勝田庄(読み)かつまだのしよう

日本歴史地名大系 「勝田庄」の解説

勝田庄
かつまだのしよう

和名抄」勝田郡勝田郷の郷名をつぐものか。勝央町南部の勝間田かつまだを遺称地とし、文安二年(一四四五)の上分米散用状断簡(熊野那智大社文書)などでは大半が荒作となっているので、同地一帯たき川の氾濫原に推定される。紀伊熊野那智山領。

「東進記」建仁元年(一二〇一)五月二九日条に京都六勝寺の一、成勝じようしよう寺領勝田庄がみえるが詳細は不明。貞応二年(一二二三)五月一四日の長厳譲状(東寺百合文書)に那智山領とあり、預所職は京都東寺の前大僧正長厳の血脈が相伝し道厳に譲られ、宝治二年(一二四八)九月四日には道朝に譲られている(「道厳譲状案」同文書)

勝田庄
かつまたのしよう

勝間田かつまた川流域を庄域とした庄園で、「和名抄」記載の蓁原はいばら郡勝田郷の郷名を継承したとみられる。成立時期は明らかでなく、「洞院摂政記」の天福元年(一二三三)七月二五日条に崇徳院領遠江国勝田庄とあり、当庄について宣旨が出されているが、内容は不明。建長八年(一二五六)九月二九日の崇徳院御影堂領目録写(華頂要略)によると当庄は上・下両村からなり、粟田あわた宮社が本家職で、御影堂が領家職であった。粟田宮社は保元の乱で死去した崇徳上皇と左大臣藤原頼長を祀る崇徳院社(跡地は現京都市左京区)を建久三年(一一九二)一一月に粟田口(現同市東山区)に移転したもので、崇徳上皇の絵像を祀る崇徳院御影堂を併設しており(「師守記」暦応三年三月五日条など)、御影堂の別当職は京都青蓮しようれん院門跡が相伝した。

勝田庄
かんだのしよう

「民経記」天福元年(一二三三)五月巻の紙背文書の年月日未詳某書状断簡(東洋文庫蔵)に「伯州勝田庄」とみえる。同庄は某氏が六代にわたって相伝した地であったが、おそらく承久の乱で後鳥羽上皇方に加わったため没収され、新補地頭が補任された地となっていた。「大山寺縁起」にみえる「当国髪田の浦人」も勝田と同地域をさすと考えられる。勝田庄の比定地については、現米子市勝田町を遺称地とする近世の勝田庄、米子市北部から現境港市にかけての一帯とする説などがある。境港市外江とのえ補岩ほがん寺蔵の木造阿弥陀如来坐像の永禄一〇年(一五六七)一一月の墨書銘に「伯州相見郡勝田庄外江村」とみえており、戦国期の勝田庄は外江を含んでいたことになる。

勝田庄
かつたのしよう

加茂かも上加茂かみがもから北方芦原あしはらにかけての地に比定される京都賀茂御祖かもみおや(下鴨神社)領の荘園芦原には賀茂神社がある。寛治四年(一〇九〇)七月一三日の太政官符(賀茂社古代庄園御厨)に、賀茂御祖社に寄進された不輸田七四五町の一部として「備後国勝田庄 田地四十町」とみえ、以後同社領として維持されたことは下賀茂神戸記(内閣文庫蔵)に散見する記事や、「親長卿記別記」所載の伝奏奉書案によって知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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