーマ)の場合の肝硬変症、乳癌の場合の乳腺(にゅうせん)症、悪性絨毛(じゅうもう)上腫(しゅ)の場合の胞状奇胎などがあげられる。確かに、これらの癌がみつけられた場合に、ここであげられているような前癌状態、すなわち病変が認められることが多いのは事実であるが、この状態からかならず癌が発生するという根拠は現在のところ確認されていない。また、その何パーセントが癌になるという見解も一定せず、研究者によりまちまちな状況である。前癌状態とかつて強調された疾患と、癌の発生つまり発癌とを簡単に関係づけることは困難であり、またかえって危険というべきであろう。上皮の中だけに増殖している癌を上皮内癌carcinoma in situとよんでいるが、これは組織学的に確認されるので初期癌として取り扱われ、癌細胞がある範囲に発育・増殖して肉眼的な大きさとして認識されれば微小癌、早期癌と臨床的に称せられる。これら上皮内癌、初期癌、微小癌、早期癌は癌そのものであり、前癌とは明確に区別されなければならない。
[渡辺 裕]
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