加藤泰(読み)カトウタイ

デジタル大辞泉 「加藤泰」の意味・読み・例文・類語

かとう‐たい【加藤泰】

[1916~1985]映画監督。兵庫の生まれ。本名、泰通やすみち記録映画から出発し、その後は時代劇を多く手がける。白塗りが当然であった時代劇で、キャストにノーメイクを命じて撮影するなど、独自のスタイルを用いて時代劇映画に新風を吹き込んだ。代表作は「まぶたの母」「沓掛くつかけ時次郎遊侠一匹」のほか、「緋牡丹博徒ひぼたんばくと」シリーズなど。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「加藤泰」の意味・わかりやすい解説

加藤泰
かとうたい
(1916―1985)

映画監督。神戸市に生まれる。映画監督の山中貞雄は母方の叔父にあたる。愛知県工業学校機械科に在学中、伊藤大輔の『続大岡政談 魔像篇』(1930~1931)などに感銘を受け、山中を頼って上京、東宝の助監督に採用される。成瀬巳喜男(みきお)などに師事したのち、1941年(昭和16)に理研科学映画、1944年には満州映画協会に移って記録映画を手がける。第二次世界大戦後は大映で伊藤の『素浪人罷(まかり)通る』(1947)や『王将』(1948)、黒澤明の『羅生門』(1950)などで助監督を務めたのち、宝プロ(1950年に設立された独立プロダクション。新東宝配給の時代劇を製作した)の『剣難女難』前後編(1951)で監督デビュー。1957年(昭和32)より活動の拠点を東映に移し、『源氏九郎颯爽(さっそう)記 濡れ髪二刀流』(1957)で中村錦之助(のちの萬屋(よろずや)錦之介)と出会う。股旅時代劇『風と女と旅鴉(たびがらす)』(1958)では錦之助はじめキャストすべてにノーメイクを命じ、白塗りが当然であった東映時代劇に風穴を開けた。錦之助とはさらに『瞼(まぶた)の母』(1962)と『沓掛(くつかけ)時次郎 遊侠一匹』(1966)で組み、低予算の早撮りであっても一切の妥協を許さず、股旅時代劇の美学を追求した。他に大川橋蔵(1929―1984)主演で『ハムレット』を翻案した『炎の城』(1960)、リアリズムに徹して夏の暑さと男女の情念を刻み付けた『怪談お岩の亡霊』(1961)、安保闘争後の時代の気分を色濃く反映させたミュージカル『真田(さなだ)風雲録』(1963)、新選組の内幕をあばく集団劇『幕末残酷物語』(1964)など、時代劇の枠内で多彩な作品を手がける。

 東映が時代劇から任侠やくざ映画に路線を転換すると、『明治侠客伝 三代目襲名』(1965)で渡世の掟と男女の愛の間で煩悶する侠客(鶴田浩二(1924―1987))を情感豊かに描き、その後の任侠映画の基調を決定する佳品とした。『緋牡丹(ひぼたん)博徒 花札勝負』(1969)、『緋牡丹博徒 お竜参上』(1970)、『緋牡丹博徒 お命戴きます』(1971)の3作も、任侠映画の型を忠実に踏襲しながらも、女侠客お竜の女としての一面を繊細に描いたもので、加藤の代表作である。こうした作品を量産するなかで、地面に穴を掘ることも辞さない極端なローアングル、画面の前と奥とで同時に複数のものを捉える深い構図など、加藤泰特有の美学は培われた。1970年代に入ると、各社は量産をやめて大作主義をとるようになるが、『人生劇場』(1972)、『日本侠花伝』(1973)、『炎のごとく』(1981)などの大作でも独特の様式美とリアリズムの融合はさらなる深みに達した。スイスのロカルノ映画祭、オランダのロッテルダム映画祭などで特集上映が組まれた際には大きな驚きをもって迎えられ、今なお「発見」の途上にある映画作家である。

[常石史子]

資料 監督作品一覧

潜水艦(1941)
泡(1943)
虱(しらみ)は怖い(1944)
軍官学校(1944)
剣難女難 女心転心の巻(1951)
剣難女難 剣光流星の巻(1951)
清水港は鬼より怖い(1952)
ひよどり草紙(1952)
忍術児雷也[萩原遼との共同監督](1955)
逆襲大蛇丸(1955)
恋染め浪人(1957)
源氏九郎颯爽記 濡れ髪二刀流(1957)
緋ざくら大名(1958)
源氏九郎颯爽記 白狐二刀流(1958)
風と女と旅鴉(1958)
浪人八景(1958)
紅顏の密使(1959)
大江戸の侠児(1960)
あやめ笠 喧嘩(けんか)街道(1960)
炎の城(1960)
朝霧街道(1961)
怪談お岩の亡霊(1961)
瞼の母(1962)
丹下左膳 乾雲坤竜(けんうんこんりゅう)の巻(1962)
真田風雲録(1963)
風の武士(1964)
車夫遊侠伝 喧嘩辰(1964)
幕末残酷物語(1964)
明治侠客伝 三代目襲名(1965)
沓掛時次郎 遊侠一匹(1966)
骨までしゃぶる(1966)
男の顔は履歴書(1966)
阿片台地 地獄部隊突撃せよ(1966)
懲役十八年(1967)
みな殺しの霊歌(1968)
緋牡丹博徒 花札勝負(1969)
緋牡丹博徒 お竜参上(1970)
緋牡丹博徒 お命戴きます(1971)
昭和おんな博徒(1972)
人生劇場 青春篇・愛欲篇・残侠篇(1972)
花と龍 青雲篇・愛憎篇・怒濤(どとう)篇(1973)
宮本武蔵(1973)
日本侠花伝(1973)
江戸川乱歩の陰獣(1977)
炎のごとく(1981)
ざ・鬼太鼓座(1994)

『山根貞男著『遊侠一匹 加藤泰の世界』(1970・幻燈社)』『伊藤大輔著、加藤泰編『時代劇映画の詩と真実』(1976・キネマ旬報社)』『『映画監督山中貞雄』(1985・キネマ旬報社)』『『加藤泰映画華』(1995・ワイズ出版)』

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百科事典マイペディア 「加藤泰」の意味・わかりやすい解説

加藤泰【かとうたい】

映画監督。本名加藤泰通。神戸市生れ。愛知県工業学校中退。1937年叔父の山中貞雄の縁で東宝砧撮影所に入社。記録映画から出発し,戦後大映に移籍して《剣難女難》(1951年)で劇映画デビュー。その後東映に移り,主に時代劇を手がける。代表作に《風と女と旅烏》(1958年),《瞼の母》(長谷川伸原作,1962年),《沓掛時次郎・遊侠一匹》(1966年)などの股旅物,《明治侠客伝・三代目襲名》(1965年)や藤純子主演の《緋牡丹博徒・花札勝負》(1969年)などの任侠映画がある。独自のローアングルのカメラワークによって登場人物の感情を流麗,的確に描く手法に定評があった。
→関連項目渥美清高倉健

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20世紀日本人名事典 「加藤泰」の解説

加藤 泰
カトウ タイ

昭和期の映画監督,シナリオライター



生年
大正5(1916)年8月24日

没年
昭和60(1985)年6月17日

出生地
兵庫県神戸市

本名
加藤 泰通(カトウ ヤスミチ)

学歴〔年〕
愛知県立工業学校中退

主な受賞名〔年〕
京都市民映画祭監督賞〔昭和45年〕,年間代表シナリオ〔昭和48年〕「日本俠花伝」,くまもと映画祭特別功労賞(第1回)〔昭和50年〕,ヨコハマ映画祭特別大賞〔昭和56年〕

経歴
昭和12年叔父の山中貞雄監督の紹介で東宝撮影所助監督部に入ったが、戦後は大映、東映へと移り、シナリオ、監督の両分野で活躍、ローアングルの長回しによる独特の映像を生んだ。37年の「瞼の母」、41年「沓掛時次郎・遊俠一匹」は戦後の股旅物の最高傑作といわれるが、任俠映画にもさえをみせ、藤純子の「緋牡丹博徒」シリーズのうち「花札勝負」など3作を監督している。シナリオ集「日本俠花伝」のほか、「遊俠一匹・加藤泰の世界」「映画監督山中貞雄」などの著書がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤泰」の解説

加藤泰 かとう-たい

1916-1985 昭和時代の映画監督。
大正5年8月24日生まれ。昭和12年東宝に入社。はじめ記録映画をとり,戦後,「剣難女難」(宝プロ)で時代劇の監督として再出発する。のち東映にうつり,「緋牡丹(ひぼたん)博徒」シリーズなどで,任侠(にんきょう)映画に新境地をひらいた。昭和60年6月17日死去。68歳。兵庫県出身。愛知県工業学校中退。本名は泰通(やすみち)。作品に「瞼(まぶた)の母」「人生劇場」「花と竜」など。

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367日誕生日大事典 「加藤泰」の解説

加藤 泰 (かとう たい)

生年月日:1916年8月24日
昭和時代の映画監督;シナリオライター
1985年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の加藤泰の言及

【三代目襲名】より

…1960年代に一世をふうびした東映やくざ映画の中の最高傑作の一つで,正式題名は《明治俠客伝・三代目襲名》(1965)。監督は加藤泰。原作は紙屋五平で,脚本は村尾昭,鈴木則文による。…

※「加藤泰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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