翻訳|chemistry
( 1 )中国で、王韜の咸豊五年(一八五五)二月一四日付の日記に「戴君特出奇器、盛水於桮交相注、曷頓復変色、名曰化学」とあるのが古い例。
( 2 )日本での使用は、幕末の蕃書調所の教授方であった川本幸民が万延元年(一八六〇)にオランダ語原書を訳した稿本に「化学書」と題したのが最初であるとされる。明治二年(一八六九)、同局が大阪に移された際には「舎密局」とされるなど、明治初期には旧来の「舎密(セイミ)」が使用されることもあった。→「せいみ(舎密)」の語誌
われわれの身のまわりのもの,われわれ自身,われわれの住みかである地球,その地球の外に広がる宇宙,これらを構成する物質の,合成,分析,構造や性質の解明,さらには物質相互の間の反応を研究する自然科学の一部門。化学では単体も化合物も扱うが,どちらの場合も比較的単一な組成をもつ物質を扱う場合が多い。その対象がきわめて広範なので,化学をいくつかの分野に分けて考えるのが便利である。最も一般的な分類は,物理化学,有機化学,無機化学,生物化学,応用化学の対象・方法別の5分野への分類である。これは大学の組織や教育カリキュラム,あるいは専門雑誌の分類などにも対応している。これらの分類のなかで応用化学は巨大な分野であり,それ自体を化学(応用化学に対して純粋化学ということがある)と同等の部門として扱うことがある。このような分類は便利ではあるが学問の進歩に必ずしも対応できないので,新しい小分野が提案され用いられている。化学物理学はその一例である。また,既存の分野をさらに小分野に細分化する動きもある。その例は物理有機化学である。しかし,これらの分類は専門家の間では通用しているが,一般的には伝統的な従来の分類が用いられている。
学問としての化学の方法論の特色は〈物質を対象とする学問〉にあるといえよう。その具体的な作業が〈実験〉である。実験は,化学物質の構造や性質を知るために最も適当と考えられる条件下に研究対象の物質を置き,その物質から得られる応答を記録・解析する操作である。錬金術の時代以来,実験の多くはなんらかの化学反応を伴うため,ビーカーや試験管などの器具の使用や加熱,蒸留といった操作は化学を特徴づけた。このとき,化学の研究は必ず実験台での実験を伴うものと考えられていた。しかし19世紀末あたりから分光器をはじめとする測定機器が実験に導入され,また化学の一分野として物理化学が確立すると,化学実験の内容も変化し,測定も化学実験の重要な部分となった。また,いわゆる実験を伴わない理論だけの研究も化学研究として認められるようになった。おおまかにいって,化学はつねに物質を取り扱うため,数学や物理学ほど抽象的にはなりえない反面,生物学ほど複雑な系を対象としないという特色がある。自然科学の各部門をより基礎的なものから順に並べると,化学は数学,物理学に次ぎ,生物学に先行する。その基礎的性格のため教育カリキュラムにおいても,初等化学に対応する内容はすでに小学校において取り扱われ,中学校,遅くとも高等学校もしくは同等の学校において〈化学〉は独立の教科目として教えられている。化学を職業とする人も,大学,高校ないし中学の教師や化学工業関係の企業で働く研究者や技術者から税関や警察等に所属する分析化学者に至るまで,きわめて広い範囲に及んでいる。日本をはじめ世界のほとんどの国では化学者のつくる学会があり,場合によっては化学の分野あるいは小分野に対応する学会がある。このほかに,各国化学会の連合組織である国際純正応用化学連合(IUPACと略称)があり,化学の世界における,国際連合の役割を果たしている。
化学(英chemistry,独Chemie,仏chimie)という語の語源がギリシア語のchēmeiaであることに異論はないようである。しかしchēmeiaの本来の意味が何であったかに関しては種々の説がある。一説にはchēmeiaは〈黒い土〉を意味するエジプト語kemetに,一説には〈汁〉を意味するギリシア語chymosに由来するといわれている。人間は原始時代から火の利用を通じて,今日の言葉でいえば化学反応を観察し,またみずから反応を起こしていた。金属の精錬はその代表的なものである。銅の冶金はおそらく前6000年ころに始まり,前3500年ころの製品とされるエジプト産鑿(のみ)の銅の純度はすでに99.9%に達していた。そのほか古くから知られていた化学にかかわりの深い技術としては,製陶とガラスの製造,醸造,獣皮なめし,紡績,染色などがある。
化学には理論的側面もある。前600年ころまでに,技術よりは今日の化学理論ともいうべきものにより関心を示す民族があらわれた。古代ギリシア人たちである。イオニアの植民市ミレトスのタレスは,宇宙に広がる万物は〈水〉というただ一つの基本的材料,すなわち元素からできていると主張した。同じミレトスのアナクシメネスは,宇宙の元素は〈空気〉であるという結論に達した。一方,エフェソスのヘラクレイトスは,変化こそ宇宙の特色であり,絶えず変化する〈火〉こそ元素にふさわしいと考えた。下って前5世紀のシチリア出身のエンペドクレスは,宇宙の元素を1種に限る必要はなく,水,空気,火に,みずからは〈土〉を加えた四元素説を提案した。この説はアリストテレスによって引き継がれた。彼はこの四元素のほかに,さらに天体をつくる〈第五元素〉を加えた。ギリシアの哲学者たちが取り組んだもう一つの問題は,〈物質はどこまで分割可能か〉であった。レウキッポスとその弟子デモクリトスは,物質はこれ以上分割できない究極的な小粒子からなると考えた。この小粒子は〈分割できない〉という意味でアトモスと呼ばれたが,これは今日の〈アトム(原子)〉の語源である。古代原子論はアリストテレスによって強く批判され,古代,中世を通じて一種の異端思想であったが,ルクレティウスの詩やエピクロス派の教説によって後世に伝えられた。
アリストテレスに代表されるようなギリシア人の化学に対する哲学的取扱いは,アレクサンドロス大王が開き,その死後エジプトの首都となった都市アレクサンドリアにおいて,エジプトに栄えていた化学技術と出会った。エジプト人は古くから金属を利用するための冶金術や死体防腐術等の技術をもっていた。しかし,これらの技術は宗教と深く結びついていたために,その後の知識の進歩は著しく妨害された。たとえば当時知られていた7種の金属は七つの惑星に結びつけられ,化学に占星術的な要素が入り込んでいた。それにもかかわらず当時の化学技術水準の高さは,《ライデン・パピルス》に記された金属製造の処方等からうかがい知ることができる。また,メンデスのボロスBōlos(前200年ころ活躍か)に帰せられる〈偽デモクリトス文書〉の筆者らが,chēmeiaの目的は卑金属を金に変成すること(錬金術)であるという考えを述べた。
ローマ時代に入るとchēmeiaの術は他のギリシア由来の学術と同様急速に衰えた。とくに100年以後には新しい知見はほとんど得られず,また残されたものもキリスト教を国教としたローマ帝国によって破壊される運命にあった。しかし,これらヘレニズムの知的遺産は,ネストリウス派や単性論派の人たち,およびユダヤ教徒,サービア教徒らによって,シリアを経由してアラビア世界に伝えられていった。
アラビア世界ではギリシアの科学一般が尊重された。chēmeiaはアラビア語ではal-kīmiyā’(alはアラビア語の定冠詞)となるが,この語は後にヨーロッパに受け継がれ,英語ではalchemy(錬金術と訳されることが多い。これに従事する人はalchemist錬金術師という)と呼ばれるようになった。アラビアにおける錬金術は,ハールーン・アッラシード(在位786-809)の治下の時代に生きたゲーベル(ジャービル・ブン・ハイヤーン)においてその頂点を極めた。彼は,すべての金属は水銀と硫黄の混合物であり,両者の混合と平衡を容易にする物質al-'iksīr(ヨーロッパではエリクシルelixir)を発見すれば金への変成が可能になる,と述べた。卑金属を金に変えるエリクシルはまた不老長生薬のはずでもあった。ゲーベルの学統には,ラージー,イラーキーal-`Irāqīらがおり,前者は化学処理や実験技法を重視した。
ギリシアの文献のアラビア語訳を介しての受容は,ヨーロッパでは1000年ころから行われていたが,とくに12世紀にはスペイン,シチリア,北イタリアを中心に本格化し,ヨーロッパはここに〈12世紀ルネサンス〉と呼ばれる一大転換期を迎えることになった。アラビアの錬金術書も熱心にラテン語訳され,アルベルトゥス・マグヌス,R.ベーコン,アルナルドゥス・デ・ウィラノウァ,R.ルルスらが深い関心を寄せた。
ルネサンス期に入ると,錬金術においても変成の可能性の追求だけではなく,もっと実用的な側面も重視されるようになった。G.アグリコラは《デ・レ・メタリカ》を著して当時の冶金術を集大成する一方,パラケルススは,錬金術の目的は変成でなく,役に立つ医薬をつくることである,と説いた。とくに彼は生薬よりも鉱物から得た薬を重んじた。理論面では彼は四元素説,三原質説を主張した。その後も依然として金属変成に関心は強かったが,錬金術の実験的側面が強調され知識の量はしだいに増えてきた。リバウィウスAndreas Libavius(1560ころ-1616)の《錬金術》,B.ウァレンティヌスの《アンチモンの凱旋戦車》などがこの時代を代表する化学的著作である。J.R.グラウバーはグラウバー塩(硫酸ナトリウム十水塩)を商業規模で製造販売して巨利を得た。これは錬金術の新しい発展の方向を示したといえよう。
17世紀に入ってフランドルのJ.B.vanヘルモントは,それまであまり関心を払われなかった気体を研究し,気体の多様性に関する手がかりを得た。真空の存在をめぐる議論や実験の積重ねのなかから気体の物理的性質に対する理解がしだいに深まり,1662年R.ボイルは気体の体積と圧力との反比例関係(ボイルの法則)を発見した。ボイルは,I.ニュートンやR.フックとともにローヤル・ソサエティの創始者の一人であり,錬金術の分野における17世紀科学革命の推進者であった。彼は,四元素説も三原質説のいずれも,いわば第一原理からの演繹(えんえき)によって元素を定義する試みであるとして,その正当性を疑った。代りに彼は,それ以上単純な物質に分解されない物質を元素とする新しい基準を提案した。しかし古い物質観が直ちに消滅したわけではなかった。1669年ベッヒャーJohan Joachim Becher(1635-82)は,古代ギリシア時代から漠然と考えられていた可燃性の本体に〈油性の土〉という名を与えた。この考え方をさらに推し進めたG.E.シュタールは,可燃性の本体を〈点火する〉という意味のギリシア語にちなんで〈フロギストンphlogiston〉と命名した。フロギストン説によると,燃焼は可燃性物質からのフロギストンの放出であった。また,冶金は,フロギストンに乏しい鉱石に木炭が含むフロギストンが移行して金属を生じる過程,として説明された。
18世紀に入ると気体の研究が著しく発展した。ヘールズStephan Hales(1677-1761)の水上捕集法の発見に助けられ,J.ブラックは二酸化炭素を,ラザフォードDaniel Rutherford(1749-1819)は窒素を,H.キャベンディシュは水素を,J.プリーストリーとC.W.シェーレは独立に酸素を,それぞれ発見した。しかし,発見者たちは各気体をフロギストン説の枠組みの中に位置づけようとした。これに対してA.L.ラボアジエは,燃焼等の化学反応に伴う重量変化を厳密に測定し,燃焼(煆焼(かしよう))によって金属の重量は増す一方,それだけの重量が空気から失われるのを発見した。この事実に基づき,ラボアジエは物質の燃焼が空気中の酸素との化合であることを示した(1784)。ラボアジエは彼の燃焼理論を基礎として,きたるべき世代の化学者のための教科書《化学要論》2巻(1789)を出版した。この本は物理学のなかでニュートンの《プリンキピア》が占めているものと同じ位置を占めているといわれている。ラボアジエの業績を中心としたこの時代の化学の発展は〈化学革命〉と呼ばれ,また,ラボアジエは〈近代化学の父〉と呼ばれている。
ラボアジエによって開かれた近代化学は,19世紀に入ると急速に目ざましい発展をとげた。ラボアジエによって測定の重要性が認識されたため,化学反応の生成物の元素組成の測定が行われるようになった。J.L.プルーストは,どのような条件でつくられようとも一つの化合物の元素組成は一定であるという〈定比例の法則〉を発見した(1799)。J.ドルトンは,2種の元素AとBが化合して2種以上の化合物をつくるとき,各化合物で一定量のAと化合するBの重量は簡単な整数比をなすという〈倍数比例の法則〉を発見した(1802)。この二つの経験則は物質がこれ以上分割できない原子からなると考えれば説明できると考えたドルトンは,《化学哲学の新体系》3巻(1808-27)において彼の原子論を展開した。ドルトンによれば,2種の元素A,Bからなる二元化合物では原則としてA,B各1原子が,時に応じて1対2ないし2対1などの割合で化合した。しかし気体状態では各物質1個が同一体積を占めると仮定すると,ドルトンの原子説はJ.L.ゲイ・リュサックが発見した〈気体反応の法則〉と矛盾する面があった。この問題をA.アボガドロは,酸素や窒素などの気体は2個の原子からなる〈分子〉として存在しているという考え方で説明した。しかし〈分子説〉が受け入れられるようになったのは,アボガドロの説の重要性を見抜いたS.カニッツァーロが,これをカールスルーエの第1回国際化学者会議(1860)で強く訴えて後のことである。
ドルトンの原子説が現代化学の化学構造論の先駆をなすとすれば,現代化学の化学結合論ないし化学反応論の先駆をなすものはベリマンTorbern Olof Bergman(1735-84)によって完成された〈親和力〉説である。この説はゲーテなども含めて当時の知識人によって広く受け入れられたが,しかし,だれも物質間に働く親和力の本性を明らかにすることはできなかった。19世紀に入ってボルタ電池が化学者によって利用されるようになった。水が電気分解されるのをみて,H.デービーは電流によって強く化合している2物質を切り離す可能性に思い至った。ローヤル・インスティチューションにつくられた極板250枚以上の強力な電池の力を借りて,デービーは融解塩からカリウム,ナトリウムなどの単離に成功した(1807)。これらの事実に基づいて,J.J.ベルセリウスは電気化学的二元論を展開した。それによると,すべての原子は正電荷・負電荷のいずれかをもっており,化学結合は反対電荷をもつ原子間の電気力によって生じるとした。デービーの発見から半世紀後,R.W.ブンゼンとG.R.キルヒホフは,共同でスペクトル分析の手法を元素の同定に用いる方法を確立し,この方法によって,新元素セシウムとルビジウムを発見(1958)した。この手法は他の化学者によっても用いられ,多くの元素の発見に役立った。
1830年前後には,知られている元素の数は約55であった。四元素説時代には思いもよらぬ数であった。しだいに雑然と大きくなっていく元素の表を整理する試みがつぎつぎになされた。だがJ.W.デーベライナーの〈三つ組元素〉(1827),J.A.ニューランズの〈オクターブの法則〉(1864),シャンクルトアAlexandre Émile Béguyer de Chancourtois(1819-86)の〈テルルのらせん〉(1862)などの試みは,いずれも十分な説得力がなかった。D.I.メンデレーエフはニューランズのものに似た表を作成したが,その際彼は原子量よりも原子価を重んじ,その結果生じた表の空欄は未発見の元素のための場所であると仮定した(1869)。彼は未発見元素の性質を精密に予言したが,それは後にすべて事実であることが確かめられ,〈周期表〉の声価はここに定まった。1886年,F.F.H.モアッサンは融解電解法を用いて,これまで多くの化学者が試みて果たさなかったフッ素の単離に成功した。94年レーリーとW.ラムゼーが新元素アルゴンを発見し,ラムゼーは引き続いてヘリウム,ネオンなど一群の希ガス元素を発見した。しかし,これはメンデレーエフの体系を損じるものではなく,むしろこれを補強する役割を果たした。
19世紀の最初の四半世紀が終わるまで有機化合物の化学には見るべき進歩が少なかった。わずかにシェーレが若干の有機酸の単離に成功しただけであった。有機物は生命の助けを借りなければつくれないという〈生気説〉が有機物への関心の妨げとなっていたのである。1828年F.ウェーラーは無機物であるシアン酸アンモニウムから有機物である尿素を得,さらに45年A.W.H.コルベは単体から一連の反応で酢酸を合成し生気説にとどめをさした。しだいに数多くの有機物が単離あるいは合成されると,これらは無機物と異なり組成が互いに類似していることがわかってきた。まったく性質が異なるのに同一組成をもつ化合物がJ.F.vonリービヒとウェーラーによって発見され,これらは互いに異性体であるといわれるようになった。彼らはまた,多くの有機物に共通して含まれる原子団(基)があり,これらは簡単な無機物における根の役割を果たすことを認めた。〈基〉(根ともいう)の発見は有機物の構造理論の最初の手がかりとなった。ベルセリウスは,基は不可分の物質の構成単位で,電気力によって有機物分子をつくる,と考えた。しかしJ.B.A.デュマとローランAuguste Laurent(1807-53)は,電気的な力に重点をおかず,種々の基が結合できる〈核〉を考えた。核の種類に応じて有機物は〈型〉に分類される。この〈基型説〉は有機化合物の百科全書を計画していたバイルシュタインFriedrich Konrad Beilstein(1838-1906)によっても採用され,以後の有機化合物分類の基礎となった。基型説に従って分類すると,たとえばアルコールやエーテルにおいて酸素原子はつねに2個の水素または炭素原子と結合していることが認められる。E.フランクランドは,有機金属化合物の研究を通じて,この種の関係の一般性を認め,各種の原子は一定の結合力すなわち〈原子価〉をもつ,と述べた(1852)。この考え方をF.A.ケクレとクーパーArchbald Scott Couper(1831-92)は有機化合物に拡張し,炭素の原子価を4とし,かつ他の原子と結合する際原子価を2以上用いた二重結合,三重結合を認めれば,すべての有機物の構造が説明できることを示した(1858ころ)。ブトレロフAleksandr Mikhailovich Butlerov(1828-86)はこの説をさらに進めて,クーパーの提案した結合を表す直線を用いて書かれた構造式は単に原子価の割当ての心覚えではなく実際の分子の構造に対応し,異なる構造式には異なる実在分子(異性体)が対応するという考えを述べた。有機化合物の構造理論は2回にわたって飛躍した。1864年ケクレはベンゼンの環状構造を提案した。これによって芳香族化合物の化学の扉が開かれた。芳香族化合物が工業的に重要な意味をもつことは,このころからしだいにはっきりしてきた。1858年W.パーキンが最初のアゾ染料モーブをつくった。68年J.F.W.A.vonバイヤーは天然染料インジゴの合成に,また同年バイヤーの弟子のC.グレーベとC.T.リーバーマンは協力してもう一つの天然染料アリザリンの合成に成功した。天然産のものに比べて安価で品質が一定していた合成染料はほどなく市場から天然産染料を駆逐し,化学工業時代の幕が開いた。
もう一つの大きな飛躍はJ.H.ファント・ホフとル・ベルJ.A.Le Bel(1847-1930)によってなされた。彼らの唱えた炭素正四面体説(1874)は,分子内の原子の配列を三次元的にとらえる立体化学の基礎となった。A.ウェルナーは,遷移金属がつくるある種の化合物においては,金属原子は単純な原子価説では説明できない原子価をもつことを説明する〈配位説〉を提案した。配位説は20世紀に開花した錯体化学への道を開いた。E.フィッシャーは糖類の構造の解明に際して炭素正四面体説をよりどころにした。糖類でのみごとな成功によって炭素正四面体説は疑う余地のないものとなった。19世紀後半は文字どおり有機化学の世紀であった。天然から単離され,あるいは新規に合成された化合物の構造を決めることは容易ではなかった。しかし有機化学者たちは新化合物をまぎれのない方法で既知化合物に変換し,標準試料と比較(混融試験)して同定するという方法を編み出した。彼らが提出した構造の一部は20世紀後半になって分光学的手段によって再検討されたが,誤りが発見された場合はほとんどなかった。
化学が発展した17,18世紀を通じて,物質の化学変化を取り扱う化学と物理変化を取り扱う物理学とは互いにほとんど無関係であった。しかし19世紀における熱学の発展がきっかけとなって,両者の接点に位置する物理化学が誕生した。熱化学と電気化学がそのなかで最も早く登場した。ヘスGermain Henri Hess(1802-50)は,反応熱はその経路によらないという〈ヘスの法則〉を発見(1840)した。1878年にはアメリカのJ.W.ギブズが,その間になされた熱力学の進歩をふまえて,化学反応にエネルギー面を規定する〈自由エネルギー〉の概念を導入した。化学熱力学がつくられると同時に,化学反応論もしだいに形づくられた。ウィルヘルミLudwig Ferdinand Wilhelmy(1812-64)は,ショ糖の転化速度を数式に表現して化学反応速度の定量的扱いに成功した。1862年,ノルウェーのC.M.グルベルグとP.ボーゲは,化学平衡の位置は各成分の濃度比で決まるという〈質量作用の法則〉を述べた。ギブズやグルベルグとボーゲの研究は当時の学問の中心であるヨーロッパから離れたところでなされたため,すぐには影響を与えることはできなかったが,やがてF.W.オストワルトによってギブズの研究が紹介された。ギブズの研究の多くはやや遅れて独立にファント・ホフによっても進められた。彼は,希薄溶液においては溶質分子は気体分子に似た挙動をすることを見いだし,これを〈浸透圧の法則〉にまとめた。希薄溶液に関しては,ラウールFrançois Marie Raoult(1830-1901)は1886年〈ラウールの法則〉を発表した。この法則は分子量測定におおいに役立った。1884年S.A.アレニウスは,電解質は溶液中ではイオンに解離しているという〈電離説〉を発表した。これはラウール,ファント・ホフ,オストワルトらの観察を説明できる新しい説であった。アレニウスはまた,化学反応速度を決める活性化エネルギーの概念に基づいて〈アレニウスの式〉をまとめた(1889)。オストワルトは彼の〈触媒〉理論をアレニウスのこの考えに基づいて仕上げた。
化学の進歩にともない分析化学にはより精密さが要求されるようになった。19世紀半ばフレゼニウスKarl Remegius Fresenius(1818-97)は,定性・定量両分析に関して優れた教科書を書き,分析化学の手法を確立した。容量分析では,モールKarl Friedlich Mohr(1806-79)がいくつかの有用な改良法を提案した。分析化学者の任務には通常の分析のほか,とくにカールスルーエの国際会議以降は原子量の精密測定が含まれるようになった。この分野においてベルセリウス以降,スタスJean Servais Stas(1813-91),T.W.リチャーズらの寄与が目だった。
19世紀の化学が1800年のボルタ電堆の発見によって華々しく幕を開けたのと同様に,20世紀の化学はX線の発見(1895),電子の発見(1897),放射能の発見(1898)という19世紀末の三つの発見によって特徴づけられた。これらはいずれもドルトン的な不可分の原子を否定し,原子にも構造があることを示した。原子構造の解明は本来物理学の仕事であるが,化学者は化学結合を説明するのに適した原子構造理論を求めていた。N.H.D.ボーアによる〈ボーア模型〉の提案(1913),およびH.G.J.モーズリーによる原子番号の発見(1916)がその役を果たした。W.コッセルは,希ガス型電子配置の安定性に基づいて静電気的引力によるイオン結合の生成を説明する静電的原子価論を展開した。G.N.ルイスとI.ラングミュアは,原子の電子核を立方体を用いて表現し,電子がその八隅で振動しているとする八隅説を唱え,イオン結合のみならず共有結合の説明に成功した。さらに八隅則が適用できなくなることもある第三周期以降の元素を含む化合物の結合様式を説明するため,イギリスのシジウィックNevil Vincent Sidgwick(1873-1952)は有効原子番号則を発見し,配位結合の考え方を提案した。水素分子の共有結合の理論はW.ハイトラーとF.ロンドンによって初めて定量的基礎が与えられ(1927),さらにスレーターJohn Clarke Slater(1900-76),L.C.ポーリングによって拡張され,原子価結合法として体系化された。これは今日でもなお有用な手法として利用されているが,一方同じころ,フントFriedlich Hund(1896-1997),マリケンRobert Sanderson Mulliken(1896-1986),ヒュッケルErich Armand Arthur Joseph Hückel(1896-1980)らによって,原子価の量子論である分子軌道法が展開された。分子軌道法は初めはヒュッケル法のようにπ電子だけを扱い,必要なエネルギー積分の値を経験的パラメーターとみなす経験的方法であった。電子計算機の発達とともに,ヒュッケル法の近似を高めたパリザー・パール・ポープル法(PPP法と略す)のような半経験的方法,アプ・イニシオab initio法のように厳密な計算によって分子軌道関数を求める非経験的方法が,しだいに用いられるようになってきた。これに対し,静電的な取扱いは金属塩類とくに金属錯体中心の配位結合の理解に必要であった。1929年ベーテHans Albrecht Bethe(1906-2005)は結晶場理論を提案したが,現在これは配位子場理論として広く用いられている。反応速度論の進歩も目ざましかった。ボーデンシュタインErnst August Max Bodenstein(1871-1942)の連鎖反応理論(1913)から素反応の研究が始まった。ヒンシェルウッドCyril Norman Hinshelwood(1897-1967)の単分子反応理論(1922)のあと,ポラーニPolányi Mihály(1891-1976),アイリングHenry Eyring(1901-82)の絶対反応速度論が提案された。反応速度論に関連して,20世紀における顕著な進歩は定量的に取り扱いうる反応速度の幅の拡大であった。流通法flow techniqueでは半減期が10⁻3s程度の反応が限界であったが,ノリッシュRonald George Wreyford Norrish(1897-1978),ポーターGeorge Porter(1920- )の開発になる閃光法(1950ころ)では半減期10⁻6sくらいの,M.アイゲンの開発した緩和法では10⁻8~10⁻9sの反応が取り扱えるようになり,水溶液中のイオン反応,気相中の爆発反応などの詳細が明らかになってきた。もともと化学反応論と化学構造論とは独自の発展の道を歩んできたが,この二つはしだいに接近するようになってきた。溶液の物性に関する研究で特筆すべきものは,P.J.W.デバイとヒュッケルが1923年に提出した強電解質溶液の理論である。溶液論に統計力学が応用されるようになって,高分子溶液論やレオロジーの研究が盛んになった。フローリーPaul John Flory(1910-85)は,フローリーの式(1942)によって鎖状高分子の性質の異常性を説明することができた。
20世紀の物理化学を特徴づけるもう一つの新しい波は固体化学の発展である。1930年代まで,固体化学は粘土を代表とする無機物質の構造・物性の研究がその守備範囲であった。しかし,第2次大戦末期に登場したゲルマニウムやシリコンで代表される無機半導体物質は,基礎から応用まで広範囲にわたって固体化学の内容を一変してしまった。この物質の電気物性を対象とした半導体材料の研究は,物質科学(マテリアル・サイエンス)の研究を着火させ,超電導物質,強磁性体材料,光学材料等を物性物理学と固体化学が組んで発展を続けている。1950年以降これに有機固体の研究が加わった。本来有機分子は,その美しい色(染料),よい香り(香料),そして生理活性(医薬品)など,分子1個1個の示す特性がその研究の対象であった。ところでナイロンやエボナイトなど分子が集合してできる有機固体の力学的性質の利用に加えて,電気的性質に着目した有機半導体および有機導体の研究が開始されたのは1940年代の終りである。これらは光や力学,磁性等の特性を生かした機能性有機固体の研究に展開し,たとえば耐熱性高分子や金属に代わる炭素繊維を用いた複合材料など応用面での著しい発展がみられた。そして材料科学の進歩は再び,粘土など無機材料の研究を活性化し,いわゆるセラミックスの研究を著しく進展させた。固体化学の加わる材料科学は〈21世紀の科学〉としての位置づけを得つつある。
20世紀の有機化学実験室をそれ以前の実験室と区別するのは,分離手段としての各種クロマトグラフィーと構造決定のための各種分光器である。1906年ころロシアの植物学者ツベートMikhail Semyonovich Tsvet(1872-1919)は,色素混合溶液を炭酸カルシウムカラムを通過させて分離し,クロマトグラフィーの手法を創案した。40年代にマーティンArcher John Porter Martin(1910-2002)とシンジRichard Lawlence Millington Synge(1914-94)は,分配クロマトグラフィー,ペーパークロマトグラフィーを考案した。50年代にはガスクロマトグラフィーや薄層クロマトグラフィーが導入された。これらはいずれも,あらゆる分野の化学者の重要な物質精製手段となった。20世紀における物質科学の爆発的進歩を支える原動力となった。紫外・可視分光器や赤外分光器はすでに19世紀後半から用いられていたが,いずれも手動式のもので特殊な目的にしか利用されなかった。第2次大戦中,合成ゴムやペニシリンの研究でこれらの機器の重要性が認識され,自記式分光器が開発され急速に普及した。質量分析装置は1919年F.W.アストンによって考案され,同位体の確認やその存在比と質量欠損の測定に利用された。1940年代には質量分析器は有機化合物とくに石油系炭化水素混合物の分析に利用されるようになった。イオン化法や検出手段の改善にともない,質量分析法が有機化学とくに天然物有機化学に占める比重が高まってきた。近年の高分解能質量分析器は原子質量単位でppmのオーダーの感度をもち,元素分析法の一つとしても利用されている。核磁気共鳴は,もともと核の磁気モーメント測定手段として,ブロッホFelix Bloch(1905-82)とパーセルEdwards Miles Purcell(1912-97)によって独立に考案された。しかし共鳴周波数は核の種類だけではなく,その化学的環境にも依存すること(化学シフト)が発見されて以来,核磁気共鳴は化学者によって貪欲に開発された。とくにパルス・フーリエ変換法が60年代に導入され,超電導磁石装置が70年代に普及するようになって急速に発展した。測定対象はプロトンから磁気モーメントをもつほとんどすべての核に広がり,状態も溶液から固体あるいは生物の一部または全部の試料まで扱えるようになった。このほかラマン分光,マイクロ波分光,光電子分光などの手法も,主として物理化学実験室で利用されるようになった。
一方,W.H.およびW.L.ブラッグ父子が確立した結晶のX線構造解析法は無機化合物のみならず,構造が複雑な有機化合物,生体分子へとその対象を拡張していった。ペルツMax Ferdinand Perutz(1914- )とケンドリューJohn Cowdery Kendrew(1917-97)によるヘモグロビンなどの構造解明(1958),ホジキンDorothy Crowfoot Hodgkin(1910-94)によるステリン,ペニシリン,ビタミンB12などの精密構造解析は,この分野での発展の一例にすぎない。これらの例からわかるように,20世紀の有機化学は天然物化学の発展に大きな特色をもつ。E.フィッシャーに続いて,W.N.ハースはピラノース環構造を確立することによって糖類の化学を発展させた。同じフィッシャーによって着手されたアミノ酸とタンパク質の化学は,ペーパークロマトグラフィーの導入と末端基分析のくふうによって発展した。サンガーFrederick Sanger(1918- )は2,4-ジニトロフルオロベンゼンによる末端基標識法を駆使してインシュリンのアミノ酸配列順序の決定に成功した。この手続はしだいに自動化される一方,ポリペプチドの合成もメリフィールドR.B.Merrifieldらの固相合成法によって高度に選択的に行われるようになった。天然物のなかでも二次代謝産物の構造決定と全合成は20世紀有機化学者の大きな課題であった。A.ウィンダウスはコレステロールに,H.O.ウィーラントは胆汁酸に取り組み,紆余曲折はあったが1930年代までにそれらの構造を明らかにした。同じころ性ホルモンのdl-エキレニンの全合成がなされ,さらに1952年にはウッドワードRobert Burns Woodward(1917-79)がコレステロールの全合成に成功した。ウッドワードは相前後して,ストリキニーネ(アルカロイド),テトラサイクリン(抗生物質),クロロフィルa,ビタミンB12などの全合成を手がけた。ワルラハOtto Wallach(1847-1931),ウィルシュテッターRichard Martin Willstätter(1872-1942),H.フィッシャー,P.カラー,R.J.クーン,ブテナントAdolf Friedrich Johann Butenandt(1903-95),ロビンソンRobert Robinson(1886-1975)らは,テルペン,クロロフィル,ビタミン,ホルモン,アルカロイドの化学の発展に貢献した。これらの発展と表裏一体の関係にあったのは合成法の発達である。19世紀において知られていた炭素-炭素結合生成反応は,アルドール縮合とその類似反応ほか2,3程度であった。F.A.V.グリニャールは,1901年グリニャール反応を開発して有機金属化合物の利用による温和な条件下での炭素-炭素結合の生成の道を開いた。ディールスOtto Paul Hermann Diels(1876-1954)とK.アルダーの発見したディールス=アルダー反応(ジエン合成,1928)は,環式化合物を鎖式化合物から一挙に合成する強力な手段となった。P.サバティエによって開拓された金属触媒による水素付加反応(接触還元)は,実験室でも工業規模でも広く採用された。水素化リチウムアルミニウムに代表される金属水素化物は,より強力な還元剤として有機合成の重要な試薬となった。ブラウンHerbert Charles Brown(1912- )はボランを不飽和結合に付加させて官能基変換を行うヒドロホウ素化反応を体系化する一方,ウィティヒGeorg Wittig(1897-1987)はリン試薬による炭素鎖延長法(ウィティヒ反応)を開発した。ウィティヒ反応では反応中間体イリドが重要な役割を果たすが,20世紀に入って有機化学はとくにイリドを含めた反応中間体ないし不安定分子種の研究に著しい進歩をみた。ゴンバーグMoses Gomberg(1866-1947)は,1900年初めて長年化学者が追求していた〈基〉すなわちトリフェニルメチルの存在を確かめた。ラジカルと呼ばれるようになったこのきわめて不安定分子種のうちで最も簡単なメチルラジカルは,26年パネートFriedrich Adolf Paneth(1887-1958)によって観測された。ラジカルが関与する反応は有機化学反応の重要な一群であることがわかり,多くの化学者によって追求された。カルボカチオン,カルバニオン,カルベンなどの不安定分子種も確認され,その構造が明らかにされた。
20世紀の有機化学はその理論面が強化された点で19世紀のそれと際立って異なっている。ファント・ホフとル・ベルの炭素正四面体説(1874)とそれに基づく立体異性は,19世紀末のE.フィッシャーの研究によって実験的裏づけが与えられた。絶対配置が困難な問題として残り,長い間相対立体配置が慣用的に用いられたが,1951年ベイベートJ.M.Bijvoetらが酒石酸ルビジウムナトリウムのX線異常散乱によって絶対配置を決定し,この問題にきりをつけた。ファント・ホフによって指摘された他の立体異性のうちアレンの光学異性の証明は,1935年ころミルズWilliam Hobson Mills(1873-1959)らによって証明された。ファント・ホフが予想できなかった単結合のまわりの束縛回転の結果生じる立体異性(アトロプ異性)は,1920年代の初めにケナーらによって見いだされた。単結合のまわりの自由回転の問題は,その後水島三一郎(1899-1983),ピッツァーKenneth Sanborn Pitzer(1919- )らによって物理化学的な側面からも追求され,エタン誘導体だけではなくシクロヘキサン環の立体化学に深いかかわりがあることがわかってきた。J.F.W.A.vonバイヤーは張力説(1885)をたて,シクロヘキサンを平面分子と考えていた。これに対しザクセH.Sachseは,今日のいす形,舟形構造を提案したが(1890),認められなかった。しかし20世紀になってハッセルOdd Hassel(1897-1981)は,シクロヘキサンは舟形でなく安定ないす形構造をもつことを電子線回折から明らかにした(1930~40年代)。同じころバートンDerek Harold Richard Barton(1918- )は,いす形シクロヘキサン構造を仮定すればステロイドの種々の反応が統一的に説明できることを知った(1950ころ)。シクロヘキサン環の形や反応性のように単結合のまわりの回転で決まる構造や性質の研究は配座解析と呼ばれるようになった。有機化合物の示す多様な反応性と反応の方向を結合および試薬の極性で説明する有機電子論が,R.ロビンソン,ヒュース,インゴルドChristopher Kelk Ingold(1893-1970)らによって確立された。彼らによると,結合の分極が反応の原動力となるイオン反応は求核反応と求電子反応に,各反応はさらに律速反応の型に従って一次反応,二次反応に分類された。各反応で可能な遷移状態から予想される反応生成物の配向や立体化学は実験結果とよく一致した。各種有機化学反応はもはや予測不能な不確かなものではなく,反応物の構造と性質から予測可能なものになった。有機化学反応の予測は量子化学計算の方向からも試みられた。ヒュッケル分子軌道法に始まって,拡張ヒュッケル法や福井謙一(1918-98)のフロンティア軌道理論が提出され利用されるようになった。1965年ウッドワードR.B.Woodward(1917-79)とホフマンRoald Hoffman(1937- )はπ電子系での協奏的熱反応が起こるか否かは反応点においてフロンティア軌道の係数の符号が合致するか否かで決まるというウッドワード=ホフマン則(1965)を提出した。この法則は,それまで理解しがたかった不飽和化合物の熱反応・光反応を理解するのにきわめて強力な武器となった。有機化合物の性質を経験的に定量化する試みがはじめ置換安息香酸の性質に関するハメット則(1940ころ)として提案された。この考え方は直線自由エネルギー関係として一般化され,反応性や性質の予測に用いられた。
20世紀の無機化学は放射性元素に関する研究によって大きく飛躍した。E.ラザフォードは1902年までに,放射能やそれに伴う蛍光は単純な化学反応によるものではなく,原子の壊変(他の原子への変換を伴う)によるものであること,放射能にはα線,β線,γ線の3種があることを確かめた。P.およびM.キュリー夫妻らのポロニウム,ラジウムの発見に続いて12年までにほぼ30の新しい放射性元素が発見された。これらの周期表上の位置が問題になったが,13年にF.ソディが同位体の概念を明らかにして,これを解決した。ラザフォードらは,窒素の原子核をα粒子で照射すると原子核変換が起こり水素が生じることを発見した(1919)。後にこのとき酸素も同時に生じていることが証明された。I.およびJ.F.ジョリオ・キュリー夫妻は,アルミニウムをα粒子で衝撃することによって放射性リンが生じることを発見した(1934)。E.フェルミは超ウラン元素を得る目的でウランを中性子で衝撃した。このとき核分裂が起こることをO.ハーンは化学分析で確認した(1939)。この発見が直ちに原子爆弾の可能性を示すものと指摘された。超ウラン元素の追求も続けられ,マクミランEdwin Mattison McMillan(1907-91)は初の超ウラン元素ネプツニウムを発見した(1940)。その後シーボーグGlenn Theodore Seaborg(1912-99)らは,進歩した加速器を用いて数々の超ウラン元素をつくり確認し,これら超ウラン元素の化学を確立した。このように放射能の発見は無機化学のまったく新しい分野を開いた。放射能をもつ元素とその化合物の化学は放射化学と呼ばれるようになった。
ウェルナーによって基礎が築かれた錯体の化学は,化学結合の理論の発展とともに理論的にも強化され,さらにX線解析の応用によって構造も確認された。1920年モーガンGilbert Thomas Morgan(1872-1940)とドリューは,中央の金属イオンが二つまたはそれ以上の結合によって有機配位子と結合している形の化合物に〈キレート〉という名称を与えた。キレート環は芳香環程度の安定性をもち,分析化学以外の分野にも重要な意味をもつことが明らかにされた。EDTA(エチレンジアミン四酢酸)はとくに用いられたキレート試薬である。新しい形の有機金属化合物も数多く見いだされた。そのなかでも二つのシクロペンタジエンが鉄原子を挟み込んだフェロセンは,51年ポーソンP.L.Pausonによって初めてつくられ,後につくられた数多くの類似化合物(一般にメタロセンという)の基本化合物となった。希ガスの一部が化合物をつくる理論的可能性がL.C.ポーリングによって指摘されていたが(1933),バートレットNeil Bartlett(1907- )がヘキサフルオロ白金酸キセノンの合成に成功(1962)して,希ガス化合物の世界を開いた。希ガス化合物化学の発展の引金となったのはフッ素化学の発展であった。これは原爆製造に必要なウラン同位体の分離のために必要であった。フロンやテフロンなど工業的に重要なフッ素化合物が1925年以降に研究開発された。またシリコーンに代表されるケイ素高分子も,20世紀に入ってキッピングFrederic Stanley Kipping(1863-1949),ロショーEugene G.Rochow(1909- )らによって開発された。
化学の多様化の例として地球化学,宇宙化学の例を挙げることができる。〈地球化学〉という語はすでに1838年C.F.シェーンバインによって用いられたが,19世紀末から20世紀初めにかけてのクラークFrank Wigglesworth Clarke(1847-1931)は,地殻中の元素の量の標準値を求めた(クラーク数)。クラークの分析化学的手法に加えて,20世紀初めからはX線結晶解析が鉱物の構造解析に威力を発揮し,V.M.ゴルトシュミットを中心として,地球化学は一つの学問として発達した。化学者の関心は地殻のみならず宇宙空間や深海に広がっていった。とくに同位体の存在が明らかにされて以来,H.C.ユーリーらによって地殻や隕石の同位体分析が盛んに行われるようになった。元素の起源,宇宙の起源に関する新しい知見は,これらの分析結果のほかに,新たに発展した電波分光学からも得られるようになった。1969年の月への有人飛行の成功によって地球・宇宙科学に新しい一歩が踏み出された。その後,引き続いて行われたバイキング,ボエジャー等の探査宇宙船によって多くの情報が得られるようになった。環境化学も新しく独立した化学の分野である。もともと地球化学ないし無機化学の一部であったが,光化学スモッグやフロンによるオゾン層破壊,蓄積される二酸化炭素の温室効果など,宇宙的な問題の発生とともに新分野の環境化学が確立していった。
20世紀末から21世紀に向かって,化学がどのような方向に発展していくのであろうか。他の科学の分野と同様,化学もまた社会全体の枠組みの中にあり,化学の発展もその枠の中でとらえられるだろう。地球規模で考えるとき,有限な資源をどのように有効に利用するかが,人類の今後の課題のうちで最大のものである。ゆえに化学の発展が省資源・省エネルギー型の方向を探ることは避けられない。酵素様機能物質,アモルファス物質など新材料の追求はこの方向を追う,期待される分野である。一方,狭くなった地球を拡大するための努力の一環として,これまでの地球化学に加えて,宇宙や深海の化学が重要視されてこよう。また,これにともない化学がより多様化し,他の分野の科学と融合する部分が多くなろう。酵素様機能物質の研究は生化学を仲介として生物学との協同を,新材料の研究は物理化学を介して固体物理学との協同を必要としよう。生物の体内という穏やかな環境で高選択的に起こる化学反応を実験室で再現しようという生物機能化学biomimetic chemistryは,21世紀に向けてさらに拡大発展しよう。学問の細分化は20世紀の科学の一つの大きな特徴であったが,反面,境界領域,学際的研究といった言葉も広く用いられたように,学問の諸分野の総合化の動きも並行して進んでいる。研究手段・方法の面からみると,直接・間接のコンピューターの大規模な利用がますます広がるだろう。これがエレクトロニクスの進歩とあわせて,測定機器をさらに進歩させることになろう。結局21世紀の化学は従来の枠を超えてより総合的な物質科学に発展し,生体関連物質を含む広い範囲の物質の合成,構造解析,さらに反応性・物性の研究を担当することになろう。
化学が一つの学問として形を整えたのは17世紀末のことであり,それ以前に化学に従事していたのは錬金術師,医師,薬剤師等であった。ボイル以降も化学に従事したのは,キャベンディシュのような富裕なアマチュアか,ラボアジエのように他の職業で生計をたてていた人であり,大学でも医学の一部として化学が講義され,今日でいう化学者もブラックのように医学部に所属していた。大学において化学が独立の学問として,ある程度組織的に教授されるのは19世紀に入ってからである。1794年創設のエコール・ポリテクニクの初代化学教授はベルトレであった。だが当時は学生にカリキュラムの一環として実験を課する制度はなく,もっぱら教授の個人実験室が実験教育の場であった。ウェーラーがベルセリウスのもとで学んだ話は有名である。ファラデー,デービーを生んだローヤル・インスティチューションも教育機関としての機能をもってはいなかった。リービヒは1825年ギーセン大学教授になったとき,化学教育に実験を組み込むことを提案し,直ちに実行に移された。ギーセン大学の実験室は今日の目からみると台所程度のものであったが,欧米各地から参集した学生に満ちあふれて大いに活気があった。その後ギーセン大学を模倣した実験室が数多く建てられた。19世紀後半に石炭化学工業が飛躍的に発展したとき,これらの実験室は指導的化学技術者の重要な供給源となった。化学の発展は学術雑誌が定期的に多数刊行されるという形でもあらわれた。リービヒが1832年から死ぬまで編集者を務めた《化学薬学報告》は,当時の重要な有機化学・薬学研究の発表の場となった。化学者の数の増加にともない,化学者集団の組織としての学会が重要な意味をもつようになった。ローヤル・ソサエティ(イギリス),アカデミー・デ・シアンス(フランス)などの総合学会は,老朽化,硬直化して学問の急速な進歩にこたえることはできなくなった。41年イギリス化学会(今日の王立化学会)が化学関係の学会第1号として組織され,66年にはドイツ化学会,76年にはアメリカ化学会が結成された。なお日本化学会が組織されたのは78年のことである。イギリスではローヤル・ソサエティ改革の動きのなかからイギリス科学振興協会,1845年には同じ趣旨でアメリカ科学振興会が設立された。これらは学会としての機能のほかに,学会と社会との接点のような役割を果たしてきた。
19世紀から20世紀半ばまでの化学の著しい発達の過程に際して,化学が人類の進歩・福祉に果たす積極的役割に対して疑問や批判が寄せられたことはまったくといってよいほどなかった。第1次大戦において両陣営が毒ガスを使用し,多くの死傷者を出したことは深刻な問題を投げかけた。しかし毒ガス戦の立役者F.ハーバーに対する批判も彼のノーベル賞受賞を妨げなかったし,また毒ガスへの批判は,その使用禁止に関する国際的取決めという形となってあらわれ,毒ガスをつくった化学への批判という形をとらなかった。第2次大戦前後にかけて,化学と化学工業はナイロンに代表される石炭化学製品,ペニシリン,コルチゾンに代表されるような有効な薬品,さらにはポリエチレンに代表されるような石油化学製品をつぎつぎと世に送った。化学と化学技術は現代社会の骨組みをつくり,それを豊かにするものとして高く評価された。世界的規模で化学および応用化学関係の学部学科が大量に増設され,化学工業は施設の拡充に次ぐ拡充を繰り返した。
しかし,1960年代終りから70年代初めにかけて事情は急変した。化学と化学技術は環境破壊の元凶として,にわかに市民の批判を浴びる立場になった。1950年代に発生した水俣病は化学と化学技術の誤用の恐ろしさを市民に教えた。60年代にアメリカがベトナムで行った枯葉作戦は化学と化学技術の悪用と受け取られた。第1次石油危機がこれに追打ちをかけた形となり,石油と石油化学工業に著しく依存した社会のあり方への反省・批判がなされた。環境破壊の元凶という指摘に始まり,さらには脱石油社会への指向も加わって,青年層の〈化学離れ〉の現象が1960年代になって顕著になった。これは世界的に大学の化学系諸学科とくに応用化学系諸学科への志望の低下となってあらわれた。この現象は70年代には一方ではオゾン層問題や原子炉問題などの相次ぐ環境問題の発生,他方では青年の医学・生物学への傾斜によってさらに増幅された。しかし80年代に入ると状況はやや変化した。すなわち省エネルギー・省資源時代における高度情報化社会のなかでの化学の役割が再評価されるようになってきた。
20世紀末から21世紀にかけて,化学を含めて学問はますます細分化する傾向にある一方,化学と生物学や物理学,地球科学との境界はしだいにぼやけつつある。しかしながら現在のわれわれが理解している化学--すなわち物質の合成とその構造・性質の解明--が完成する日はなく,したがって化学がなくなる日はこないであろう。
日本に化学が紹介されたのは,他の多くの西洋諸科学と同様,オランダを通じてであった。1811年につくられた蕃所和解御用(役所)はショメールNoel Chomelの《百科全書》(オランダ語版)を翻訳し《厚生新篇》と題した。この中に舎密(せいみ)すなわち化学に関する記述が散見する。化学の体系的な紹介は宇田川榕菴による《舎密開宗》(これはラボアジエの体系に基づく)の刊行(1837-46)である。化学の系統的な教育は50年代の後半,蕃書調所において川本幸民を教授として始められた。このころから舎密は化学と呼ばれるようになった。大坂では緒方洪庵が適塾を開いて化学を講じた。63年蕃書調所は開成所と改称され,明治維新の結果,さらに開成学校となり,やがて東京大学(1878設立)へと発展していった。この間,江戸幕府,明治政府はともに化学の重要性を認識し,化学の研究・教育部門は終始組織の重要な一部をなしていた。日本に化学を定着させるための手段として,明治政府はさしあたり御傭外国人教師に依存する一方,有望な人材を海外留学させて将来の指導者たらしめようとした。アトキンソンRobert William Atkinson(1850-1929),E.ダイバース(ともにイギリス人),ケルナーWilhelm Körner(1839-1929),ロイプOscar Loew(1844-1941)(ともにドイツ人)らが理学部,工学部,農学部等にいて,よく学生を育てた。一方,初期の留学生のなかから,日本の化学の中心となった松井直吉(1857-1911),桜井錠二,長井長義(1845-1929),柴田承桂(1850-1910)らが出た。1878年今日の日本化学会の前身である化学会が,81年には日本薬学会,98年には工業化学会が設立され,この間,1886年には帝国大学令が施行されるなど,教育研究の体制は徐々に整備されていった。化学工業も初めは官営の,後には民間の企業によってしだいに活発化し,種々の重要な工業製品の国産化が始まった。しかし,概していえば明治時代の日本の化学は欧米から近代化学を吸収するのに追われていた。
大正年間(1912-26)とくに第1次大戦および戦後の好況期に大学の新・増設や研究機関の設置が行われた。とくに理化学研究所の設立(1917)は,日本の化学技術を自立独立させようという最初の国家的規模の努力であった。日本農芸化学会は1924年に発足し,化学会の後身東京化学会は,日本化学会と改称(1921),従来の和文学会誌のほかに欧文による学会誌《Bulletin of the Chemical Society of Japan》も刊行した(1925)。これらの学会誌への投稿論文は大正末期からしだいに数が増えはじめた。とくに応用化学方面の論文が急増した。これは日本の化学工業がしだいに力をつけ,肥料,酸・アルカリ等がしだいに自給体制へ近づいていった状況に対応する。基礎研究においても真島利行のウルシオール,鈴木梅太郎のオリザニンの研究など,日本に生まれ育った研究が出はじめた。昭和に入ると,応用化学の分野でも桜田一郎らによるビニロンなどの国産技術がしだいに実用化されるようになった。第2次大戦によって日本の化学と化学工業は徹底的に壊滅した。だが日本化学会と工業化学会が合同(1948)し,新制大学が発足するなど,再建のための枠組みはいち早く用意された。日本の化学工業に大きな影響を与えたのは50年に始まった朝鮮戦争で,数年間のうちに基本的な化学工業生産は戦前の水準を超えるようになった。外国からの技術導入も積極的に進められた。60年代は高度成長経済政策がとられ理工系大学生の大増員がなされた。民間企業も先を競って大規模な基礎研究所を新設・増設した。日本での基礎研究の全般的水準もしだいに高まり,外国とくにアメリカの一流大学の正教授に招かれる化学者がしだいに数を増し,81年には福井謙一のノーベル化学賞受賞に結実した。化学技術の輸出も盛んとなってきた。1960年代から大きな国際会議が日本で開催されるようになり,77年にはアジアで初めて国際純正応用化学連合の国際会議が日本で開催された。この傾向はますます盛んである。このように化学の世界における日本の地位は明治以来実に目ざましく向上した。これは独創的な優れた研究が多くの日本人化学者によってなされつつあること,そしてそれを世界の化学者が認めはじめたためといってよかろう。この意味で日本の化学の前途は洋々と開けているといえよう。
→錬金術
執筆者:竹内 敬人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
物質に関する自然科学の一部門で、とくに物質の構造および性質、さらには物質相互間の変化すなわち化学反応を取り扱い、物質の合成、分析を行う学問。物質に関する自然科学には化学のほかに物理学もあるが、物理学が、純粋物質のみならず混合物なども含めた物体についての運動、エネルギーや、熱的、電気的、光学的、機械的などの属性を研究し、それらの現象から統一的な理論を構築しようとする立場をとるのに対し、化学では物質そのものについての研究を進めようとする立場をとっている。したがって物理学が多くの場合、物理的性質、物理変化を取り扱うのに対し、化学では主として化学的性質、化学変化を取り扱うことになる。
[中原勝儼]
物質すなわち物体を構成している本質を取り扱うのであるから、たとえば鉄片を加工して針金や釘(くぎ)、小刀、銃身、橋桁(はしげた)その他各種の鉄製品としても、物質としての鉄は変わらず、形が変わっただけの物理変化であるから、これらは化学の対象ではない。また森林から木を切り出して材木とし、それで机や家具その他の木製品をつくったとしても、それも木の形が変わっただけで木の本質、すなわちセルロースの分子がリグニン(炭素、水素、酸素などの原子が化学結合によって結び付いた分子からなる)で固められていることはまったく変わっていない。大理石などの石材を加工して形を整え、建設材料や装飾品などに使用しても、大理石を構成している主成分の炭酸カルシウムは変わっていない。このように形が変わったり、位置が変わったりするような変化は化学では取り扱う対象ではない。しかし、釘などの鉄製品を空気中に放置したとき銹(さ)びてぼろぼろになってしまうことがあるが、これは、釘などを構成している鉄という物質が、酸化されて酸化鉄という物質に変化したのである。また木を空気中で燃焼させると、燃えてなくなってしまい、灰を残すが、これは、木の本質であるセルロースやリグニンが、酸素と反応することによって原子の組み替えがおこり、二酸化炭素や水蒸気となって気化し、微量含まれているカリウム塩などが炭酸カリウムその他となって残るのである。また、大理石を塩酸の中に入れると泡を発生して溶けてしまうが、これは、成分の炭酸カルシウムが分解して二酸化炭素の泡を発生し、塩化カルシウムを生成して溶けてしまうのである。このような物質本来の構成の変わるような変化は、すべて化学の対象である。
[中原勝儼]
化学も物理学も、自然界における物質について研究しているのであるから、現在の自然科学のなかで、化学と物理学の境界がそれほど明確に区別されているわけではない。これらの科学はいずれも近代科学として成立していく過程で、その出発の立場が異なっていたため、先にあげたような違いが考えられ、その違いがかなり明確であると主張されたこともある、というだけなのである。
物質の根源が各元素の原子によるものであり、それらの原子が化学結合によって集まって分子をつくり、あるいは電子の付加や放出によってイオンとなって集まりイオン結晶をつくることがわかるまでには、多くの物理学者たちの研究の寄与があったし、また分子が互いに衝突しながら自由に飛び回っている状態が気体であるとして気体運動論が展開され、これによって熱の本性が明らかにされたのである。化学にとって重要な概念のモルの基本となるアボガドロ定数も、始めはブラウン運動や、単位電荷の測定など物理的手段によって決められたのであるし、19世紀なかばごろまでは、元素は化学者たちの化学分析によって確立されたのであるが、19世紀終わりごろからは、ほとんどすべての新元素の発見は、分光分析やX線分析などの物理的手段によってなされたものである。また現在、超ウラン元素の合成など人工元素はすべて核反応によってつくりだされているのである。同位体が発見され、原子番号が確定して周期表が完成したのも、原子構造を解明した量子力学による寄与が大きく、現在、結晶構造、分子構造を決定するのにもっとも力のあるX線構造解析など、きわめて多くの分野で、物理学は化学の分野に入り込んでいる。これは、なにも物理学的な手段を化学者が用いているというだけではなく、化学者がすでに物理学的な研究を行っているのである。また物理学者たちが物質の各種の性質を原子論的に統一解釈しようとする立場を、物性論あるいは物性物理学などといっており、現代の物理学における一つの広い領域になっているが、半導体、超電導体などを含めて、現在注目されている分野などは、まったく化学と重なり合った領域であるといえる。
このように現在の科学では、化学と物理学の境界が明確に存在するなどということはなく、重なり合って共通となっている部分が広くあり、しかもそれはさらに拡大されていっているといえよう。しかしもちろん化学と物理学が同じものだなどということではなく、同じ自然に対しても物理学がその現象を主としてとらえようとする立場であるのに対し、化学が物質そのものをとらえようとする立場にたっている違いがあるのだといえよう。
[中原勝儼]
化学は、研究を進める方法、あるいは対象とする物質などの違いによって各種の部門に分類できる。対象とする物質の違いでは、まず、無機化合物を取り扱う無機化学と有機化合物を取り扱う有機化学とに大別される。最近では無機化合物と有機化合物との中間領域にあるともいえる有機金属化合物が広く取り扱われるようになり、これらを取り扱う分野を有機金属化学ということもある。また各種の物理的な手法あるいは理論などによって、物質の性質、反応、構造などについて研究を進める分野を物理化学といっている。これは物理学と化学の境界領域ともいうべき分野であり、物理的な化学という意味で、化学から物理学の分野に広がっていった領域といえるが、これはまた逆に物理学から化学の領域に広がってきたと考えるような場合には、化学的な物理学という意味で化学物理学といっている。また、とくに生体を構成している物質についての化学は、生物学との境界領域ともいうべきもので、生物化学あるいは生化学という。ただ医学的な立場からは人体をおもな対象とし、これを医化学ということもある。
無機化合物、有機化合物を問わず、それらの物質を分析する手段、方法などに関する分野が分析化学である。分析化学には、その目的によって、試料中に存在する成分、元素あるいは物質を同定する定性分析、およびその量を決定する定量分析とがあり、手段によって物理分析と化学分析、対象によって無機分析と有機分析とに分けることがある。
一方、純正化学に対して、生産または生活に役だたせるために化学技術を応用して研究する分野を応用化学といっている。応用化学には、その対象とする分野によって、工業化学(無機工業化学と有機工業化学のように分けていうこともある)、農芸化学、薬化学、資源化学などというようによばれている分野がある。
以上のような大きな分類に対して、現在では研究の各種専門化あるいは分化が進み、その主たる対象や目的、取り上げる立場に応じて、専門の各種名称が用いられている。たとえば無機化学の分野でも、地球化学、宇宙化学、環境化学、温泉化学、鉱物化学、放射化学、ホットアトム化学、核化学、錯体化学などの名称が使われており、有機化学では広大な有機化合物の領域でそれらの分類をとった各種の名称(たとえば、芳香環化学、複素環化学、天然物化学、医薬化学、C1化学など)や、あるいは高分子化学などという多くの名称が使われている。
物理化学の分野でも、その目的、対象、手段などによって、構造化学、量子化学、触媒化学、結晶化学、光化学、分光化学、放射線化学、熱化学、界面化学、コロイド化学、電気化学、磁気化学、化学熱力学、物性化学、プラズマ化学その他の名称が使われている。
ただし以上の分野もこれまでのおもな分野の名称であって、最近では新しい原理の発見、新しい研究手段の開発、対象物質の多様性の増大などによって新しい分野が開かれ、また再編成されて、新しい名称の分野も生まれつつある。たとえばグリーンケミストリー、マイクロ化学などである。
またこれらの化学の発展のあとをたどり、その意義を検討し、将来への考察のもととする分野が化学史学である。
[中原勝儼]
すでに述べたように、化学は物質を対象とする学問であるから、まず物質の構造、性質を追究し、さらにそれらの物質の変化すなわち化学反応を研究する。そしてそれらの研究を推進するため、新しい物質を含めて各種の化合物を合成し、それを分析するものである。
[中原勝儼]
まずその組成、すなわち成分元素あるいは官能基、分子などの含有成分を知る必要がある。このためには各種の分析技術が必要であり、成分のみを知るための定性分析、あるいはその含有量を知るための定量分析がある。定性、定量いずれにしても、沈殿反応、中和反応、呈色反応、酸化還元反応などの化学反応を利用した化学分析が普通に用いられるが、濾紙(ろし)やイオン交換樹脂、デンプン、アルミナなどを用いるクロマトグラフィーや、斑点(はんてん)分析なども多く用いられる。しかし現在きわめて広く用いられるのは各種の物理的手法を利用したいわゆる機器分析であって、可視、紫外線、赤外線、X線などをはじめとする電磁波の発光および吸収の分光分析、ポーラログラフィーやボルタンメトリーをはじめとする電気分析、示差熱分析、熱重量分析などの熱分析、質量分析、ガスクロマトグラフィーなどの分離分析では、きわめて微量の存在を知ることもできる。またどのような物質であるかをはじめとして、各種化学種を同定することも重要である。
[中原勝儼]
物質の構造、すなわち物質を構成している単位としての原子がどのような組合せで結合しているか、また原子相互間の結合はどのような力によって安定するのかなどは重要な研究の対象である。これには化学結合の本質を明らかにするための理論的側面があり、原子どうしの結合に電子が重要な役割を果たしていることが明らかにされ、このため量子力学が重要になってくる。それらの原子間の配列を知るのには、X線構造解析をはじめとして、電子線や中性子線などの構造解析が必要であり、さらには可視・紫外あるいは赤外吸収スペクトル、核磁気共鳴(NMR)スペクトル、X線スペクトルその他各種電磁波の吸収および発光スペクトルなどの分光学的手段によって、結合状態、分子の回転運動、原子振動、電子状態などが調べられる。またこれらの結合の強さは、光学的な手段のみならず熱的手段その他によっても測定できる。これらのためにはほとんどの場合、各種分光光度計、質量分析計、自動解析装置をはじめとして、精密測定を目的とするための高度な測定機器が用いられている。
原子間の結合の組み替え、すなわち化学反応の研究は、新しい物質の合成にとっても重要であるが、化学反応そのものの取扱いには、反応速度論その他の理論的な立場をもとにした研究がある。
[中原勝儼]
物質の構造や性質を調べるとしても、まず純粋物質が必要であり、化学者はそのため合成法、精製法に通じていなければならない。これには、19世紀以来今日に至るまでの蓄積があり、その成果は文献あるいは各種叢書(そうしょ)に記載されている。これらを調査し、それに従って既知物質を合成あるいは精製し、またこれらに記載のない物質を新化合物として記録している。このようにして現在までに認識され、記録されている化合物は、無機化合物、有機化合物、有機金属化合物などあわせて1000万を超えていると思われ、とくに新化合物の近年の増加の程度はきわめて著しく、指数的なものがある。これらの化合物を集め網羅してある叢書には各種のものがあるが、もっともよく知られているものに、無機化合物では『Gmelins Handbuch der anorganischen Chemie(グメーリン無機化学叢書)』、有機化合物では『Beilsteins Handbuch der organischen Chemie(バイルシュタイン有機化学便覧)』がある。
合成されたものは、融点、沸点、密度、蒸気圧、融解熱、昇華熱、比熱、臨界圧、臨界温度、誘電率、磁化率、屈折率、溶解度、吸収スペクトルその他の物理的性質、酸化剤や還元剤に対する反応性、酸・塩基としての性質をはじめとして各種の物質に対する化学的性質が調べられる。このような各種物性値その他は各種のハンドブックや便覧にまとめられ、あるいは物性値専門の雑誌、検索書も出版されているが、現在のところもっともよく知られているのはランドルト‐ビョルンシュタインLandolt-Börnsteinの『Zahlenwerte und Funktionen aus Naturwissenschaften und Technik(数値表――自然科学と工学)』である。簡単なものではあるが、日本では日本化学会編『化学便覧』がある。
以上のような化学についての研究は、多くの化学関係の学術論文誌に発表されており、その論文誌の数も世界で数百にのぼり、論文数は膨大な数である。それらすべての研究を世界的に集めて網羅し、内容を抄録してまとめた雑誌が発行されており、もっとも信頼が置かれていたもので古いのはドイツで発行されていた『Chemisches Zentralblatt(化学事報)』であるが、現在ではアメリカで発行されている『Chemical Abstracts(化学抄録)』に受け継がれ、これが研究者にとってもっとも信頼されるものとなっている。その他旧ソ連では『Referativnyi Zhurnal, Khimiya(報告誌――化学)』が発行されていた。また日本では日本化学総覧および科学技術文献速報がある。
化学の研究者相互の集まりとして世界各国に学会がつくられている。日本では化学関係ではもっとも大きな学会として「日本化学会」があり、研究者のための論文誌、速報誌を発行している。その他にも各種分科された分野での学会があり、それぞれ論文誌を発行している。世界的には、世界の化学者の協力を推進し、国際的な規模で化学に関する重要問題を議論するために創立された国際純正・応用化学連合(IUPAC:International Union of Pure and Applied Chemistry)がある。
[中原勝儼]
化学が近代科学として成立して以来、物質の本質を追究してきており、その過程で物理学との接点をもち、両者の重なり合った分野が生じ、これが現在急速に広がってきていることは先にも述べておいた。しかし現在さらに問題になるのは生物学との間の関係である。生命を有する物質あるいはその集合である個体は、以前は化学の対象ではなかったが、現在では、特定の有機高分子化合物として同定されているタンパク質分子が特定の環境や条件のもとで物質同化、増殖などの生物の生活の基本的特徴となる諸機能を示すのが、すべて化学的な対象としてとらえられるようになってきている。さらには生物の根元を示すDNAやRNAなどの構造も明らかにされてきており、ヒトゲノムの解読も進み、これからの生物化学(生化学)の展開は目を見張るものがあるといえよう。すなわち、生物学と化学の中間領域であった生物化学が、現在では物理学および化学の境界領域にある物理化学および化学物理学以上に、広大な領域として発展してきているのである。現在の生物化学は、物理学から接近した生物物理学以上に、化学としての発展が約束されていると思われる。また宇宙探査ロケットの開発により、これまでに知られていなかった宇宙に関する化学的知識は増大するであろうし、超伝導物質をはじめとする新奇な化合物の製造も進むであろう。さらには多くの有用な有機金属化合物の合成は進み、この分野での発展は著しくなるであろう。
[中原勝儼]
人類がコントロールすることを知った最初の化学現象は発酵または火であったと思われる。火は燃焼という化学変化に伴う著しい現象であり、また熱源として化学変化を促進する作用をもつので、暖房、照明や、狩猟、焼畑のような直接的利用はもちろん、あらゆる化学的生産の道具となり、原始時代から人類の生活でもっとも重要な位置を占め、また注目されてきた。
[内田正夫]
金属の精錬という火の技術は、古代オリエントで5000年以上も前から始まった。銅に続いて青銅が利用され、冶金(やきん)操作がむずかしい鉄はその後に利用された。エジプト、メソポタミアの古代文明において化学的技術は高度に発達し、青銅、金銀細工のほか、陶器、ガラス、釉薬(うわぐすり)、染料、香料、洗剤、医薬などがつくられた。これらを製造した工人たちは、そこにおこる化学変化についてなんらかの規則性を認識していたことは明らかだが、彼らは行政官庁でもある神殿に隷属し、経験的な技術の知識は神官の神話的・呪術(じゅじゅつ)的世界観と混合し、神殿の占有物として伝承されていった。
[内田正夫]
化学変化と物質の多様性に初めて理論的解釈を与えたのは古代ギリシアの哲学者たちであった。自由な商工業を発展させたポリス社会を背景に、彼らは神話的な世界解釈を離れ、自然を自然そのものによって説明した。このことから科学としての化学の起源は古代ギリシアにあるといえよう。多様に変化する現象を貫いて存在する唯一の根本物質として、タレスは水を、アナクシメネスは空気を、ヘラクレイトスは火を選んだ。一方、エンペドクレスは根本物質を火、空気、水、土の4元素とし、愛と憎の二つの力によるそれらの結合・分離によって世界の多様性を説明した。これらの理論の発展のうえにレウキッポスと、とくにデモクリトスによって原子論が提出された。空虚の中を運動する無数の微小にして不可分な原子を世界の根本物質とする原子論は、原子の形と大きさと運動とによって、世界の多様性と変化を説明した。デモクリトスの原子論はタレス以来の科学的な考えの総決算であったが、霊魂さえもすばやく運動する丸い原子からなると主張するなど経験的事実との隔たりもあり、さらにその唯物論的な性格が、アテネの貴族勢力の支配秩序を擁護する保守的な哲学者からは拒否されるところとなった。
[内田正夫]
アリストテレスは原子と空虚を否定し、4元素の考えを採用したが、同時にプラトンの観念論を受け継ぎ、性質を物質から切り離して、性質を形相、物質を質料とよんだ。彼の四元素説とは、性質をもたない可能態としての第一質料に、熱・冷・乾・湿の4性質のうちの二つが組み合わさって刻印されることにより、現実態としての火(熱・乾)、空気(熱・湿)、水(冷・湿)、土(冷・乾)の4元素が構成されるとするもので、これらの組合せで物質の変化と多様性は巧みに説明された。この説によれば、質料に賦与された形相を交換すれば元素の変換が可能ということになり、後の錬金術思想の理論的根拠となった。この四元素説は、アリストテレスの学問的権威を背景に約2000年の間化学理論を支配することになった。古代ギリシアに現れた原子論と四元素説という物質観の二つの大きな流れは、その後にも種々の形で現れる。
[内田正夫]
ヘレニズム時代以後、科学の中心地はアレクサンドリアに移り、ここでギリシアとエジプトの文化が出会って、錬金術が生まれた。
エジプトには古くから化学物質を製造する技術があった。19世紀に発見されたいわゆる「ストックホルム・パピルス」と「ライデン・パピルス」は3世紀末の写本であり、そこには、染色、人造宝石、合金や着色による金銀の模造など多くの処方が記載されており、工人たちが伝承した技術をかいまみることができる。この純技術的処方集の金の模造技術と、アリストテレスの物質観、元素変換理論とが融合して錬金術が発生した。すなわち、加熱、昇華、蒸留などの技術的操作によって金銀の形相を抽出し、これを銅、鉄、鉛などの卑金属の質料に賦与して貴金属を得ようとするのがその基本であった。錬金術には絶えず神秘主義が付きまとい占星術的宇宙観や宗教的要素などが混じり合って複雑な様相を呈したが、実地の技術はきわめて合理的な面をもっていた。1世紀ごろの偽(にせ)デモクリトスや3世紀末のゾシモスZosimosの著作からは、当時ガラスや陶製の蒸留器、炉、湯浴、濾過(ろか)器などがくふうされ、金属の処理とそのための試薬の製造が発達したことがうかがわれる。
[内田正夫]
アレクサンドリアの錬金術は、シリア、ペルシアを経てイスラム世界に継承され、アラビア社会の経済的繁栄を背景として、技術面、理論面とも発展した。ジャービル・ビン・ハイヤーンに帰せられる著作集(10世紀)や、ラージー、イブン・シーナーらの書物は明快で実際的である。彼らは蒸留法と昇華法を改良して、硝酸、カ性アルカリ、ろ砂(塩化アンモニウム)などの製法を記述し、多数の化学物質を体系的に分類した。アリストテレスの理論はさまざまな修正を受け、金属を直接構成する原質は「水銀」と「硫黄(いおう)」であり、「エリキサ」(賢者の石)を用いてその比率を完全化することができるとされた。
[内田正夫]
アラビア錬金術の化学的成果は、12世紀以後ヨーロッパに伝えられ、アルコール、硝酸、王水、硫酸、火薬などが知られるようになった。14世紀初めにスペインで書かれたとされるゲーベルGeber著『金属貴化秘術全書』Summa perfectionis magisteriiは中世ヨーロッパの実際的な錬金術書の典型である。そこでは金をつくる手順はあいまいだが、灰吹法など金属の精製法と試金法、化学物質の製法、化学装置などが正確に記述されている。中世末期以降、神秘主義、象徴主義に傾いた錬金術書や詐欺師めいた錬金術師が増え、社会的非難の対象となるが、実験室の錬金術は化学物質についての博物学的知識を少しずつ豊富にしていった。
中国でも、アレクサンドリアとほぼ同時代に、魏伯陽(ぎはくよう)の『周易参同契(しゅうえきさんどうけい)』(142ころ)や葛洪(かっこう)の『抱朴子(ほうぼくし)』(317ころ)などの書物が現れる。中国の錬金術(錬丹術)では神仙思想と関連して不老不死の丹薬作りに重点が置かれたが、一方、紙(2世紀)や黒色火薬(7世紀)の発明にみられるように、化学技術の水準も高かった。後代の宋応星(そうおうせい)著『天工開物(てんこうかいぶつ)』(1637)をみると、化学物質の生産がしだいに拡大していったことがわかる。しかし、理論的考察はこの書においても陰陽五行(いんようごぎょう)説にとどまり、近代化学に発展することがなかった。
錬金術には、新たな実験的知識を開拓する面と、古い神秘的伝承の反復を続ける面とがあったが、近代の鉱山業などの発達は前者を促進し、後者との矛盾を拡大させた。
[内田正夫]
16、17世紀にヨーロッパの商工業が盛んになるにつれて、金属をはじめ化学的製品の需要は増大し、冶金、製薬などの技術家による実際的な著作が多く刊行されはじめた。ブルンシュウィクHieronimus Brunschwygk(1450?―1513)の薬草蒸留法、ビリングチオ、アグリコラ、エルカーLazarus Ercker(1530?―1594)らの冶金と試金法についての著作には、これらの技術が体系的かつ詳細に叙述された。試金は天秤(てんびん)を用いて定量的に行われ、亜鉛、コバルト、ビスマスなどの新しい金属やその化合物が記載された。また化学技術者J・R・グラウバーは濃硫酸、塩酸などの無機酸や塩類を製造販売し、塩の組成と複分解反応を正確に理解していた。
[内田正夫]
これらの化学技術と豊富になった知識を背景に「医化学派」が現れた。その代表者パラケルススは、金作りを目的とする錬金術を転換させ、医薬、せっけん、鉄の製造、パン作りまでも錬金術に含めた。彼は生命過程を化学現象とみなし、医薬として水銀、ヒ素などの無機化合物を用いることを提唱した。また錬金術の「水銀・硫黄」説に「塩(えん)」を加え、三原質説を唱えた。一方、ファン・ヘルモントは、ヤナギの苗を水だけで5年間育ててその重量増加を測定し、万物の元を「水」であるとした。タケニウスOtto Tachenius(1620?―1690?)は、あらゆる化学反応を酸とアルカリの中和で説明し、酸アルカリ説を唱えた。彼らは化学変化を合理的に理解しようとしたのだが、それらの学説はなお神秘主義と結合していたので、医療にとって有効ではありえなかった。しかし、彼らの残した化学物質の知識はその後の薬剤師のための教科書に受け継がれた。19世紀以前には医師または薬剤師として訓練を受けた者が化学知識のおもな担い手であったのである。リバウィウスAndreas Libavius(1560―1616)の著書『アルケミア』Alchemia(1597)は、物質の分解と合成の方法を初めて一冊にまとめた化学教科書といえるものであった。
[内田正夫]
このような化学物質に関する認識の深まりと、ガリレイらの近代力学の成功とを受けて、イギリスのR・ボイルは化学を独立した科学として確立しようと努力した。彼は、ガッサンディやデカルトによって復活された原子論(粒子論)に立脚し、主著『懐疑的な化学者』(1661)において、四元素説や三原質説を否定し、実験によってとらえられる具体的物質に基づいて化学理論をたてることを主張した。彼は、物質の化学的特性に基づく同定の方法を体系化して定性分析の基礎をつくり、あるいは燃焼における空気の役割を研究するなど、化学変化の機構を科学的に取り扱う第一歩を踏み出した。しかし彼が依拠したのは力学的粒子論であり、化学変化を説明しきることはできなかった。
ボイルとJ・メーヨーによる燃焼の研究ののち、17世紀後半にJ・J・ベッヒャーとシュタールがフロギストン説を提出し、燃焼とは、可燃物からフロギストンが逃げていく過程であると説明した。フロギストンそのものは正体不明で、実体的な化学物質ではなかったが、この説は燃焼とともに金属の灰化(強熱して酸化物に変えること)と還元、酸への溶解、さらに塩類の組成をも統一的に説明する合理的な化学理論であった。また、この時代には、化合物とくに塩類の化学成分の間の親和力にも関心が集まり、ジョフロアÉtienne François Geoffroy(1672―1731)やベリマンによって親和力表がつくられ、化学変化を理論的に予測し、説明を与える手段となった。また定性分析法が発達し、クラプロート、シェーレらは、ウラン、タングステン、シアン化水素、グリセリンなどをはじめ多数の新元素や新化合物を発見した。
18世紀後半にはイギリスにおける工業化と都市化を背景として「気体化学」、すなわち種々の気体物質の発見とその性質の研究が一つの焦点となった。1756年J・ブラックは120グレインの石灰石を焼くと68グレインの生石灰ができ、52グレインは気体(二酸化炭素)として放出されることをみいだし、これを石灰石中の「固定空気」とよんだ。この研究は、反応物質の重量を手掛りとして進める定量的方法の手本となった。固定空気の発見以後、水素、窒素、酸化窒素、アンモニア、塩化水素などの気体が発見されたが、気体化学の頂点はJ・プリーストリーとシェーレそれぞれによる酸素の発見であった。1774年プリーストリーは赤色水銀灰(酸化水銀(Ⅱ))の加熱により、燃焼と呼吸を支える能力の大きい気体を得て、これを「脱フロギストン空気」と名づけたのである。
[内田正夫]
これらの物質認識の成果をもとに、近代化学の基礎を築いたのはラボアジエであった。彼はプリーストリーの酸素の発見を知り、1777年、燃焼や金属の灰化が一般に酸素との結合であることを明らかにしてフロギストン説を批判し燃焼理論を確立した。さらに水や酸の組成などの化学理論に、酸素を中心とした新しい体系を与え、それを著書『化学綱要』Traité élémentaire de chimie(1789)にまとめた。この書のなかでは、分析の究極点たる単体を元素とすべきことを述べ、33種の具体的物質をあげて近代的元素概念を確定し、またギトン・ドゥ・モルボらの協力を得てくふうした、化合物の組成を表す化学命名法を採用した。さらにこれら一連の研究においては定量的方法を駆使し、質量保存則を定式化した。18世紀末までにラボアジエの体系は大半の化学者に受容され、「化学革命」ともよばれる近代化学の基礎固めが完成した。1789年には化学専門の学術雑誌『化学年報』Annales de chimieが創刊された。
18世紀後半以後、イギリス産業革命の進展に伴い、木綿製品の仕上げに必要な硫酸が鉛室法で、ソーダがルブラン法で大量生産されるようになり、さらし粉も発明された。こうして近代的化学工業として酸アルカリ工業が生まれ、このような技術発展が近代化学の成立を支えることになった。
[内田正夫]
19世紀に入ってまもなく、ドルトンは、ラボアジエの化学元素に対応する実体として化学的原子の概念を提出した。諸元素の原子はその相対的重量(原子量)を異にするとされた。彼の原子論は定比例の法則を説明し、倍数比例の法則を予測した。ドルトン以後、19世紀を通して原子の実在性をめぐる議論が続いたが、いずれにせよ、化学は原子論を軸として展開し、化合物内の原子の構成を明らかにすること、および原子量を正確に決定することが理論的課題となった。ドルトンの原子量は恣意(しい)的な分子式を前提にして決められていたが、1811年にアボガドロが有名な仮説(アボガドロの法則)を提唱して、分子量から原子量を導出する方法を示した。しかし、それは少数の気体分子にしか適用できず、広く学界の承認を得られなかった。
一方、ボルタが電池を発明し、電気分解現象の発見が続いて電気化学の研究が進んだ。ベルツェリウスは化合物組成の電気化学的二元論を提唱、この理論は無機塩類が正負2成分の電気的結合によって構成されることを示して、広く受け入れられた。さらに彼はこの二元論に基づき、ミッチェルリヒの結晶同形律やデュロン‐プチの法則を取り入れて精密な原子量を決定した。しかし多くの化学者は、感覚的に証明されない原子の存在を仮説と考え、原子量よりは、操作的に決定される当量を用いた。
[内田正夫]
1830年代以後有機化学が発展すると二元論は有効性を失う。次々にみいだされる有機化合物の多様性と反応の複雑さを説明するために、リービヒ、J・B・デュマ、A・ローラン、ゲルアルト(ジェラール)、A・ウィリアムソンらはさまざまな構造理論を提案した。そのなかには基の考え、同族列の考えなど重要な考えがあったが、なおその構造と本質を理解するのに十分ではなく、フランクランドの原子価概念、ケクレとA・S・クーパーの炭素原子の四価性と結鎖の理論(1858)に至ってようやく有機分子の構造論が形成された。化学構造概念の確立により、原子量をめぐる混乱も収拾された。アボガドロの仮説が広く承認され、当量と原子量の区別も明確になり、C=12、O=16に統一された(1860)。
その後、ケクレがベンゼンの環状構造を解明し、ファント・ホッフとル・ベルが炭素原子の正四面体構造を提案して立体化学を開き、A・ウェルナーはこれを無機化合物にまで拡張し配位理論をつくった。
正確な原子量の決定はメンデレーエフとJ・L・マイヤーによる周期律の発見(1869)を導いた。19世紀には電気分解、分光分析をはじめ、新しい分析手段が発達し、既知元素数は1860年代に60を超えていたが、それらの間の自然的秩序がみいだされたのである。周期律から予言された三つの元素が発見され、さらに希土類の分離の進展、不活性ガスの発見により周期律はより完全なものとなった。
[内田正夫]
一方、ラボアジエとラプラスに始まる反応熱測定とそれを一般化したヘスの法則(1840)は親和力の研究を定量的なものにした。19世紀後半のH・P・J・トムセンやベルトロの熱化学の原理はその延長上にあり、反応熱を親和力の測度とみるものであった。また反応速度や化学平衡にかかわる個別的研究はグルベルとボーゲの「質量作用の法則」(1864)へと一般化された。1870年代以降、物理学において発展した熱力学の理論がこれらの研究に適用されるようになり、ホルストマンの解離平衡の熱力学的解釈、ギブスの不均一系の平衡条件の解明、ヘルムホルツの自由エネルギー概念の定立を経て、ファント・ホッフによって化学熱力学が確立された。
化学熱力学は、分子運動論と結んで希薄溶液の理論においても有効性を発揮した。またアレニウスは、電解質溶液の伝導性に関するヒットルフやコールラウシュの研究を踏まえ、ファント・ホッフの浸透圧の理論に支えられて、電解質溶液におけるイオン解離の理論を完成した。18世紀末に化学が科学として独立して以来、化学と物理学は別の道を歩んできたが、これら一連の新しい方法と領域において物理学的方法と化学的方法が統一され、物理化学が誕生した。F・W・オストワルトらは『物理化学雑誌』Zeitschrift für Physikalische Chemieを創刊(1887)、20世紀化学への橋渡しをした。19世紀末に登場した電気化学工業は物理化学の理論に支えられて発展する。コールタールを原料としたアリザリンとインジゴの合成とその工業化は、化学構造論に基づいて計画的に進められた。またルブラン法にかわって連続装置によるアンモニアソーダ法(ソルベー法)ができ、電解ソーダ工業と並んで現代的な化学技術の出発点となった。19世紀の間に化学工業は専門の化学者を求めるようになり、大学の講座と化学会が各国に創設された。
[内田正夫]
世紀の変わり目に、X線の発見、電子の存在の確認、ラジウムの発見、原子の放射性壊変の発見など、いわゆる「物理学の革命」がおこり、従来の原子像は根本から覆された。原子がさらに小さな粒子からなることが明らかとなり、J・J・トムソン、長岡半太郎、E・ラザフォードらが種々の原子構造理論を提案した。原子物理学の発展のなかでソディは同位元素の存在を指摘し、H・G・モーズリーは原子番号の物理的意味を明らかにした。N・H・D・ボーアはこれらの研究を基礎に、プランクの量子仮説を取り入れて、原子の基本的構造を解明し、さらに原子構造と周期律との関係を明らかにした。
[内田正夫]
20世紀の化学理論は原子構造の解明を礎石として展開する。化学親和力と原子価の本質はG・N・ルイス、W・コッセル、ラングミュアにより、殻外電子の八隅子の安定性と原子間の電子対結合によって説明され、その考えはシジウィックにより配位結合に拡張された。ボーアの理論は、ハイゼンベルク、シュレーディンガーらによって新しい量子力学として数学的に洗練されるが、ハイトラーとF・W・ロンドンは量子力学を水素分子に適用して成功を収め、ポーリングは量子力学的共鳴概念を化学結合の電子状態に導入して、いわゆる共鳴理論を確立した。一方、R・ロビンソンとインゴルドはこれらの新しい化学結合論を有機反応における経験的事実の体系づけに適用し、有機電子論を生んだ。化学結合の量子力学的取扱いはさらにフントFriedrich Hund(1896―1997)、マリケンの分子軌道法や、配位子場の理論に展開され、有機電子論もこれらの成果を取り込んで修正・拡大され、有機合成の指導原理として力を発揮するに至った。
[内田正夫]
化学反応論では、ボーデンシュタインの水素と臭素の光化学反応の研究以後、フリーラジカルをはじめ多くの反応中間体が実験的に確認され、反応機構の解明に成果をもたらしたが、量子力学との統一はいまだ完成していない。溶液論では、デバイとヒュッケルの強電解質溶液の理論、ブレンステッド、G・N・ルイスの酸・塩基概念の拡張があり、また高分子溶液論やレオロジーが発展した。
原子構造の解明は、放射化学の成立をも導いた。粒子加速器による核変換、人工放射能、核分裂とそのエネルギーの研究が進み、多種の超ウラン元素がつくられた。他方、第二次世界大戦中、原子爆弾が製造された。
[内田正夫]
炭水化物、タンパク質などの天然物や栄養、発酵などの生体現象を対象とした生化学的研究は19世紀から始まっていたが、有機化合物の構造論が基礎となってE・H・フィッシャーの糖やポリペプチドの研究をはじめ、生体物質の化学構造が広範に研究され、生化学は大きな地位を占めるようになった。1930年以降、ビタミン、ホルモン、アルカロイドなどの抽出、構造決定と合成が進み、代謝や光合成、遺伝の機構も解明された。これらのほか、電気化学、光化学、錯体化学などにおいても進展があり、地球化学や宇宙化学など新たな領域も開拓されつつある。
[内田正夫]
以上に述べた諸領域の発展は、量子力学に代表される数理的取扱いと並んで、機器分析をはじめとする多くの光学的・電磁気的実験手段の利用に負っている。1910~1950年代に、ガラス電極電位差測定装置(pH計)、ポーラログラフィー、X線・電子線回折、質量分析、可視・赤外・紫外分光分析、電子スピン共鳴や核磁気共鳴、同位体トレーサー、ペーパークロマトグラフィーやガスクロマトグラフィーなどの分析法が開発され、とくに近年はコンピュータと結合されて威力を発揮している。
[内田正夫]
化学工業では、化学平衡論および触媒化学と高圧技術を用いたハーバーとC・ボッシュのアンモニア合成(1913)があり、現代化学技術の基礎となった。それは窒素肥料の大量供給により農業生産力の増大に貢献する一方、第一次世界大戦中、アンモニアから硝酸を合成して高性能爆薬の原料を供給した。またドイツ軍は塩素を毒ガスとして使い、これ以降さまざまな化学兵器の応酬が繰り返されることになった。ドイツでは大戦中の軍需と戦後の産業合理化により巨大独占体イー・ゲー・ファルベンが成立し、アンモニア合成で確立した技術を用いて石炭液化やアセチレン系有機合成を進めた。合成ゴムはドイツとアメリカでつくられたが、H・シュタウディンガーに始まる高分子化学はアメリカ、デュポン社の合成繊維ナイロンを生み、またイギリスでは超高圧を用いて合成樹脂ポリエチレンが製造された。これらの製品は第二次世界大戦中、軍需物資として生産された。アメリカでは航空機用燃料の製造のため石油精製技術を向上させ、その結果、戦後は合成化学原料も石炭から石油に転換され、石油化学工業が成立した。現代の日常生活には、これら合成高分子材料のほか、合成医薬、農薬、合成染料、特殊合金、セラミックス、半導体など多種多様な化学製品が用いられている。20世紀末から21世紀初めにかけて、ナノサイエンスや生体高分子の化学、それらを応用した新素材や生化学的工業など、新しい物質や領域が注目されている。
[内田正夫]
化学と化学技術は人々の自然認識と実生活を豊かにしてきたが、同時に戦争への利用や環境破壊の元凶として現代社会に大きな課題をもたらした。化学の研究とその産業的利用が戦争を頂点とする社会矛盾のなかで発展してきたことも直視しなければならない。原水爆や生物化学兵器などの非人道的兵器はもちろん、軍備と戦争には莫大な資源と人材が浪費されている。また、1962年にR・カーソンが著書『沈黙の春』Silent Springによって農薬の濫用に警告を発して以来、化学物質による水や大気の汚染や天然資源の濫費(らんぴ)に社会の関心が向けられるようになった。1980年代末ころからはとくに、地球温暖化、オゾン層破壊、酸性雨、残留性有機汚染物質など、環境問題が地球規模で広がりつつあることが明らかになってきた。これら環境問題の原因には化学と化学技術が大きくかかわっているが、しかし、環境における物質の循環や毒物の作用機序(メカニズム)を究明し、問題解決の方策をたてて社会の意識を変えることも化学の力に大きく依存している。現代の化学者には、物質世界の変化の仕組みをいっそう追求することとともに、自らの仕事の社会的責任をつねに問いただすことが求められているといえよう。
[内田正夫]
『ケムス委員会編、奥野久輝他訳『ケムス化学――実験の科学』全2冊(1965・共立出版)』▽『A・アイド著、鎌谷親善他訳『現代化学史』全3巻(1972~1977・みすず書房)』▽『L・ポーリング著、関集三・千原秀昭・桐山良一訳『一般化学』上下(1974・岩波書店)』▽『田中実著『原子論の誕生・追放・復活』(1977・新日本出版社)』▽『井本稔・大沼正則・道家達将・中川直哉編『化学のすすめ』第2版(1980・筑摩書房)』▽『H・M・レスター著、大沼正則監訳『化学と人間の歴史』(1981・朝倉書店)』▽『岡崎廉治他編『岩波講座 現代化学への入門』全18巻(2000~2011・岩波書店)』▽『W・H・ブロック著、大野誠・梅田淳・菊池好行訳『化学の歴史』全2冊(2003~2006・朝倉書店)』▽『日本化学会編『化学ってそういうこと!――夢が広がる分子の世界』(2003・化学同人)』▽『日本化学会編『化学便覧 応用化学編』全2巻・改訂第6版(2003・丸善)』▽『日本化学会編『化学便覧 基礎編』全2巻・改訂第5版(2004・丸善)』
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…一般に,ヘレニズム時代のアレクサンドリアにおいて,古来の冶金術,染色術とさまざまな宗教・哲学思想が結合されて生まれたと考えられており,ヨーロッパ,アラビアで高度の発展をみた。従来,詐術の一種あるいはせいぜい近代化学の前史をなす克服されるべき擬似科学と考えられてきたが,今日では,単なる物質操作・薬物調合の技術にとどまらない,体系的な思想と実践とを具備した独自な世界解釈の枠組みとする見方が有力である。また錬金術的な思想と実践は,上記の文化圏のみならずインド,中国(さらにはその影響下で朝鮮)にもあり,とくに中国では〈練丹術〉の名で知られる。…
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