1948年9月9日、金日成(きんにっせい/キムイルソン)の主導により朝鮮半島北部に創建された社会主義国家。建国当初は北緯38度線以北、朝鮮戦争後は休戦ライン(軍事境界線)以北を支配領域とする。金日成らが展開した1930年代以来の抗日武装闘争の革命伝統に建国の基礎を置き、チュチェ思想を指導指針とする朝鮮労働党の一党独裁体制を確立した。さらに、後を継いだ金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)政権下では、「先軍革命路線」という独特の軍事優先路線を掲げてきた。2011年12月、金正日の死去に伴い、三男の金正恩(きんしょうおん/キムジョンウン)が後継者となった。
面積12万0538平方キロメートル、人口2361万2000(2004年推計)、2405万(2009年推計)。首都平壌(ピョンヤン)。
[並木真人]
1945年8月15日、日本の植民地支配からの解放とともに、朝鮮半島は北緯38度線を境界としてアメリカとソ連の軍隊に分割占領された。それに対して、朝鮮の住民は解放直後から建国準備委員会などを結成し、自主的に独立国家の建設にとりかかった。しかし、南朝鮮(北緯38度線以南)では、占領したアメリカ軍政府当局の左派勢力に対する抑圧によって、統一的な国家建設の試みは困難に直面した。他方、北朝鮮(北緯38度線以北)では、スターリンの指示を受けたソ連軍の占領下で、当初から北朝鮮単独の「反帝反封建民主主義革命」を遂行するための体制づくりが進められた。
1945年9月、金日成(きんにっせい/キムイルソン)が沿海州から帰国して政治の主導権を確保すると、同年10月、南朝鮮とは別個の朝鮮共産党北部朝鮮分局を設置し、北朝鮮独自の路線を追求する姿勢を示した。11月には解放直後から各地に組織された人民委員会を基礎に北朝鮮五道行政局を発足させ、1946年2月、実質的な政府というべき北朝鮮臨時人民委員会(委員長は金日成)を創立した。そして、3月から8月にかけて無償没収・無償分配の土地改革、8時間労働制度、重要産業の国有化などの「民主改革」を実施した。さらに、1947年2月、北朝鮮人民委員会を創立し、北朝鮮単独政府樹立の方向が強まった。このような一連の過程は、まず北朝鮮の革命を完成させ、ここを民主主義の根拠地として強化し、次に南朝鮮の解放に着手するという「民主基地論」に基づくものであった。
朝鮮の独立に関しては、1945年12月、モスクワで開催された米、英、ソ外相会議において、独立の前提として「民主主義臨時朝鮮政府」を樹立すること、過渡措置として臨時政府と協議のうえで米、英、中、ソによる5年間の信託統治を実施することが、合意された。しかし、1946年3月、新政府樹立を促進するためソウルで開催された米ソ共同委員会は、朝鮮側の協議対象をめぐる対立により決裂した。冷戦の激化とともに、南朝鮮では左右の対立が深刻となり、1946年6月、右派の李承晩(りしょうばん/イスンマン)は南朝鮮単独政府の樹立を示唆するに至った。アメリカはソ連との交渉を断念し、議論を当時アメリカの影響力が強かった国際連合に移すことに決定した。1947年11月、国連総会は、翌1948年3月までに国連の監視下に朝鮮半島の全土で統一選挙を実施するというアメリカの提案を採択した。それに対して、北朝鮮は国連代表団の入境を拒否したため、選挙は南朝鮮のみで実施されることとなった。
1948年4月、北朝鮮は統一政府の樹立を目ざすという主張のもと、南朝鮮の単独政府反対論者(南北協商派)を平壌(ピョンヤン)に招集し、「全朝鮮政党・社会団体代表者連席会議」を開催した。会議は、南朝鮮単独の選挙に反対し、米ソ両軍の即時撤退を求める要請書を採択した。一方では、北朝鮮政府の発足に向けた作業が急速に進められた。1947年11月、朝鮮臨時憲法制定委員会を組織し、憲法草案を作成した。また、同年12月新貨幣を発行し、南朝鮮と異なる経済圏を形成した。1948年8月、最高人民会議代議員選挙を実施し、同年9月8日、最高人民会議第1回会議において、ソウルを首都とし、全朝鮮半島を領土とする憲法を採択した。そして、9月9日、金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国の創建を宣布した。選挙に際しては、北朝鮮有権者の99.9%が参加し、南朝鮮でも有権者の77.5%が地下間接選挙を通じて代表を選出したとされる。実態は不明ながら、北朝鮮は、南北の統一選挙の形式をとることによって、同年8月15日創建の韓国(大韓民国)を否定する、朝鮮半島における「唯一合法政府」としての地位を獲得しようとしたのである。ただし、韓国も国連の承認下に実施された選挙を根拠に、全半島の「唯一合法政府」であることを主張しており、朝鮮半島には互いに相手を否認する二つの分断国家が併存することとなった。
[並木真人]
韓国政府の樹立後も朝鮮半島南部では左派のゲリラ闘争が継続したが、徐々に活動は困難になっていた。他方、隣国における中華人民共和国の樹立は、社会主義の優勢を示すものと映った。1949年6月までにアメリカが韓国から軍隊を撤退させたことから、朝鮮問題への介入の可能性が低いと判断した北朝鮮は、武力統一を決意して南進の準備を進めた。その間、1950年4月から5月にかけて金日成(きんにっせい/キムイルソン)はソ連と中国を訪問し、スターリンと毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)からそれぞれ南進への同意を獲得した。さらに、韓国初代大統領李承晩(りしょうばん/イスンマン)の施政に対する批判の高まりは、「祖国解放」を楽観視させることとなった。
1950年6月25日、北朝鮮軍が北緯38度線を突破し、朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮軍は同月28日ソウルを陥落させ、緒戦で半島の大部分を占領し、韓国政府を釜山(ふざん/プサン)周辺に追い込んだが、アメリカは韓国を支援するために国連軍を構成し、全面的に介入した。北朝鮮は、占領した南部に対しても北部と同様の「民主改革」を実施し、南部の住民による反李承晩の武装蜂起(ほうき)を期待したが、性急な改革はかえって反発を招いた。さらに、同年9月、国連軍の仁川(じんせん/インチョン)上陸作戦以降、補給線を断たれた北朝鮮は守勢に立たされ、中朝国境付近に退却した。同年10月、 「抗米援朝」を掲げて北朝鮮を支援する中国人民志願軍(実態は正規軍)が参戦して戦線を押し戻し、12月、平壌(ピョンヤン)を奪還した後、翌1951年1月、ふたたびソウルを占領した(3月国連軍が奪還)。以後38度線を挟んで激しい攻防戦が展開されたが、戦況はしだいに膠着(こうちゃく)した。1951年7月、ソ連の仲介で休戦会談が開始され、紆余曲折(うよきょくせつ)のすえ1953年7月、板門店(はんもんてん/パンムンジョム)において、国連軍と中国軍・北朝鮮軍の間(韓国軍は不参加)で休戦協定が締結された。
「祖国解放」の夢が残したものは、莫大(ばくだい)な人的被害と物的損失であった。労働力不足と設備・機械の破壊に苦しむ戦後復旧事業は、そのまま社会主義への移行過程でもあった。重工業優先の戦後復旧三か年計画(1954~1956)はソ連、東欧や中国などの援助を得て、工場の再建と都市の復興を進め、朝鮮戦争前の生産水準への回復という目標を達成した。同時に、農業生産力の回復を図る協同化が推進され、土地や農具を共有する協同組合(1964年協同農場と改称)が各地に設立されて、1958年に協同化は完了した。あわせて中小商工業の協同化も完了した。
政治的には、この時期、朝鮮労働党を再建する過程で粛清の嵐が吹き荒れた。休戦直後の1953年8月、朴憲永(ぼくけんえい/パクホニョン)ら旧南朝鮮労働党系の幹部が戦争の指導責任を問われ、「アメリカのスパイ」であるとして逮捕(のち処刑)された。また、1956年8月には、スターリン批判の機運のなかで金日成に対する個人崇拝を非難する崔昌益(さいしょうえき/チェチャンイク)(1896―1957)ら延安派・ソ連派幹部が粛清され(八月宗派事件)、以後1958年1月までにパルチザン派や甲山派ら金日成の側近を除いて、古参幹部の大部分が政権から放逐された。
[並木真人]
反主流派、非主流派のほとんどを排除して、金日成(きんにっせい/キムイルソン)は権力集中の基盤を固めるとともに、朝鮮戦争後の労働力不足に対処するため、「自力更生」を唱えて大衆動員を図った。これは、1956年12月から開始された「チョンリマ運動(千里馬運動)」のように、労働者の「自発的」な超過労働による増産運動として展開され、第一次五か年計画(1957~1960)は、計画を大幅に繰り上げて目標を達成したと発表された。その結果、北朝鮮は基本的には工業国に変身したと宣伝され、アメリカの援助に依存し、低迷していた韓国の戦後復興を圧倒した。
しかし、1960年ころから中ソ対立が表面化したことは、韓国における朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)政権の登場と結合して、北朝鮮を窮地に追い込んだ。等距離外交を企てる北朝鮮は、1961年7月、中国、ソ連とそれぞれ「友好協力相互援助条約」を締結したものの、従来のような援助は期待できなかった。国際情勢・南北情勢が逼迫するなかで、自主路線貫徹の必要性を痛感した北朝鮮は、1962年「人民の武装化、国土の要塞化、軍人の幹部化、軍備の現代化」からなる「四大軍事路線」を採択した。その結果、軍事費の突出により経済建設は困難を極め、消費財の充実も図る第一次七か年計画(1961~1970)は、中途で目標数値の引下げを強いられ、3年間の期間延長を必要とした。そして、目標達成のために、「青山里(せいざんり/チョンサンリ)方法」や「大安(だいあん/テアン)の事業体系」とよばれる独特の生産管理体系、すなわち労働党の政治工作を通じて大衆の自発性を引き出すという管理方法が確立された。また、このころから、指導者金日成の農場や工場に対する現地指導が強調されるようになっていった。
また、イデオロギー面でも朝鮮独自の社会主義建設を支える自立路線が追求された。当初金日成が唱えた「思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛」の必要に関する発想は体系化され、1967年にはマルクス・レーニン主義を朝鮮に適用した「チュチェ(主体)思想」として確立された。同年5月、チュチェ思想は「唯一思想体系」であると規定され、反対する甲山派幹部は失脚し、かわってチュチェ思想の「解釈者」である金日成の長男、金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)が台頭した。金日成は「革命の首領」として権威づけられ、1970年11月、朝鮮労働党第5回大会は、「党の唯一指導思想」であるチュチェ思想を全国民に徹底させることを定めた。
[並木真人]
1972年12月、社会主義建設の基礎達成という認識に基づいて、「社会主義憲法」(首都を平壌(ピョンヤン)に変更)が制定され、新設の国家主席に就任した金日成(きんにっせい/キムイルソン)は、党と国家と軍の権力を掌握した。この国家主席制の導入こそは、従来のソ連型の社会主義国家体制からの離脱を意味するものであり、対ソ連・対中国自主独立の朝鮮社会主義を象徴するものであった。また、同憲法は思想・技術・文化の3分野での「三大革命」運動を明文化したが、翌1973年2月から金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)が率いる三大革命小組運動が展開された。この運動の過程でチュチェ思想の体得が極限まで唱えられるとともに、チュチェ思想の内容も唯物論を超越した人間の能動性が強調され(金日成主義)、これとあわせて金日成に対する個人崇拝が徹底して進められた。
さらに、このころから金日成の後継者問題が論議された。「偉大なる首領」金日成を継承するには資質に加えて血統が重要だという議論から、金正日が後継者として浮上した。1973年9月、党書記、1974年2月、党政治局委員に就任し、組織指導と宣伝扇動の分野で経験を積んだ金正日は、「党中央」の名のもとに後継者として君臨するようになった。チュチェ思想のマルクス・レーニン主義に対する「独創性」が強調されるようになるにつれ、その「解釈者」である金正日の地位は強固になったのである。以後、金正日も個人崇拝の対象とし、父子の権力継承を正当化する事業が展開され、1980年10月、朝鮮労働党第6回大会で後継者であることが公式に発表された。
他方、1970年代からは経済建設の速度の鈍化が顕著になった。当局が1975年に計画の繰上げ達成を宣伝した第一次六か年計画(1971~1976)も、実際には石油危機の影響で輸出が伸び悩むなかで、産業の高度化のために西側諸国から輸入した施設や機械の代金支払いの不可能という事態を生んだ。また、韓国経済の急成長が脅威となり始め、軍事路線への傾倒が一段と進んだ。1976、1977年の緩衝期後新たに策定された第二次七か年計画(1978~1984)では、前計画での対外開放路線の失敗を教訓に、「主体化」を前提に民生部門の充実を図る産業構造の転換の試みもなされたが、十分な成果は収められなかった。
1980年代には金正日が権力の前面に登場し、革命第二世代の登用などを通じて後継体制の基礎を固めた。同時に父子に対する「神格化」も徹底的に行われた。金正日は、第6回党大会で提起された無謀とも思える「十大展望目標」達成のための増産督励運動と、人民大会堂、主体思想塔など記念碑的建造物の造営を指導した。経済格差が開く一方の韓国に対する警戒感の高まりは、冒険主義的な攪乱(こうらん/かくらん)工作につながった。1983年10月、ラングーン(現、ヤンゴン)のアウンサン廟(びょう)で発生した爆弾テロ事件(アウンサン廟爆破事件。ラングーン事件ともいわれる)は、当時のビルマ政府が北朝鮮工作員の犯行であると発表した。また、1987年11月、大韓航空機が爆破され115名が死亡した事件(大韓航空機爆破事件)では、金賢姫(キムヒョンヒ)(1962― )が逮捕され、彼女は北朝鮮の工作員であると自白した。これらの事件は、北朝鮮に対する国際的非難を招いた。
1980年代なかば以降、北朝鮮は経済建設の困難から脱出するため、部分的開放路線を採用した。1984年9月、外国資本の導入を認める「合営法」の制定はその一例である。しかし、貿易の拡大は輸入超過による対外債務の累積を招き、外国資本の進出は進まず、苦境は深まった。
[並木真人]
1985、1986年の調整の年を経て、第三次七か年計画(1987~1993)のもとで困難な経済建設に取り組んでいた北朝鮮にとって大きな打撃となったのは、1989年から始まった東欧・ソ連の改革開放政策への転換(およびその後の社会主義体制の崩壊)と、それに伴う国際政治の激変であった。同時期、中国も改革開放路線を採用し、市場経済を大胆に導入した。その結果、「友好価格」に基づき物々交換で決済された石油、食糧などの輸入が途絶し、経済困難が深刻化した。国際社会からの孤立を恐れる北朝鮮は、1989年7月、平壌(ピョンヤン)で世界青年学生祝典を開催したが、莫大(ばくだい)な経費は、疲弊した経済をさらに悪化させた。1989年6月に発生した中国の天安門事件や、1990年9月のソ連と韓国、および1992年8月の中国と韓国との国交樹立は、1991年12月ソ連の消滅に帰結する社会主義体制の崩壊とも相まって、北朝鮮に他の社会主義諸国への幻滅をもたらし、改革開放路線への転換を躊躇(ちゅうちょ)させた。北朝鮮は経済開放政策の実施と政治体制の堅持との両立という難問を突きつけられ、あらたに豆満江(とまんこう/トゥマンガン)下流域の「自由経済貿易地帯」の指定(1991年12月)と「ウリ(われわれ)式社会主義」の提唱という路線を採用した。前者は国連開発計画(UNDP)の指導に従って外国資本導入の条件を整備するものであり、後者は1992年4月の憲法改正に結実した。この新憲法は、指導的指針であるチュチェ思想の定義において、マルクス・レーニン主義に関連する文言を削除し、他国とは異なる朝鮮の社会主義の独自性を強調した。さらに、「国防」の章を独立して設けるなど、軍事重視の方針を明示した。
1992年1月、国際原子力機関(IAEA)との核査察協定に調印したものの、翌1993年3月、核不拡散条約(NPT)からの脱退を表明し、北朝鮮は国際社会からの孤立を深め、情勢は緊張した。これに対して、1993年5月、アメリカと北朝鮮の高官協議が始まり、1994年6月、アメリカ元大統領カーターが訪朝し、さらに韓国大統領金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)との間で南北首脳会談の準備が整えられた。その直後、1994年7月、金日成(きんにっせい/キムイルソン)が急死した。かねてからの方針どおり金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)が事実上の最高指導者となったが、ただちに服喪を宣言、3年余りの間党総書記と国家主席の地位は空席であった。1997年10月、金正日は党総書記に就任し、1998年9月、再び国防委員会委員長に就任した。同時に1992年の新憲法(金日成憲法)が改正され、国家主席は金日成一代限りのものとされた。以後、北朝鮮は「先軍革命領導」体制の確立を掲げ、軍事力に全面的に依拠した国家建設を進めている。
他方、1994年雹(ひょう)の害、1995、1996年水害、1997年干魃(かんばつ)と天災が連続し、北朝鮮は食糧難をはじめとする未曽有(みぞう)の経済危機にみまわれた。また、1996年9月、潜水艦の韓国侵入と1997年2月、労働党書記黄長燁(こうちょうよう/ファンジャンヨプ)(1923―2010)の韓国亡命は、北朝鮮の混迷を象徴する事件として受け止められた。そうしたなか、1995年9月、国連人道問題局(DHA)の要請により、各国の食糧援助が開始された。さらに、1994年10月に発足した朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)は、1997年8月、咸鏡南道(かんきょうなんどう/ハムギョンナムド)新浦市(しんぽし/シンポシ)琴湖(きんこ/クムホ)地区において軽水炉の建設に着手した。同月北朝鮮、韓国、アメリカ、中国の、朝鮮戦争の当事者であった4者による予備会談が開始され、同年12月にはジュネーブで第1回会談にこぎつけた。その一方で、1998年8月には人工衛星と称するロケットの発射実験がなされ、日本やアメリカはこれを弾道ミサイル「テポドン」の発射であるとして、警戒を強めた。
2000年1月、イタリアと国交を樹立したのをはじめヨーロッパ連合(EU)各国やカナダなどと相次いで国交を樹立するなど、北朝鮮は積極的な外交を進めた。同年10月、国防委員会第1副委員長である趙明禄(ちょうめいろく/チョミョンロク)(1928―2010)が訪米して大統領クリントンと会談、同月、アメリカ国務長官オルブライトが訪朝して金正日と会談するなど、一時的に米朝関係は急激な進展をみせた。しかし、2001年1月、共和党のジョージ・W・ブッシュ政権が発足すると、アメリカは北朝鮮をイラン、イラクと並ぶ「悪の枢軸」であると名指しで非難、両国の関係は冷却化した。これに対して、北朝鮮はアメリカによる「体制保証」を確保する不可侵条約の締結を求める一方で、反米攻勢を強めて準戦時体制を宣言し核開発の再開を発表するなど、「瀬戸際政策」を展開している。
2002年9月には日本の首相小泉純一郎が金正日と初の首脳会談を行い、日朝平壌宣言を発表するなど、日朝関係に一大転機が訪れた。ただし、このとき北朝鮮が日本人の拉致(らち)を認めたことは、日本国内で反北朝鮮の世論を強める結果となり、これに対して北朝鮮も態度を硬化させ、日朝関係の今後は不透明である。また、同月、北朝鮮は、香港(ホンコン)をモデルとした外資の誘致をねらい、中国との国境都市新義州(しんぎしゅう/シニジュ)に特別行政区を設置するとの発表を行ったが、長官に任命された人物が中国当局に逮捕され、構想は頓挫(とんざ)した。このように社会的・経済的困難が続くなか、北朝鮮からの脱出住民(脱北者、脱北民)は急増し、中国に潜伏する者だけでも数万人に及ぶと推測される。2003年8月、北朝鮮の核開発問題の打開をめぐり、北朝鮮、韓国、日本、中国、ロシア、アメリカが参加し、中国の北京(ペキン)で初の六者協議(六か国協議)が行われたが、具体的な成果を得るにはいたらず、前途は不透明である。
[並木真人]
北朝鮮の国家理念とされるチュチェ思想は、当初から確固たる体系を備えた思想として創始されたのではなく、北朝鮮の歴史経験と各時点での実践的必要に即応してその内容を変化させてきた。しかも、哲学思想としての体系化においては、従来「唱道者」として称揚されてきた金日成(きんにっせい/キムイルソン)に劣らず、「解釈者」金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)が果たした役割が大きい。以下、これを段階的に概観する。
[並木真人]
スターリンの死去は、金日成に朝鮮独自の社会主義革命の理論化を促すものであった。1955年4月、朝鮮労働党は「マルクス・レーニン主義を朝鮮の現実に創造的に適用する」思想闘争を展開すべきことを唱えた。これは、朝鮮戦争後の復興をめぐる路線対立と結合し、金日成の唱える重工業優先・農業集団化路線に対する批判が「教条主義的な誤り」であるとして、闘争の対象に取り上げられた。当時、金日成に反対する勢力は、その主張の正統性の根拠をソ連や中国など外部の権威に求めていたが、金日成は同年12月の演説において、主体(チュチェ)を確立して朝鮮の現実にふさわしいマルクス・レーニン主義の革命理論の「解釈」を行うべきことを主張した。ここに後のチュチェ思想の原点があるといわれる。これに対して、フルシチョフ(当時ソビエト共産党第一書記)のスターリン批判を経て開催された1956年4月の朝鮮労働党第3回大会では、延安派やソ連派が個人崇拝批判を通じて金日成の権力に挑戦した。このことは、金日成をして、朝鮮革命における朝鮮人の主体的力量の正統性をいっそう確信させることとなった。金日成に対して公然と反旗を翻した八月宗派事件は、1956~1957年の延安派、ソ連派および旧南労党系の粛清によってようやく収拾された。この事件を教訓として、金日成はイデオロギーにおける自主性、主体性をいっそう強調するようになり、党の内外で主体性を思想学習することが叫ばれた。
[並木真人]
1960年代前半、中ソ対立が表面化すると、両社会主義大国の強い影響力を受けてきた北朝鮮にとって、自国の自主独立を保障して一国社会主義建設を正当化するためのイデオロギーを確保することが必要となった。対立が長期化するなかで、金日成は、当初フルシチョフ路線下では親中反ソ、フルシチョフ失脚後、中国の文化大革命期には反中親ソという複雑な選択を余儀なくされたが、こうした経験は、対ソ連・対中国自主独立を確保するための思考として、チュチェを重視させる契機となった。1965年4月、金日成はインドネシアで講演を行い、「思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛」を確立する必要を訴え、これがチュチェ思想であると明らかにした。また、1966年8月「自主性を擁護しよう」という論説では、1955年以来の党の経験を「教条主義」「修正主義」「事大主義」「民族虚無主義」との闘いであると総括し、これを通じてチュチェ思想を体系的に論じた。1967年5月、朝鮮労働党は、「唯一思想体系」の確立を決定した。これは、首領金日成が唱えるチュチェ思想を唯一の指導指針として受け入れ、全党員が金日成の領導どおりに革命と建設を遂行する体系をつくりあげることを意味した。この過程で、金正日は、チュチェ思想に疑問を示した甲山派の粛清を先導し、金日成の革命伝統と継続革命をもっとも忠実に遂行する次世代の代表として台頭した。以後、金正日は、党の組織指導部と宣伝煽動(せんどう)部での指導を通じて、チュチェ思想の「解釈者」としての地位を固めることになる。同年12月に発表された政府政綱では、「党の主体思想は革命と建設を遂行するためのもっとも正確なマルクス・レーニン主義的指導思想であり、国家活動の指導指針である」と規定され、さらに1970年11月、労働党規約では、「マルクス・レーニン主義およびマルクス・レーニン主義をわが国の現実に創造的に適用した金日成同志の偉大な主体思想を活動の指導的指針とする」という規定が盛り込まれた。
[並木真人]
1972年12月、社会主義憲法は、「(北朝鮮は)マルクス・レーニン主義をわが国の現実に創造的に適用した朝鮮労働党のチュチェ思想をその活動の指導指針とする」(第4条)と規定し、チュチェ思想の位置を明記した。チュチェ思想は、ソ連や中国とは異なる北朝鮮独自の国家機構の制度化(国家主席制、首領制)をイデオロギー面で支える役割を担っていたのである。翌1973年2月ころから思想革命・技術革命・文化革命からなる「三大革命」が推進された。これは金日成の提唱により開始されたものであったが、やがて、金正日はこれを三大革命小組運動として組織化し、積極的に展開した。このような活動は、同時に金正日の後継体制を意味する「唯一的指導体制」の確立と直結するものであった。その結果、1974年2月、金正日は正式に金日成の後継者として指名された。その前後から金正日は、チュチェ思想の解釈権の掌握を誇示するものとして、「全社会の金日成主義化」を繰り返し主張するようになった。その目的は、「首領」金日成と「党中央」金正日を一体視することを通じて「唯一思想体系と唯一的指導体制」を確立し、後継者としての指導権を強化するところにあった。「金日成主義」とは、金正日によって「チュチェ思想とそれにより明らかにされた革命と建設に関する理論と方法の全一的体系」であると定義されたが、これは、チュチェ思想を朝鮮独自の社会主義革命を領導する体系的イデオロギーとして、マルクス・レーニン主義と等位であるひとつの「主義(イズム)」の位置に引き上げるという画期的なものであった。以後、チュチェ思想は、歴史発展において、主体的人間を決定的要因とみなすというユニークな哲学を通じて、マルクス・レーニン主義の唯物論を超克した独自性が強調されていくことになる。
この段階において、チュチェ思想は、金日成の思想というより、金日成と金正日の合作の思想と化したのであり、以後徐々に金正日の思想としての性格を強めていくといってよい。チュチェ思想が「金日成主義」に昇格し、マルクス・レーニン主義からの継承性以上にその独創性が前面に打ち出されるようになるにつれ、既成の社会主義革命理論では説明しきれない思想の唯一公認された「解釈者」である金正日は、不動の地位を獲得していく。1980年10月、朝鮮労働党第6回大会は、金正日が序列2位であることを内外に明示するともに、彼が提唱した「全社会の金日成主義化」を「全社会の主体思想化」にいいかえて、内政上の基本路線とした。
[並木真人]
チュチェ思想の思想的転回において重要な画期となったのは、1986年7月、金正日が談話のなかで示した、「社会政治的生命体」論の体系化であったという。「社会政治的生命体」とは、首領を最高脳髄、党を中枢神経、人民を手足あるいは細胞とする有機体的国家論である。このなかで、首領は人民に生物的な生死を超克する「永遠の生命」、すなわち「社会政治的生命」を賦与する役割を果たす存在とされ、チュチェ思想は生命論の導入を通じて、宗教性を濃厚に帯びることになったといわれる。これは、金正日がイデオロギー解釈権を完全に掌握した状況下で、ポスト金日成状況を予見したチュチェ思想のあり方を示すものであった。
1980年代なかばから1990年代初めにかけて、ソ連・東欧圏が開放政策へと舵(かじ)を切った果てに結局は社会主義体制を放棄し、また、中国やベトナムが急速な改革開放政策を採用するなど、北朝鮮の周囲の情勢は激変した。さらに、高度成長を遂げた韓国との圧倒的な経済格差は包み隠せなくなっていた。北朝鮮は、ソ連、東欧との経済的紐帯(ちゅうたい)が断絶された衝撃をすこしでも吸収すべく、部分的には対外経済開放への模索を開始しながらも、一連の事態の政治的、思想的影響が国内に浸透するのを阻止するため、「ウリ(われわれ)式社会主義」を標榜し、北朝鮮独自の社会主義の優越性を強調する姿勢を固持した。これは、北朝鮮の目ざす「社会主義」が、従来正統とされてきたマルクス・レーニン主義とは完全に別個のものであることを宣言するものであった。1992年1月、金正日は、朝鮮労働党の路線を論ずる論説のなかで、ソ連、東欧の体制崩壊はマルクス・レーニン主義に対する教条主義的理解によるものであると断定し、他方で教条主義から脱却し、独自の「社会政治的生命体」に基礎を置く「ウリ式社会主義」を自ら称賛した。
1992年4月に行われた憲法改正において、チュチェ思想のマルクス・レーニン主義からの決別が明記された。すなわち、チュチェ思想の定義は、前述した「マルクス・レーニン主義をわが国の現実に創造的に適用した」ものから、「人間中心の世界観であり、人民大衆の自主性を実現するための革命思想」(新第3条)へと改められた。その他の規定においても、脱マルクス・レーニン主義の傾向は顕著であり、北朝鮮は、これによって社会主義圏解体という世界史的大変動から自国を保全しようとしたのである。同時に、北朝鮮は、チュチェ思想を補完し、金日成、金正日父子に対する人民の忠誠を徹底させるものとして、儒教倫理や民族伝統を大胆に導入するようになっていった。
[並木真人]
1994年7月、金日成の死とともに最高指導者となった金正日に対する称揚はその度合いを強め、1996年からはチュチェ思想にかわって、社会主義の必勝を信じ、金正日を決死で擁護するための自主、団結などを強調する「赤旗思想」という用語が登場した。さらに、1998年以降確立された軍事力に全面的に依拠する「強盛大国(富国強兵)」建設方針のもとでは、金正日に対する即物的な個人崇拝の強調と「神格化」の一方で、チュチェ思想に対する言及は、徐々に後景に退いていった。
[並木真人]
南北統一問題については、朝鮮戦争後も北朝鮮は、韓国に対して「平和攻勢」路線を掲げる裏で、武装統一路線を併用した。1968年には二度にわたり武装ゲリラを韓国に派遣し、大統領官邸の襲撃を企てた。ところが、1970年代には強硬路線から対話路線に転換した。1972年、「七・四共同声明」は、自主、平和統一、民族大団結の三大原則に基づいて、平和的統一の実現に努めることを謳(うた)った。しかし、統一問題の進展は容易ではなく、1973年6月、韓国が国際連合への南北同時加盟を提案すると、これは分断を永久化するものであるとして反発し、北朝鮮は南北で連邦制の「高麗(こうらい/コリョ)連邦共和国」を樹立して単一国家として国連に加盟すべきことを逆提案した。
韓国の全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)政権に対しては、その成立の経緯を批判し、最初のうちは相手にしないという態度をとっていた。しかし、1984年1月、三者会談(北朝鮮、韓国、アメリカ)の開催を提案して以来、柔軟な姿勢に転じた。そして同年9月、韓国に対する水害救援物資の提供を機に、南北経済会談や赤十字会談の再開、南北国会会談開催のための予備接触、オリンピック共催問題をめぐる体育会談をはじめ、1985年9月、分断以来40年ぶりの芸術公演団と故郷訪問団の相互訪問が実現するなど、政治レベルを含めた多角的な接触と対話が行われた。さらに1986年1月、北朝鮮における軍事演習をいっさい中止することを決定、米韓両国に対してもそれに応ずるよう提案する一方、南北最高首脳会談の開催にも意欲を示した。他方、北朝鮮は、1980年10月「高麗民主連邦共和国統一方案」を提示した。これは、資本主義と社会主義という二体制を維持したまま、緩やかな連邦制国家を構築するというプランである。この背景には、南北の軍事力、経済力の格差が拡大するなかで、統一問題における主導権を確保しようとする戦略があり、これが、北朝鮮が提案した統一方案の決定版となっている。
その後、1980年代末には社会主義圏の崩壊による国際的孤立から、南北統一問題の主導権争いにおいて、北朝鮮は守勢にまわるようになった。1991年9月、南北の国連同時加盟は、韓国の「単独加盟」も辞さずという強硬姿勢に押された北朝鮮が、従来の一国一議席ないし二国一議席方式を放棄、韓国が主張する二国二議席方式に妥協して実現したものであった。同年12月、第五次南北首相会談は、「南北間の和解と不可侵および交流、協力に関する合意書」および「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」を採択し、政治的、軍事的協調を踏まえた経済面、社会面での交流を促進することとなった。実現直前まで進んだ南北首脳会談と金日成(きんにっせい/キムイルソン)死後の弔問をめぐる対立に顕著なように、南北対話は、韓国で金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)政権が発足したあとも曲折を重ねた。
1998年3月、韓国大統領に就任した金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)は、南北経済共同体の構想や、政府レベルでの対北経済支援を盛り込んだベルリン宣言を発表するなど、対北朝鮮包容政策(太陽政策)をとった。そして2000年6月、平壌(ピョンヤン)を訪れた韓国大統領金大中と北朝鮮国防委員長金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)は、分断後初の南北首脳会談で南北統一への取り組みに合意、共同宣言に署名した。同時に示された金正日のソウル訪問が果たされないなど、南北関係の進展は順調な面ばかりをみせたわけではないが、2003年3月発足した盧武鉉(ろぶげん/ノムヒョン)政権も基本的には前政権の方針を継承している。
[並木真人]
1998年制定の新憲法により、従来国家元首として対外的に国家を代表してきた国家主席制と中央人民委員会が廃止された。かわって、最高人民会議常任委員会委員長(2012年1月時点で金永南(きんえいなん/キムヨンナム))が国家を代表するとされるが、実際には国防委員会委員長(1993年4月9日~2011年12月17日まで金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)。2012年1月時点では空席)が国家最高の職責である。国家機関は、最高軍事指導機関、行政機関、裁判・検察機関からなっている。主権は労働者、農民、兵士、勤労インテリに属し、最高人民会議と各級地方人民会議を通じて行使されるが、満17歳以上の公民には選挙権と被選挙権が与えられている。国防委員会は国家主権の最高軍事指導機関とされ、国防全般を管理し、委員長がいっさいの武力の指揮統率権を保有する。最高主権機関は普通選挙で選出される最高人民会議である。これは立法権その他を行使し、任期は5年、代議員数は687名で、定例会議は年1~2回開かれ、休会中は常設会議が職務を代行する。最高主権の行政的執行機関としては、内閣があり、その下に実務を担当する各省、委員会が置かれている。また、司法機関は中央裁判所と中央検察所があり、裁判は判事と人民参審員からなる合議制を採用している。
地方行政区画は、9道(平安(へいあん)南・北道、黄海(こうかい)南・北道、咸鏡(かんきょう)南・北道、両江道(りょうこうどう)、慈江道(じこうどう)、江原道(こうげんどう))、4直轄市(平壌(ピョンヤン)、開城(かいじょう)、南浦(なんぽ)、羅先(らせん/ラソン))からなり、道はさらに市(直轄市では区域)、郡に分かれ、郡の下に里、邑、洞、労働区域がある。地方機関には、道、直轄市とその下の市、郡レベルにそれぞれ地方主権機関である地方人民会議と地方人民委員会がある。
[並木真人]
北朝鮮の憲法では、形式的には複数政党の存在が認められている。政党には、朝鮮労働党のほか、朝鮮社会民主党、天道教青友党があり、さらに統一戦線組織として祖国統一民主主義戦線があり、その傘下には新旧キリスト教、仏教、天道教などの宗教団体が存在する。しかし、実際は朝鮮労働党の一党独裁である。
朝鮮労働党の沿革は、1945年10月、朝鮮共産党北部朝鮮分局(1946年4月、北朝鮮共産党と改称)の創建にさかのぼるが、1946年8月、朝鮮新民党を吸収して北朝鮮労働党となり、さらに1949年6月、南朝鮮労働党と合同して、朝鮮労働党となった。朝鮮労働党は、創党当時の少数精鋭の前衛党から、朝鮮戦争時の脱党や戦死による党員減少と党勢回復を経て、労働者、農民、兵士、勤労インテリの先進分子を網羅する「大衆的前衛政党」に発展した。党員数は結党直後の4530人から1980年ころには約300万人に増大した。党員の増加は一方で識字率の低下など質的低下をもたらし、政治思想教養事業が一時重大な課題となった。党の最高機関は党大会であるが、中央指導機関には党中央委員会とその下部に党政治局があり、またこれとは別個に党中央軍事委員会がある。なお、党大会は1980年10月、第6回大会が開催された後、党規約で5年に1回開催との規定があるにもかかわらず、2012年1月時点まで開催されていない。その背景には、金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)体制下では、朝鮮労働党の役割の相当部分を軍隊が代行するようになったことが指摘されている。
社会団体には、朝鮮職業総同盟、金日成(きんにっせい/キムイルソン)社会主義青年同盟、朝鮮農業勤労者同盟、朝鮮民主女性同盟などがあり、朝鮮労働党の指導と統制の下、外郭団体の役割を果たしている。
[並木真人]
北朝鮮にとって、外交とは、なによりも国際社会から国家に対する正統性の承認を獲得するための手段であり、つねに韓国との競争を意識してなされるべきものであった。ただし、全面的な開放路線の採用は、一方で体制動揺の要因となる危険性があった。しかも、中国とソ連という両社会主義大国と隣接していることは、体制の後見人の確保に通じるようにみえながらも、実際には双方からの脅威と圧力を不可避のものとさせた。それゆえ、北朝鮮においては、交流と自主との微妙な均衡を図って試行錯誤を重ねつつ、外交政策の方向が決定されたのである。
1948年の建国以来、北朝鮮の外交関係は、ソ連、中国、東欧をはじめとする社会主義圏内の諸国家に限定されていた。しかし、中ソ対立を契機に自主独立の外交路線が採用されると、1960年代なかばからは、反帝反植民地を唱え、非同盟グループの一員として、非同盟諸国、第三世界諸国との友好親善関係の強化に努めた。さらに、1970年代初頭からは、第一次六か年計画の実施にともなう対外開放路線の採用により、西側諸国との国交樹立や経済文化交流も視野に入れるようになった。この時期、世界保健機関(WHO)や国連食糧農業機関(FAO)など、国連専門機関への加盟も相次いで行われた。しかし、1980年代の二つのテロ事件(アウンサン廟爆破事件、大韓航空機爆破事件)は北朝鮮に対する国際的な非難を招き、高度成長を進める韓国との国際社会における認知度は格差が開くばかりであった。1988年オリンピック・ソウル大会には、北朝鮮の不参加要請にもかかわらず中国とソ連がそろって参加し、これは韓国の「北方外交」の成功をもたらした。東欧諸国やソ連が相次いで韓国と国交を樹立し、1992年には中国とベトナムも韓国と修交した。1991年国際連合への南北同時加盟においても、韓国に主導権をとられることとなった。
こうしたなか、国際社会からの完全孤立を恐れ、外部からの資源導入を通じた経済再建を図る北朝鮮は、1990年代初頭から積極的な外交攻勢を進めた。日本との国交正常化交渉、自由経済貿易地帯の指定、米朝交渉などは、いずれもその一環であった。核開発疑惑にかかわる国際原子力機関(IAEA)や核不拡散条約(NPT)離脱「騒動」も、軍事力の誇示以上に、アメリカをはじめとする国際社会との交渉を有利に進めようとする外交戦術であったとみることができる。さらに、1995年からの食糧危機は、皮肉なことに、北朝鮮の体制「崩壊」による東アジア情勢の激変を危惧(きぐ)する周辺諸国をして、北朝鮮の当面の体制の安定を保証し、将来の開放体制への「軟着陸」のためのプランづくりに参加することを余儀なくさせた。食糧支援や朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)の設立を通じて、北朝鮮は国際社会とのパイプを確保することになったのである。ヨーロッパ連合(EU)諸国との相次ぐ国交樹立、南北首脳会談を契機とする韓国からの経済協力(直接送金があったことも露呈した)、大統領クリントンの訪朝直前にまで至った米朝交渉、経済協力を明言した日朝首脳会談など、2000年以降もこのような攻勢はある程度の成果を収めたようにみえた。しかし、2001年、アメリカにおけるブッシュ政権の対外強硬路線採用とともに、軍事的挑発により外交交渉の優位を確保しようという従来の手法は限界点に達しつつあり、全面的な軍事衝突の危険性をはらみつつ、北朝鮮は硬軟両様の駆け引きを試みている。
軍事の主力は、1948年2月、正規軍として発足した朝鮮人民軍である。兵役は義務兵制であり、全男性は原則として10年間服務する。女性は志願制であるが、食糧難により志願者は増加しているという。総兵力は発表されていないが、西側の推定では、約113万人とされている。軍に関しては、金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)体制下では、国防委員会が国家主権の最高軍事指導機関であると位置づけられ、国防委員長がいっさいの武力を指揮統率し国防事業全般を統轄してきた。さらに、国防委員長は軍事のみならず、国の政治、経済のすべてを指導する「国家最高職責」であるとされ、「先軍革命領導」「先軍政治」などとよばれる軍事最優先の路線が継続して採用されてきた。それに伴い、軍出身者の権力中枢への進出も顕著になって、政府も金正日の頻繁な部隊視察や幹部の進級、食糧の優先的配給などで軍人を優遇してきた。軍隊は、工場・企業所、協同農場、貿易会社なども経営しており、社会全般に圧倒的な影響力を行使している。アメリカとの戦争をも辞さない「瀬戸際政策」を進める北朝鮮にとって、このような路線の堅持は、軍事と社会が一体化した「兵営国家」づくりを目ざすものであると評価することができる。このような政策は他方で軍事費の肥大化を生んでおり、2001年国内総生産(GDP)に占める軍事費の割合は11.6%に及ぶと推定されており、経済破綻からの回復をいっそう困難にしている。
[並木真人]
北朝鮮は、対米抑止力を確保するとともに、それを外交カードとして活用するため、核兵器開発を推進してきた。北朝鮮初の核実験は、2006年10月9日に実施された。地震波規模マグニチュード4.1、爆発規模0.5~1キロトンと推定される。実験の6日前には北朝鮮外務省が「安全性が保証された核実験を行う」との声明を発表していた。その後、それまで強硬な姿勢をとっていたアメリカのブッシュ政権が北朝鮮との対話に前向きな姿勢をみせるようになり、この実験は北朝鮮にとって瀬戸際政策の典型的な成功例だったといえる。
2回目の実験は、2009年5月25日に実施された。地震波規模マグニチュード4.52、爆発規模2~3キロトンと推定される。北朝鮮はこれに先だつ4月14日、北朝鮮・韓国と日米中ロによる六者協議からの離脱を表明し、同月29日には「核再実験や大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射実験を含めた自衛的措置を講じる」との外務省代弁人声明を発表していた。ここまでが金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)政権下での実験である。
3回目の実験は、金正恩(きんしょうおん/キムジョンウン)政権下、2013年2月12日に実施された。地震波規模マグニチュード4.9、爆発規模6~7キロトンと推定される。同年の1月23日には北朝鮮外務省が「核抑止力を含む自衛的な軍事力を拡大、強化する物理的対応をとる」との声明を出していた。2012年4月の憲法改正で「核保有国」であることを誇示し、2013年3月には朝鮮労働党中央委員会全員会議(総会)で経済建設と核開発を両立させる「新たな並進路線」を打ち出した。その後、北朝鮮の核開発はいっそう加速化する。
4回目の実験は、2016年1月6日に実施された。地震波規模マグニチュード4.85、爆発規模6~7キロトンと推定される。この実験以降は事前通告が行われなくなった。初の水爆実験とされたが、それを疑問視する声もある。
5回目の実験は、2016年9月9日に実施。地震波規模マグニチュード5.1、爆発規模11~12キロトンと推定される。北朝鮮の核兵器研究所は「核弾頭の威力判定のための核爆発実験を断行」「アメリカをはじめとする敵対勢力どもの脅威と制裁騒動に対する実質的対応措置の一環」と声明。「戦略弾道ロケット(ミサイル)に装着できるように標準化、規格化した核弾頭」の製造能力を獲得したとアピールした。
6回目の実験は、2017年9月3日実施。地震波規模マグニチュード6.1、爆発規模160キロトンと推定される。最大で250キロトンとの推定もあり、能力の飛躍的向上が明確になった。アメリカがトランプ政権となってから初の実験。核兵器研究所は「ICBM搭載用水爆実験を成功裏に断行」と声明。その後11月29日のICBM発射実験により、「国家核武力の完成」が政府声明として宣言された。
金正恩政権は、これらの実験成果を背景にして翌2018年6月、史上初の米朝首脳会談を実現した。
[礒﨑敦仁 2020年10月16日]
北朝鮮では、解放以来生産手段の社会主義的所有を基礎とし、中央集権化された経済の計画的運営を追求しており、私的経営は消滅すべきものとされる。建国当初は、主要産業の国有化によって形成された社会主義経済形態とともに、個人農や私営商工業など、社会主義への過渡期の初期に固有な小商品経済形態や資本主義経済形態が存在した。しかし、1953年秋から開始された農業および私営商工業の協同化による社会主義的改造の完成によって、1958年末には国民経済の全部門で社会主義的所有(国家的および協同的所有)が支配するようになった。こうして、主要工場、企業所をはじめとする商工業部門は完全に国営となった。農業部門では、国営農場は少なく、協同農場(農家300戸、耕地500ヘクタール)が圧倒的比重を占めている。
[並木真人]
北朝鮮では、解放後一貫して計画経済を基調とする自立した民族経済の建設に取り組んできた。それは、自立した民族経済の建設こそが、国家単位の社会主義革命の遂行とあわせて、政治的自主性を確保するための物質的基盤になりうる、という信念によって説明される。また、かつて日本の植民地支配により民族経済の基盤を徹底的に破壊、収奪された経験と、解放後国土分断により有機的な経済連関が喪失したことは、自立した民族経済の樹立への期待をいっそう強化することとなった。さらに、豊富な水資源や、各種の鉱石、石炭、非鉄金属ほかの多様な地下資源など、実現可能であると判断させる条件がある程度備わっていたことが指摘できる。
北朝鮮は、土地改革や重要産業国有化などの経済改革を1946~1947年の短期間のうちに断行した。1947年には経済計画を樹立し、社会主義的色彩の濃い自立的経済体制を志向した。しかし、自立経済樹立の企ては朝鮮戦争により挫折し、国土は廃墟(はいきょ)と化した。それゆえ、本格的な社会主義経済建設は、朝鮮戦争後の復興事業を通じて展開された。復興の基本方針をめぐり、重工業優先路線(金日成(きんにっせい/キムイルソン)ら)と消費財優先路線(ソ連派・延安派)の対立が生じたが、前者が勝利し、「重工業を優先的に発展させつつ軽工業、農業も同時に発展させる」総路線が掲げられた。戦後復興三か年計画は超過達成し、生産は朝鮮戦争前の水準に回復したと宣伝されたが、これには一時期、国家予算の30%近くを占めたソ連、中国、東欧の経済・技術援助が大いに寄与した。
さらに住民の衣食住問題の解決を目ざす第一次五か年計画では、大衆から熱意を抽出し労働生産性の向上を図る千里馬(チョンリマ)運動の展開や、祖国の社会主義建設を夢みる在日朝鮮人の帰還とその貢献によって、工業生産の年平均成長率が36.6%に達した。そして、この成果をもとに、北朝鮮は社会主義工業・農業国となったと宣伝された。しかし、それでもなお、1950年代末には食糧はもっぱらトウモロコシに依存する状態で、農村の電化も不十分であった。
加えて、朝鮮戦争後一貫して経済成長を抑制し続けた要因として、戦争再発に備える軍事費の重圧があった。その額は1960年代には国家予算の30%に及んだ。続く第一次七か年計画は、社会主義工業化の全面的実現を目ざし、成長率18%の目標を設定したが、実際には期間が3年間延長されたにもかかわらず、成長率は12.8%にとどまった。韓国の軍事クーデター、中ソ対立など政治・軍事的要因が、北朝鮮経済の成長を徐々に下降方向に向かわせたのである。それでも1970年の計画完了をもって、基本的に「社会主義工業化」目標は達成されたという発表がなされた。1960年代なかばには全農村の電化も完了し、一部では国民生活の向上もみられたという。
1970年代には、民族経済の主体化、現代化、科学化が推進された。これは「社会主義工業化」の基礎に立脚し、大衆生活の物質的土台の充実を図るという路線であった。第一次六か年計画は、重労働と軽労働との格差を解消し、農業労働と工業労働の差異をなくし、女性を家事労働から解放するという「三大技術革命」を掲げるとともに、機械製作工業の発展を通じた民族経済の技術的自立に重点を置いた。計画は政治思想事業と結合させた大衆動員方式によって推進され、1975年中に計画が完了したと当局は発表した。しかし、韓国の維新体制に対峙(たいじ)する軍備強化は財政を圧迫し、他部門の経済成長を阻害した。そのため、実際には2年間の「計画調整期間」、実質上の延長期間を置かざるをえなかった。また、対外政策の部分的変更に伴う西側の先進技術への依存は、借款と貿易赤字を増大させた。さらに、石油を全面的に輸入に頼る北朝鮮にとって、オイル・ショックの打撃は大きく、対外債務返済の不履行が慢性化していった。
続く第二次七か年計画では、人民生活の向上が主要目標の一つとして掲げられ、生活環境の充実にも目が向けられるようになった。そのため重工業中心の産業構造の再調整が図られた。しかし、1980年、労働党第6回大会で設定された「十大展望目標」は、韓国軍事政権への対抗と金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)後継体制の権威づけのため、実質的な生産能力との乖離(かいり)が指摘されるほど、生産目標を大幅に引き上げた無謀なものであった。目標達成のため、「速度戦」や「電撃戦」の名のもと、大衆動員が限界まで強化されたが、事態は好転しなかった。1984年には経済改革に着手し、独立採算制の部分的実施と合営法施行による外国資本の導入が決定された。これは従来の自力更生路線を一部修正する試みであったが、投資相手の多くは在日朝鮮人に限られ、全面的に成功したとはいえない。また、この時期北部鉄道や南浦閘門(なんぽこうもん)の建設、原子力発電所計画の推進など巨大プロジェクトが次々と完成したが、その経済的負担も無視できなかった。
[並木真人]
技術革新を通じた生産拡大を掲げて、第三次七か年計画が策定されたものの、1989年から始まった東欧、ソ連の社会主義体制の崩壊とそれに伴う国際政治の激変は、莫大(ばくだい)な対外債務と相まって北朝鮮を深刻な状況に陥れた。なかでもソ連、中国との間で長年行われてきた、石油、食糧などと北朝鮮の地下資源、水産品とのバーター取引を廃止してドルなどの外貨で決済を行うという取引決済方式への変更は、ソ連、中国との取引量を激減させ、北朝鮮の食糧事情やエネルギー事情に回復困難な打撃を与えた。韓国側の推測によれば、北朝鮮経済は1990年以降連続してマイナス成長を続けたといわれる。北朝鮮当局も1993年12月、第三次七か年計画の事実上の失敗を意味する、今後3年間の「緩衝期」の設定を言明したが、1997年以後新たな経済計画を発表できない状態が継続した。
そうした状況に対して、北朝鮮政府は、政治的には強権体制を維持しつつも、開放経済政策の導入に踏み切った。1991年12月、国連開発計画(UNDP)の豆満江(とまんこう/トゥマンガン)流域開発計画とリンクさせて、羅津(らしん/ラジン)・先鋒(せんぽう/ソンボン)(のち羅先(らせん/ラソン))地区に自由経済貿易地帯の設置を決定したのをはじめ、1992年から1993年にかけて外国人投資法、合作法など外国資本導入の法的基盤の整備を進め、1996年9月には国際投資ビジネスフォーラムを開催した。これらの開放政策は、金日成(きんにっせい/キムイルソン)の「遺訓」として位置づけられている。
さらに、北朝鮮の黒鉛炉建設(北朝鮮核開発疑惑)をめぐる米朝交渉は、1994年10月、アメリカが建設凍結を条件に軽水炉を供与すること、運転開始まで代替燃料として重油を供給することで合意した(米朝枠組み合意)。これに基づき、1995年3月、事業を担当する朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)が発足し、1997年8月、咸鏡南道(かんきょうなんどう/ハムギョンナムド)新浦市(しんぽし/シンポシ)琴湖(きんこ/クムホ)地区で軽水炉の建設が始まった。しかし、2002年10月、北朝鮮政府がアメリカに対して核兵器開発計画があることを認めると、これに反発するアメリカは、枠組み合意が無効になったとの認識を明らかにした。
1980年代なかばから食糧不足が伝えられていた北朝鮮では、1990年代に入り取引方式の変更によって中国からの輸入が激減し、食糧事情が逼迫(ひっぱく)した。加えて、1994年以降、自然災害が相次いだ。1994年9月、雹(ひょう)の害を被ったのに続き、1995年7~8月には「百年来」の大洪水に襲われ、150億ドルといわれる被害を出した。また、1996年7~8月にも同様の水害にみまわれ、被害総額17億ドルと報道された。さらに、1997年7月、国土の広い範囲で大干魃(かんばつ)が発生した。その結果、食糧の配給が破綻(はたん)して飢饉(ききん)が蔓延(まんえん)した。以後、国連人道問題局(DHA)の呼びかけに応じて世界各国や民間団体が食糧支援を行っているが、政治的思惑も絡んで不十分である。北朝鮮の深刻な食糧危機の背景として、未曽有(みぞう)の自然災害に加え、専門家は、化学工業不振による農薬と肥料の不足のほか、農業集団化のマイナス面に該当する問題、すなわち、農民の生産意欲の低下、ノルマ至上の農耕などを指摘している。さらに、金日成・金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)父子が提唱した主体農法(チュチェ農法)の不適合など、構造的な問題をあげる意見もある。それに対して、分組管理制の見直しがなされ、ノルマの超過達成分を一定の割合で自由処分することが認められた。さらに、自由市場の復活や道を越えての物々交換の容認など、経済統制の部分的譲歩も余儀なくされている。1999年からは実質国内総生産(GDP)成長率が10年ぶりにプラスに転じ、以後4年連続のプラス成長を続けている。北朝鮮自身も、1995年から開始された「苦難の行軍」が2000年に終了したとの表現で、最悪の状態は脱したことを自認した。しかし、食糧不足は根本的に解消されておらず、飢餓状態からの脱出は容易でない。そうしたなか、2002年7月北朝鮮は、通貨(ウォン)の切下げ、コメをはじめとする生活用品の公定価格および賃金の大幅引き上げ、配給制度の大幅見直しなど、広範囲にわたる経済改革を断行した。これは、従来の平等主義を改め、労働時間や生産性に応じた利益配分を行うことで、労働意欲を高めて経済再建を推進しようとする意図から発した措置であった。しかし、購買対象となる生活用品そのものが決定的に不足している現状では、賃金の引き上げの効果も不明確であり、これにより経済再建が可能か、前途は不透明である。
[並木真人]
北朝鮮は建国以来、貿易依存度がさほど高くない。その理由として、かつては自立的民族経済の建設があげられた。貿易は内部経済の成長を補助する役割しか与えられていなかったのである。しかし、1970年代には先進技術の導入のため、対外貿易の拡大が重視された。1980年代までには対外貿易を4.2倍にするという目標が掲げられた。ところが、その後また貿易は萎縮(いしゅく)した。ただし、その理由は1960年代までとは異なり、経済の不振のため、必要な物資を輸入しようにも、かわりに輸出するものがない、という切迫した事情が指摘できる。
1960年代まで北朝鮮の対外貿易の80%以上は社会主義圏で占められていたが、1970年代初頭、西側諸国からプラントを導入して以来西側との貿易が急増し、ピーク時には50%前後を占めた。しかし、プラント導入の時期がオイル・ショックの時期と重なったため、輸入設備や原材料の高騰を招いたうえに、主要輸出品目の一つである非鉄金属の価格が西側の不況によって暴落し、輸出は不振であった。その結果、貿易収支が悪化し、1970年代後半には貿易代金支払遅延の問題が発生した。1979年には貿易黒字を記録したが、1980年代に入るとふたたび赤字に転落した。また、石油など原材料の輸入増大と西側に対する輸出不振により、ソ連に対する貿易依存度が高まった。
西側諸国のなかでは日本との取引が最大であったが、対日債務は、数度の償還延期にもかかわらず、累積が解消されなかった。1986年10月の輸出保険の適用や、1987年8月の西欧銀行団によるデフォルト(債務不履行)宣言と相まって、1980年代後半、日本の商社は貿易拡大に消極的になり、日朝貿易の約80%が在日朝鮮人商社を相手とする「朝朝貿易」であった。1980年代後半からソ連は現金での取引決済を北朝鮮に要求していたが、韓国と国交を樹立すると1991年、北朝鮮との友好価格による取引やバーター貿易を廃止、中国も1992年、韓国と国交を樹立するとこれに切り替えた。これが北朝鮮にとって、債務超過を解消するうえでの最大の逆風となった。韓国との交易は、1990年8月、韓国で「南北交流協力に関する法律」が施行されて以来、本格化した。その額は、2002年の北朝鮮から韓国への「搬出」2億7156万ドル(対前年比154%)、韓国からの「搬入」3億7016万ドル(対前年比163%)となっている。
[並木真人]
北朝鮮では、「飢餓報道」から明らかなように、住民に「食の安定」を提供することさえ困難な現状にあり、日常生活や社会福祉の全般にわたり法律、制度と実態とのずれが大きい。
従来、北朝鮮政府は人民の生活や福祉の増進に尽力することを、ことあるごとに宣伝してきたが、国民生活は豊かではなかった。制度上では、貧富の格差はないとされ、食糧問題が深刻化する1980年代なかばまでは、基本的な消費生活は最低限可能であったといわれる。ただし、実際には、出身成分(核心階層、動揺階層、敵対階層)や職位により、処遇に大きな差があり、また首都平壌(ピョンヤン)と地方との生活格差も大きいとの指摘がある。消費財の公定価格は安く抑えられ、労働者、職員の住宅費は、光熱費を含めても賃金の約3%にすぎないといわれる。税金については、1966年の農業現物税の廃止に次いで1974年完全に撤廃し、これが「地上の楽園」の象徴として北朝鮮の内外に大々的に宣伝された。ただし、それ以前から国家歳入のほとんどは「社会主義経営からの収入」に依存していた。この収入は、西側諸国でいえば間接税と法人税に該当するものであり、前述の税金の廃止という措置は、わずかな直接税の廃止を定めたにすぎなかった。
実際には、消費財を中心に物不足は深刻であり、生活用品はすべて配給制がとられてきた。しかも、1995年以降、経済危機により、配給制は事実上崩壊状態にある。したがって、衣類の供給は不足し、人びとは中国から輸入された古着などを総合市場(自由市場)で購入している。食糧も政府の増産政策が効果を示せない現状では、総合市場での購入や、自留地(家庭菜園)での栽培に依存するほかない。住宅は国家による配定を原則とするが、実際には一部の幹部を除いては、供給が決定的に不足している。このように、多くの住民の日常生活は、もっとも基礎的な食糧の確保さえままならない生存限界線上の状態にあり、きわめて困難である。
なお、社会福祉については、制度上では、社会保険は国費でまかなわれ、男子60歳、女子55歳に達すれば老齢年金が支給される規定がある。医療は無償のたてまえをとっており、無医村はないとされる。また、医師担当区域制度が実施され、予防医療に力を入れてきたという。しかし、実際には、これらの制度はまったくといっていいほど機能していない。むしろ、近年、食糧事情の調査や支援のために北朝鮮を訪れた外国人関係者により、医薬品の不足や設備の老朽化など、医療体制の著しい立ち遅れを指摘する声が多数あがっている。ここでも、制度、法律と実態との乖離(かいり)は深刻であるといわざるをえない。
[並木真人]
「全社会のインテリ化」を掲げる北朝鮮の教育は、「共産主義的な新しい人間」の育成を目的としており、集団主義原則に基づき、朝鮮労働党と首領の領導のもとに全人民を団結させることを最大の課題としている。したがって、内容も社会主義政治思想教育に主眼を置いている。学制は4・6・4ないし7制であり、1975年9月、全般的11年制義務教育(就学前幼稚園教育1年、人民学校4年、高等中学校6年)が実施された。高等教育機関には、1946年10月創立の金日成(きんにっせい/キムイルソン)総合大学をはじめ270余りの大学と、工業大学、農業大学、医学大学、教員大学などがあり、その上に研究院と博士院がある。このほか、働きながら学ぶ教育機関として、工場大学、農場大学、放送大学や大学・高等専門学校の通信学部・夜間部などがある。
科学研究については、最高機関として、科学院と社会科学院があり、大学研究機関のほか、軽工業科学院、農業科学院、教育科学院、医学科学院などがある。これらの機関は、基礎研究とともに、革命と建設で提起される理論的・実践的問題、とくに国民経済の主体化、現代化、科学化と関連する科学技術的問題の研究を重視しているという。他方、1990年代には人民の団結と動員の必要から、神話の現実化を含む特異な歴史認識の強調がみられた。北朝鮮と領域が重なる古代国家高句麗(こうくり)の始祖とされる東明王(とうめいおう/トンミョンワン)陵の改築がなされたうえ、1994年には従来伝説上の始祖であるといわれてきた檀君(だんくん/タングン)の実在が提唱され、その陵墓の改築が大々的に行われた。
[並木真人]
北朝鮮における新聞、出版の役割は、朝鮮労働党の指導方針を正確かつ広範に普及することにある。それゆえ、朝鮮労働党の厳格な統制のもとにある北朝鮮のマス・メディアには、西側諸国でいう「言論の自由」や「報道の自由」は存在しない。新聞は、朝鮮労働党機関紙『労働新聞』(1946年9月創刊)、政府機関紙『民主朝鮮』(1946年6月創刊)、金日成(きんにっせい/キムイルソン)社会主義青年同盟機関紙『青年前衛』(1946年11月創刊)、朝鮮人民軍機関紙『朝鮮人民軍』が代表的なものであるが、このほかに各勤労者団体や国民経済各部門で発行する新聞と地方新聞がある。なお、毎年元日に『労働新聞』『朝鮮人民軍』『青年前衛』に掲載される共同社説は、その年の国政運営方針を明らかにするものであり、学習あるいは分析の対象として非常に重視されている。
また、雑誌は、朝鮮労働党機関誌『勤労者』、大衆総合誌『千里馬(チョンリマ)』のほか、政治、経済、文化、哲学、歴史、科学技術など各分野別の雑誌がある。主要出版社には、朝鮮労働党出版社、科学百科事典出版社、文芸出版社、外国文出版社などがある。書籍の出版にあたっては、出版物の「党性、労働階級性、人民性」が重視され、金日成著作集をはじめ、革命伝統や朝鮮労働党の路線、政策を解説したものが多い。
ラジオ放送には、国内放送を担当する朝鮮中央放送(植民地期の平壌(ピョンヤン)放送局を改編)、対外・対韓国宣伝放送を担当する平壌放送、対韓国宣伝放送を担当する平壌FM放送、韓国内地下放送を装い宣伝放送を担当する救国の声放送がある。また、テレビ放送には、全国向け放送を担当する朝鮮中央テレビ放送(1969年4月開局)、平壌市民と外国人向け放送を担当する万寿台テレビ放送、対韓国宣伝放送を担当する開城テレビ放送がある。さらに、1999年10月、対外宣伝放送として衛星中継放送が開始された。通信社は、国営朝鮮中央通信社(1946年12月発足)がある。一般人民が国外、とくに韓国やアメリカの対北朝鮮宣伝用のラジオ放送やテレビ放送を聴取することは、厳しく制限されている。
[並木真人]
北朝鮮における文学、芸術は、チュチェ思想を人民に教育、普及するための手段と位置づけられる。労働党の宣伝煽動(せんどう)部書記として党活動を本格化させた金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)は、文学、芸術の役割を重視し、この事業に精力的に取り組んだ。そして、三大革命の一環として文化革命を推進するため、金正日は歌劇や映画などの制作・上演現場に出かけ、直接指導することを好んだ。文学、芸術の内容は、抗日武装闘争のなかでの金日成(きんにっせい/キムイルソン)らの活動や、解放後の社会主義建設における金日成の業績を称賛したものが多いが、近代以前の歴史や民間伝承に題材を求めた作品もある。1970年代の代表作である『血の海』や『花を売る乙女』などは、当初歌劇として上演された後、金正日の指導のもとに映画化された。また、金正日は、『映画芸術論』『音楽芸術論』『舞踏芸術論』『美術論』『演劇芸術について』『歌劇芸術について』『主体的文学論』など、多くの理論的指導書を執筆、刊行した。文学作品においては、「四・一五文学創作団」などによる集団創作が盛んであり、長編叙事詩『われらの太陽金日成主席』、大河小説『不滅の歴史』、長編小説『永生』などの作品が知られている。文化施設としては、1970年代から1980年代にかけて、金正日の指導のもと、金日成に対する偶像崇拝の一環として、記念碑的な大規模建造物が建設された。そのなかには、万寿台(まんじゅだい/マンスデ)芸術劇場(観覧席4000)、国際親善展覧館、人民文化宮殿、人民大学習堂(蔵書能力3000万冊)などがある。また、青少年や労働者の文学・芸術サークル活動が奨励され、学校、職場、農村には多くのサークルが組織されたといわれるが、経済危機にある現在の活動状況は不明である。
スポーツは、集団主義に基づき精神と身体を鍛錬し、労働力と国防力を強化する手段として位置づけられており、一般人民の鍛錬と専門選手の育成がなされている。とくに、後者は国威発揚の一環として重視されている。金日成の死後、服喪のために一時国際競技大会への参加は見送られたが、1996年7月のオリンピック・アトランタ大会から復帰した。そして、同大会の女子柔道で優勝したケー・スンヒ(1979― )や、1999年8月、世界陸上競技選手権大会の女子マラソンで優勝したチョン・ソンオク(1974― )は、一躍英雄の扱いを受けた。また、2000年9月、オリンピック・シドニー大会での統一旗を掲げた南北合同入場や、2002年9~10月、釜山(ふざん/プサン)アジア大会への北朝鮮参加など、スポーツを通じた南北の交流が盛んになりつつある。スポーツ施設としては、金日成総合競技場(収容人員10万)、アンコル体育村など、巨大な記念碑的施設が平壌(ピョンヤン)に集中している。また、スポーツの大衆化方針のもとに、学校、職場、農村などでスポーツ・サークル活動が盛んであるといわれるが、現状はわからない。マス・ゲームは、大衆動員の手段、観光の目玉として重視されており、2002年4~8月、海外からの観光客誘致をねらって開催されたアリラン祭典の中心行事の役割を果たした。加えて、最近では、外貨獲得をねらって、囲碁のコンピュータ・ゲーム・ソフトの開発なども進んでいる。
[並木真人]
北朝鮮と日本との間には、いまなお公的関係はない。日本の植民地支配の問題も未処理のままである。これは、一方ではアメリカの対朝鮮半島政策と連動した歴代日本政府の北朝鮮敵視政策に、他方では日本に対して拉致(らち)や工作船の潜入など、冒険主義的行動を重ねてきた北朝鮮政府の謀略政策に、それぞれの要因がある。朝鮮戦争において、国連軍の後方補給基地の役割を果たした日本は、北朝鮮と敵対関係にあった。1955年(昭和30)2月、南日(なんにち/ナムイル)外相は、対日関係改善を求める声明を発表した。しかし、日朝間の交流は、1959年8月、両国赤十字の間で締結された「在日朝鮮人帰還協定」を除けば、民間レベルのものに限られた。
日本政府は、1970年代初頭まで日本人の北朝鮮への渡航を制限し、北朝鮮からの日本入国をスポーツ関係者に限るなど、民間レベルの交流を抑える政策をとった。しかし、1971年(昭和46)以降規制が緩和されるに伴い、経済、文化、学術、労働組合関係者らの来日も増えるようになった。しかし、公的人士の入国に関しては、両国とも制限を課している。在日朝鮮人の祖国往来については、日本は1965年に老人墓参団の訪問を1回認めただけであったが、1970年代には緩和され、朝鮮大学校や高級学校(日本の高等学校に相当)の修学旅行も実現された。さらに、1987年10月、日本人観光団の受入れも始まった。しかし、2002年(平成14)以降、日本人拉致事件(当初は北朝鮮政府が拉致の事実を否定していたため「拉致疑惑」の呼称が使われていた)や工作船問題、麻薬密輸問題などを契機に、万景峰(ばんけいほう/マンギョンボン)号をはじめとする北朝鮮船舶の寄港については、日本の政府や世論はきわめて厳しい姿勢を示している。
日朝貿易は日朝貿易会を窓口に1970年代に入って急増したが、1970年代初頭のプラント導入に伴う北朝鮮技術者の日本入国や輸銀融資の日本側による拒否と北朝鮮の債務問題などのため、1970年代なかば以降あまり増えなかった。1980年代に入っても取引は低迷を続けた。その最大の原因は北朝鮮の貿易代金未払問題であった。1986年(昭和61)1月、当時の通産省が対北朝鮮貿易商社に輸出保険を適用するまでに事態は悪化し、北朝鮮との取引を躊躇(ちゅうちょ)する企業が増大した。そのため、1984年9月、合営法制定に際しても、これに応えたのは一部の在日朝鮮人企業にとどまった。日朝貿易の相当部分が「朝朝貿易」であるという状況は変わっていない。1991年(平成3)12月、羅津(らしん/ラジン)・先鋒(せんぽう/ソンボン)(のち羅先(らせん/ラソン))地区が自由経済貿易地帯に指定され、1996年9月、国際投資ビジネスフォーラムが開催された。日本企業も参加したが、同地帯への進出はなされていない。なお、1990年代以降、北朝鮮の対外貿易が萎縮(いしゅく)すると、相対的に日本の貿易に占めるシェアが高まった。その規模は、2002年の北朝鮮から日本への輸出2億3012万ドル(対前年比108%)、日本からの輸入1億3269万ドル(対前年比99%)であるが、北朝鮮政府の拉致行為認定以後の関係冷却化は、ふたたび大幅な貿易の減少を招くと予想される。
他方、1970年代以降も政府間の交渉は活発ではなかった。1982年(昭和57)、期限切れ後中断状態にあった日朝民間漁業協定は、1984年10月、再締結されたものの、1988年1月、日本政府は大韓航空機爆破事件に関連して北朝鮮に対して4項目の制裁措置をとり、オリンピック・ソウル大会直前まで継続した。このような消極的な姿勢を変えたのが、日朝国交正常化交渉である。1990年(平成2)9月、自由民主党と日本社会党の代表団が平壌(ピョンヤン)を訪問し、朝鮮労働党との間で「三党共同宣言」を発表した。これに基づき、1991年1月、政府間会談が開始された。会談は、1992年11月まで8回行われた後、中絶した。両者の対立点は、北朝鮮側が植民地支配などに対する謝罪と交戦権に基づく戦時賠償、さらに「戦後の償い」を前提とする関係修復を求めたのに対して、日本側が核開発疑惑問題や、大韓航空機爆破事件にかかわった金賢姫(キムヒョンヒ)の日本語教育係、日本人「李恩恵(りおんけい/リウネ)問題」も議題に含めるように要求したところにあった。
1995年(平成7)3月、訪朝した連立与党3党の代表団と朝鮮労働党との間で日朝会談再開のための「四党合意書」が採択されたが、進展はなかった。しかし、1997年8月、交渉再開に向けた予備会談が開催され、両国は国交正常化交渉の早期再開で合意した。あわせて、日本は国連アピールに沿って食糧支援を行うことを言明した。さらに、日本人妻の里帰りを実現させることで意見が一致し、同年11月、第一陣15人が一時帰国した。また、同月、連立与党3党の代表団が訪朝し、北朝鮮による日本人拉致疑惑(事件)について、北朝鮮政府から「一般の行方不明者としての調査」を行うとの言質を得た。ただし、賠償問題では決着はみられなかった。
こうしたなか、2002年(平成14)9月、平壌において日本の首相小泉純一郎と北朝鮮国防委員長金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)による日朝首脳会談が行われ、両首脳は、日朝の国交正常化交渉を再開する、北朝鮮によるミサイル発射実験の凍結期間を延長する、賠償にかわる「経済協力」を行う、などを内容とする日朝平壌宣言に署名した。また、北朝鮮政府は、日本人に対する拉致行為、日本に工作船を潜入させたことを正式に認定、謝罪し、拉致された日本人の生死に関する情報を提示した。同年10月には、事件被害者のうち5人が帰国した。しかし、5人の帰国をもって拉致問題の解決を主張し、経済協力の履行を要求する北朝鮮と、5人の家族の帰国とその他拉致被害者に関する完全な情報の開示を要求する日本との間で、かえって関係は冷却化した。さらに、これを契機に北朝鮮政府に対して一挙に批判的となった日本の世論の動向とも相まって、交渉の進展はみられず、2003年8月、北朝鮮、韓国、日本、中国、ロシア、アメリカの六者協議に並行してなされた日朝協議でも、解決の糸口はみつからなかった。
2004年(平成16)5月、小泉が再度訪朝、金正日との会談において、(1)日朝双方は日朝平壌宣言を履行する、(2)日本は北朝鮮が日朝平壌宣言を順守する限り経済制裁措置の発動はしない、(3)日本は国際機関を通じて、1~2か月以内に北朝鮮に対して食糧、医薬品などの人道支援を行う、(4)双方は核問題の平和的な解決を目ざし、日本、北朝鮮、韓国、中国、アメリカ、ロシアによる六者協議の進展のために努力する、などで合意。このとき、拉致被害者の家族8人のうちの5人の日本帰国が実現した。死亡したとされている10人の拉致被害者については再調査を行うこととなった、との政府による説明がなされた。また、同年7月には家族の残り3人の帰国・来日が実現している。
[並木真人]
『高昇孝著『現代朝鮮の農業政策』(1971・ミネルヴァ書房)』▽『高昇孝著『朝鮮社会主義の理論』(1978・新泉社)』▽『高昇孝著『現代朝鮮経済入門』(1989・新泉社)』▽『高瀬浄著『朝鮮社会主義経済の研究』(1973・文化書房博文社)』▽『朴尚得著『現代朝鮮教育の発展』(1979・朝鮮青年社)』▽『現代朝鮮問題講座編集委員会編『社会主義朝鮮の経済』(1980・二月社)』▽『現代朝鮮問題講座編集委員会編『社会主義朝鮮の政治』(1981・二月社)』▽『小此木政夫編『岐路に立つ北朝鮮』(1988・日本国際問題研究所)』▽『小此木政夫編著『北朝鮮ハンドブック』(1997・講談社)』▽『桜井浩編『解放と革命――朝鮮民主主義人民共和国の成立過程』(1990・アジア経済研究所)』▽『玉城素監修『北朝鮮Q&A100』(1992・亜紀書房)』▽『鐸木昌之著『北朝鮮――社会主義と伝統の共鳴』(1988・東京大学出版会)』▽『李温竹著『北朝鮮の社会学的研究』(1995・三一書房)』▽『アエラ編集部編『北朝鮮・亡命者五十人の証言』(1995・朝日新聞社)』▽『金学俊著、李英訳『北朝鮮50年史――「金日成王朝」の夢と現実』(1997・朝日新聞社)』▽『惠谷治著『北朝鮮解体新書「金正日と朝鮮人民軍」秘密のベールをすべて剥ぐ!』(1997・小学館)』▽『渡辺利夫編著『北朝鮮の現状を読む』(1997・日本貿易振興会)』▽『徐大粛著、古田博司訳『金日成と金正日――革命神話と主体思想』(1998・岩波書店)』▽『鎌倉孝夫、呉圭祥、大内憲昭編『入門 朝鮮民主主義人民共和国』(1998・雄山閣出版)』▽『和田春樹著『北朝鮮――遊撃隊国家の現在』(1998・岩波書店)』▽『今村弘子著『中国から見た北朝鮮経済事情』(2000・朝日新聞社)』▽『佐藤勝巳著『北朝鮮の「今」がわかる本』(2002・三笠書房)』▽『読売新聞論説委員会編、辺真一・柘植久慶解説『読売VS朝日 社説対決北朝鮮問題』(中公新書ラクレ)』▽『重村智計著『北朝鮮データブック』(講談社現代新書)』▽『現代朝鮮問題講座編集委員会編『朝鮮の統一問題』(1979・二月社)』▽『梶村秀樹編『朝鮮現代史の手引』(1981・勁草書房)』▽『関寛治・高瀬浄編『朝鮮半島と国際政治』(1982・晃洋書房)』▽『三谷静夫編『朝鮮半島の政治経済構造』(1983・日本国際問題研究所)』▽『金学俊著、市川正明訳『朝鮮半島の分断構造』(1984・論創社)』▽『林建彦著『北朝鮮と南朝鮮』(1986・サイマル出版会)』▽『小牧輝夫編『朝鮮半島――開放化する東アジアと南北対話』(1986・アジア経済研究所)』▽『韓桂玉著『アジア研究所研究叢書「朝鮮半島の非核化と日本」』(1995・大阪経済法科大学出版部)』▽『市川正明編『朝鮮半島近現代史年表・主要文書』(1996・原書房)』▽『江橋正彦、小野沢純著『アジア経済ハンドブック2002』(2001・全日法規)』▽『和田春樹、石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(2002・岩波書店)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…94年の金日成没後,金正日を中心とする後継者体制を築きつつある。〈北朝鮮〉と略称されることが多い。
〔1980年代前半まで〕
[略史]
1945年の8・15解放とともに38度線以北に進駐したソ連軍は,30年代以来の抗日闘争を基盤として朝鮮民衆が自主的に形成していた地域自治組織である人民委員会を基本的に承認し,その上に行政機構を積み上げさせていく方針をとった。…
※「北朝鮮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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