病気という名前で呼ばれる個人的状態に対し,それを回復させるか,あるいは悪化を阻止しようとしてとられる行為をいう。その内容は,病気を診断し治療することであるが,実施にあたるのは近代的社会では法律的にその資格を独占的に与えられている医師が中心になるところから,医師の行う行為一般に拡大されることもある。たとえば,美容上の目的をもって行われる手術,避妊処置,人工妊娠中絶,人工受精,体外受精,性転換手術や性ホルモン注射療法などは,病気の回復を目的とはしないが,それらを実施するのに最も安全で確実な技術を提供できると期待されるし,また施設・器材も病気の医療のためのものと共用できることなどから,医師にそれらの行為を限定し,医療の定義のなかに入れられる。しかしながら,鍼灸(しんきゆう),あんま,マッサージ,指圧,柔道整復などは,医師が直接行わないという理由で,法的には医療類似行為と規定されている。
集団的生活を営むことを特徴とする人間は,その身体的な機能の障害がみずからの能力で対処できないと感じたとき,他からの援助を期待し,また周辺の他者は彼または彼女を援助しようとする。病気といわれる状態は,このような社会的な状況をも含む概念である。この場合の援助は,基本的には,時と場所で限定された経験的な知識・技術が適用されるが,つねに限界がある。一方,援助を期待する側としては,限界を超えること(治らない病気の治癒や,死ぬべき状態を死なないようにすることなど)が強い願望なので,援助する側は,それぞれの時と場所において,最も強い信頼を得られる信条体系や,それを具体化した制度と結びつくことによって対応することになる。
未開社会では医療は呪術と結びつき,宗教優位の社会では宗教と結びつき,近代社会に入って知識そのものへの信頼度が高くなれば,医療は学問と結びつき,さらに科学が信頼されている社会では科学と,そして現代社会では,科学よりも技術が重視されているので,医療は技術と結びついている。ただし,結びつくということは,医療がそのものになることではなく,医療についての信頼性を高めるためであるので,それぞれの結びつきを背景にすることによって,医療にあたるものの信頼性に根拠を与え,業務の独占を社会的に正当化させることになる。つまり,それぞれと強い結びつきをもたない援助者には医療を業として営むことを排除する機構となる。この排他性はさらに医業に独立した自由業としての性格を与える。他方,17世紀ころから,ヨーロッパの大都市に設けられるようになった貧困階層の病人の大規模収容施設としての病院は,医療に別の性格を与える条件をつくった。ここでは,初め非専門家による世話が提供されていたが,やがて薬剤師や医師が関与するようになる。同時に,病院内で働いていた非専門家は,療養の世話についての技能や知識を高め,看護要員として職能化した。さらに病院での医療は,その機能を維持・向上させるため多様な職能者が加わり,組織的な形態をとることになり,そこが教育や研究の中心的な場になることで,病院医療に即した医学の論理も育った。すなわち,多数の患者の比較により,症状や所見などをもとに病像・経過に類似性が求められ,これが症候論的な病気の認識を育て,さらに患者の死後は,その原因を身体内に求める病理解剖を行うという方法論が発達して,診断能力を高めることになったのも,このような病院においてである。つまり,病人から病気を抽象し,それを中心として病院機能が展開される条件を与えた。もっとも,これは基盤であって,病院医療が社会全体の医療にとって大きな意味をもつようになったのは第2次大戦以降である。それまで,医療は独立した自由業である開業医の診療所が担っており,病院医療は社会事業的性格のままでとどまっていた。
第2次大戦後,医療は健康権という基本的人権を保障する重要な社会的機能として公的に位置づけられた。こうなると,権利保障の任にあたる行政が医療に介入することになり,独立自由業であった開業医の行う医療に形式的にも内容的にも大きなインパクトを与えることになった。その最大の条件は量的な変化である。健康権を保障するため,行政は,国民が医療を受ける場合の困難を減少するよう,医療保険や医療保障制度を導入したり,医療機関の増設や医療従事者の増員などを進めるが,この結果医療需要は急速に増大する。また,医療費が公的に支払われるようになることで技術開発にも弾みがつき,いわゆる医療技術の高度化が急速に進行した。このような医療は病院医療の比重をしだいに大きくさせ,医療全体の技術性を濃厚にする。これを別の角度からみれば,人間サービス的な面を希薄にするように作用した。加えて,医療費の総額を加速度的に押しあげ,多くの国の社会経済にとって,しだいに大きな部分を占めるようになった。このことが引金となって医療の国民保健に及ぼす効果の見直しが始まった。そのなかでとくに注目されたのは,医療技術が進み,高額の医療費を投じても,医療需要は低下せず,むしろ増加するということであり,とくに高度医療といわれる形式の非効用性の問題であった。そのような理解のもとに,各国で医療の供給体制の検討が行われるようになったり,その過程で発見されたのが,地域医療または地域保健の概念であり,そのなかでの,一次,二次,三次の医療などの保健体制の区分とそれらの間の連携を含めた,地域医療(保健)計画の発足推進であった。計画化のためには,それまでのように無原則では考えようがない。どうしても地域を特定し,その枠の中での医療保健の必要度を測定し,それを充足するために,最も効果的な医療保健資源の配置をとる必要がある。一次,二次,三次とは,とくに高度化し,特殊専門化された設備器材を要する医療機関を三次とし,それより高度化,特殊化の程度の低いものを,二次,一次と順次配するための区分である。患者は一次医療機関でまず受けとめられ,そこで対応できない場合,あるいはとくに必要な検査や処置のみ,二次,三次の機関に行わせようという構想である。この構想が現実化されるにともなって,一次医療といわれる部分は,単に医療費経済にとってのみならず,病気の予防や,患者や地域住民の健康生活を維持するうえで,きわめて重大な機能をもつものであることが認識され,将来の医療保健を考えるうえで不可欠であるとさえ考えられるようになっている。プライマリー・ヘルス・ケアprimary health care(PHCと略す)といわれるのがこれである。たとえば世界保健機関は,1946年〈単に疾病または病弱の存在しないことではなく,完全な肉体的,精神的および社会的福祉の状態〉として,新たな健康の定義を設定し,それを権利として承認するところから事業を始めたが,いわゆる近代医療の普及によっては,思わしい成果が得られないばかりか,逆に国民経済への圧迫にすらなる場合が少なくないことに気づき,78年9月アルマ・アタ宣言において,この健康権を保障するため,中心にプライマリー・ヘルス・ケアをすえた方法論を提出した。それは,次のように定義されている。〈自助と自決の精神にのっとり,地域社会,または国が,開発の程度に応じて負担できる費用の範囲内で,地域社会の個人または家族の十分な参加によって,彼らがあまねく利用できる,実用的で科学的に適正で,かつ社会的に受け入れられる方法と技術に基づいた,必須の保健ケアのことである〉と。〈自助と自決〉は,健康教育の重要性とともに,医療の役割を,病気の技術的操作から,援助・助言に基礎を置くことを要求する。〈開発の程度に応じて〉とは,医療を異常事態を中心にして展開することから,日常的現実性を基礎にすべきことを訴えている。〈科学的に適正で,かつ社会的に受け入れられる〉ということは,科学の名のもとに展開される技術的独走を戒め,適正さと同時に受け入れられやすさや住民自体が扱えるものであることを重視している。近代化が放棄していた伝統医療,民間医療も,いま一度,科学的に適正であるかどうかを検討しつつ,より積極的に評価し,あるいは実用に供すべきであるということになる。
ところで日本の場合,おおよその流れは,上述したところと変わらないが,注意してみると,かなり特徴的な点も少なくない。とくに,近代医療の基地となった病院が,日本の場合,初めから一般市民向けの医療機関として,性格づけられたという点は重大な影響がある。つまり,西欧におけるように,社会政策の一環としての公的病院の設置はほとんど進められなかった。貧困階層救済の目的を別にして,ただ設立主体や運営主体という意味での公的病院に注目しても,第2次大戦後まで,中央政府はその育成にむしろブレーキをかける役を果たしてきた。つまり,このことが,日本の病院が全体として私的経営であるという性格を強く刻印づけることになる。病院は診療所とは本質的に違わない。法的にも,病床数が20床以上あるものを病院とするという区分だけで定義づけられてきた。したがって,診療所と病院は機能的に分化しがたいばかりか,むしろ競合している。西欧の診療所に比して日本のそれでは,医療設備において著しく重装備であることは,診療所の病院化であり,医薬分業の不徹底,専門医制度の未発達など医療のなかの分業体制が判然としていないことは,診療的性格が日本の医療の基調であることを示すものであろう。また,西欧ではとくに公的施設として設置運営される精神病院や結核・ハンセン病者の療養所,最近では老人病院や身障者の施設などにおいて,私的な経営になるものの比率が高いのも,日本の特徴である。
このような体質のうえに,戦後健康保険が普及し,しかも,その報酬の支払い方が個々の診療行為についてそれぞれ単価を定める,いわゆる出来高払方式を採用したために,検査や与薬,注射など,この方式になじむ診療部分の濃厚化と,それになじまない患者の心理面や生活面への配慮の希薄化が批判されるようになった。また,このような理由に加えて,住宅事情の悪化や“高度”医療への期待などが相まって病院病床が急速に増加し,人口あたりの病床数の比率では世界第1位となっている(ただし,欧米に多い中間施設,つまり,さほど濃厚な医療は行わないで,保養によって回復期を過ごさせたり,慢性の病気をもつものには,生活療法を中心として,長期間滞在させる施設の病床数を加えれば,この順位はかなり下になる)。このような,病院病床数の比重の大きいこと,病院と診療所が競合関係にあること,専門医や各種医療従事者間の分業と協力体制の未発達,そして全体的な社会経済の成長鈍化のなかで,著しく高度化すなわち高額化しつつある医療技術,さらに,かなり時期がおくれて医療の場に新規参入することになる多数の新卒医師などの諸問題のなかで,プライマリー・ヘルス・ケアを含めて,地域医療保健計画を進めることははなはだ困難であるが,避けては通れない事態が迫っていることは確かである。
さらに大きな問題は,医療が健康権を前提にして行われるようになったこと,および医療の科学性や技術性の向上のために医療行為の原則が大きく変化したことである。健康権設定以前には,患者はその医療の決定権に関して,全面的かつ事実上無条件で医師に委譲してきた。あらゆる決定は医師の専決すべきものと考えられ,その内容は必ずしも明らかにする必要はなかった。しかしながら,健康権が承認されることは,必然的に,医療に関する意思の決定権は確かに患者にあることを印象づける。さらに科学性・技術性は公開性を原則とする。なるほど患者は,その病気のゆえに,あるいは非専門家であるがゆえに,理性的な判断は困難であるという条件がある。しかしながら,患者の権利を認めるとすれば,患者に知識が不足しているなら,それを補い,感情的になっているのなら,それを鎮静させて,正しい判断が可能になるよう援助するのが,医療行為の原則つまり倫理になる。事態はしだいにこのような方向に進みつつあるが,患者にとっても,医師を中心とした医療従事者にとっても,まだなじめないだけでなく,個々の場合の実際的な判断については,まだ検討を要することが多いために,葛藤状況の起こることが少なくない。
医療は病気を対象として,これに人為的な干渉・操作を加えて治癒させることを目的とする行為であるが,病気の性質と操作の関係,さらに操作の背後にある自然観や,自然的・社会的条件によって時代的あるいは地域的な特徴や差異ができる。病気が強力であるか,操作が不適切で弱い場合(それは医療についての知識や技術が未発達である場合には一般的であり,また猛烈な伝染病の場合のように,激しい症状を呈して,広くまんえんする場合),医療はほとんど効果を発揮できない。このような場合には,人為的な操作よりは,呪術や宗教などが前面にでて,超自然的な力を頼っての行動となる。また治療のための知識や技術は,初めは,ほとんどが偶然に発見されるものであるために,地域性が強い。それを大きく集約するのは,政治的な権力か,それ自体の利益のために展開される交易によるかである。権力が強大であるほど,あるいは交易圏が広くなるほど,より遠い地域からの知識や技術が収集される。とくに医療に関する知識・技術は必要性を優先するために,距離的な障害の克服はより容易な傾向がある。ただし,集約された知識・技術を総体としてどのように論理化し制度化するかは,社会を動かす原理としての宗教の役割がかなり大きな働きをする。ユダヤ・キリスト教的な自然観では,人間は自然を支配するものとして位置づけられているので,その契機をつかむと,病気も支配すべき対象として客体化されることになる。医学の近代化というのはこれである。一方,イスラム教やヒンドゥー社会では,前者は一神教,後者は多神教の差はあるが,神の支配があまりに強力であるために,自然や病気に対する人為的操作の可能性を信じさせない。中国では,宗教との関係は早くから切り離されたが,アジア的専制という言葉が示すように,すべての知識・技術は神に代わって中央的な政治権力が独占するために,同じく病気に対する人為的操作を信じさせない。このような思想のもとにあっては,病気は自然の変容であり,医療はその自然に沿って保護的な働きをするものとして位置づけられる。古典的な医療の原理はこのように理解できる。
→呪医
医療は古代ギリシアにおいてはじめて独立した職能者が行うものとなり,さらに病気研究の方法論や,病気を説明するために,普遍的,合理的な原理を採用するようになった。古代ギリシア(前8~前4世紀)以前のナイル川,あるいはティグリス・ユーフラテス川地方での文明にあっては,医療は支配階級に独占され,強く呪術的,宗教的な様相を呈していた。ギリシア医学がそのような傾向から離れることができたのは,国土が多くの島に分かれ,本土も岩山が多くて農耕に適さなかったために,帝国の形成が困難であったことが考えられる。帝国となれば,権力の支配力を強化するために,あらゆる有用な技術を国家宗教の傘下に帰属させるからである。ギリシアでは,帝国を形成する代りに,都市国家が生まれた。そして地中海各地との交易をもっておもな生業とした。交易の媒介になるのは,土着の呪術や宗教ではなく,合理性である。さらに交易を中心とした社会では,急速に,市民階層,それも,かなり裕福な市民階層が増大する。そこに医療をもっぱら業とする職能者が発生する基盤が広がり,さらに,呪術や宗教と離れた合理的な理論を基礎とした説明がより受け入れられやすくなる。つまり,古代ギリシア医学は,普遍的性格を獲得したことになる。この医学をローマ帝国も受け入れるが,ローマ人は,病気を徹底して負の価値のものとし,その治療にあたる医師も同様のものとしたために,医療はもっぱら奴隷や外国人の生業と考えられた。ただし,健康には大きな価値を認めたために,スポーツや衛生,食養などには強い関心が払われ,上下水道や浴場などに積極的な投資が行われた。医療が奴隷や外国人の手にゆだねられていたために,医学にもとくに大きな変化はなかったが,奴隷の筆耕者が多数得られたこともあって,既存の知識を集大成した著作が多く編まれ,そのなかには医学・薬学関係のものも少なくない。それらが,医学の基本的テキストとして後世に伝えられることになった。中世になると,これらの医学的知識と技術は,アラブ圏に摂取され,ヨーロッパではキリスト教会内に保存される。アラブ圏は,メソポタミア文明やギリシア・ローマの文明をとり入れ,8世紀には,黄金時代のローマ帝国の版図に倍する広大な地域を支配する大帝国となった。大きな人口をもつ都市も各地に栄え医療需要も増えたために,医療専業者も増加したが,あまりにも強力な一神教であるイスラムの教義上,生活衛生上の諸規則は数多くあり,固く守られたが,新しい知識や技術の開発には抑制的な雰囲気がつくられたために,アラビア医学としての独自性はあまりみられない。いくつかの疾病の記載に名を残している程度である。ただし,ヨーロッパより早く病院や精神病院が設けられていることは注目に値する。ローマ時代に,多くの軍団駐屯地に傷病兵を収容する大きな施設が設けられ,医療技術者が配せられていたことは知られているが,兵員専用のものである。また,7世紀からヨーロッパではホスピタルhospitalと名のつく施設がときにつくられ,11世紀から14世紀にはキリスト教団に盛んにホスピタル建設運動が起こる。しかし,これらはすべて,その言葉の原意つまり宿泊所であって,病人用ではなかった。これに対してアラブ圏では,8世紀にすでに病人収容の施設が設けられ,その後も大都市周辺に,普通病院,癩病院,精神病院などが設立されたことが知られている。これらは宗教的慈善からというより,砂漠遊牧民として,集団の健康を守るための知恵を制度化したものといえよう。ヨーロッパのホスピタルが病人のための施設に変わるのは,スペインなどアラブ文化圏と接している地域からである。もっとも,病人専用施設となっても,基本的な任務は病人を社会から隔離することにあったので,とくに濃厚な医療が行われたわけではない。これらの病院へ医療を提供したのはキリスト教会であるが,本来霊の救済を目的とする教会にあっては,とくに医療についての知識・技術の開発に力を注ぐことはなく,ただ伝えられたものを維持するにとどまった。
中世ヨーロッパには大きな民族移動が繰り返された。そのため各民族の知識・技術が伝達され,中世末期には社会が活性化された。移動によってつけられたルートを中心に交通・交易も盛んになり商業都市が栄えた。当然医療需要も増えるが,それに対してより適切にこたえるため,医療専業者のなかには他のギルドにならって,営業権独占のため,主権者に依頼して資格制度を設けるようになる。その際,より高度の知識の所有者であることを明らかにするために,大学に設けられた医師養成課程を終えて,学者としての顔をもって患者に対する医療職能者がしだいに増加した。その知識は,初め古典が基本であったが,やがて自然や身体に中心を移した。解剖学や生理学への関心が芽生え,それらを医学の基礎と主張するようになった。しかしながら,それらが診療に力をもつようになるのは,18世紀以来,病院が医学研究と診療,医学教育の基地となってからである。そこでは,患者から病気を区別し,客観的な科学として病気を明らかにし,それを除く方法として,医学は新しい方法を獲得した。近代医学と呼ばれるのがこれである。この近代医学も,第2次大戦後,健康権を基礎に強力に展開されることになったが,その客観的な方法のゆえに,人間性つまりは権利と衝突する場合のあることが明らかになり,医療は新しい展開が求められるようになっている。
執筆者:中川 米造
イスラムの教えのなかには,あらゆる病気はアッラーがつくったもの,アッラーはすべての病気を治癒する薬をもつくりたもうた,アッラーの前に不治の病はない,コーランは最良の医薬であり,開巻第一のファーティハの章を唱えることは病気に対して特効がある,というような信念がある。しかし,アラビア医学の発達により,ギリシア,インドなどの医学がとり入れられ治療の理論も確立した。人体を小宇宙とみて,大宇宙が熱・寒・乾・湿の4特質の調和によって保たれているごとく,人体も4種の体液の調和によって健康を保っている。病気はそれらの調和が破れることから起こるので,熱性の病気には寒性の食物や薬品を与えるというふうにそれぞれ反対の性質のもので調和を図り,健康を回復させるという理論である。医療法には食事療法,薬物療法とあるが,食事療法を優先し,薬物使用はできるだけ避くべきものとしていた。また空気のよい所に病人を置くこと,運動と休養,衣服の材料の選択,睡眠と目覚め,男女の交わりの調節,精神状態の安定なども治癒のためたいせつな条件としていた。10世紀前半はアッバース家のカリフたちの暗黒時代であったが,第18代ムクタディル(在位908-932)や次のカーヒル(在位932-934)の時代にクッラ家のシナーンSinān b.Thābit b.Qurraのような名医がいて,バグダードの四つの病院を七つに増した。またこの都の約860人の開業医に対し検定試験を課して,合格者のみに医業を続けることを許したという。ただし,すでに名声のあるもの若干名は試験を免除された。病院bīmāristānはウマイヤ朝のカリフ,ワリード1世(在位705-715)に始まるとの説があるが,癩患者を隔離し,看護人をつけた程度であり,本格的なものはアッバース朝のハールーン・アッラシード(在位786-809)がジュンディーシャープールの病院にならってバグダードに建設させたのが初めで,地方都市にも相ついで設けられた。11世紀末以後十字軍士が見たイスラム諸都市の病院は世界一流のものであった。
執筆者:前嶋 信次
病気の原因が魔物につかれることであると考えられていたベーダ時代においては,医療の中心的役割を担っていたのは呪術であった。薬草や病気についての知識と経験が深まるにつれて呪術は後退し,前6世紀ころから《アーユル・ベーダ》と総称される知の実践体系が形成されていった。しかし呪術的要素は完全に払拭(ふつしよく)されたわけではなく,さまざまな形で現在でも跡をとどめている。《アーユル・ベーダ》は長寿のための知恵というその名が示すように,病気の治療だけでなく健康の維持増進をも目的とする養生法でもあるから,食事・睡眠・運動などの基本生活から人間としての生き方に至るまでを考察の対象にしている。古代においてすでに外科的療法を行う学派は存在していたが,不殺生の教えが浸透するにつれ,内科的療法が主流になっていった。人間の身体を含む自然界のすべてがバータ,ピッタ,カパの三つの要素からなっており(三要素説),その平衡がくずれることによって病気が生ずるのであるから,医療行為とはさまざまの手段によってその平衡をとり戻すことであるというのが根本思想である。その際,医者と薬物と看護人と患者が4本の柱であるとされる。したがって病気という局所だけをとり出して退治する思想は生まれず,解剖に対する関心も生まれなかった。《アーユル・ベーダ》はイギリス統治時代に西欧近代医学に圧迫され,一時すたれかけていたが,独立運動期のナショナリズムの高揚とともに復興し,独立後多くの大学や病院が設立された。巨大な人口をかかえるインドでは伝統医の存在なくしては医療をまかなうことができないのは事実であるが,それだけの理由ではなく,2000年以上の命脈を保っている祖先の叡知を新たに見直そうという動きもある。近代医学の象徴が大総合病院であるのに対し,《アーユル・ベーダ》医の大多数は個人開業で貧しい人々とじかに接しているが,伝統にどこまで忠実であるかは千差万別である。
執筆者:矢野 道雄
過去の中国では医者の社会的地位が低かったため,医療活動の実態はほとんど伝えられていない。現在知られているのは各時代の医療制度,それも中央ないし地方の政府が管理する医療機関の人員構成とか主要業務,そこに勤務する医者の養成と資格の認定などに関する事項だけである。このような医療機関は官吏のためのものと考えられ,一般民衆の医療については各種の文献に散見する資料から類推するほかはない。
殷の時代には医療についての記録はないが,病気は祖先の霊のたたりによると考えられたから,霊をしずめるための祭祀が大きな比重を占めていたであろう。祈禱やまじないは,邪気を主要な病因と考えた周の時代にも巫医(ふい)と呼ばれる一群の医者によって盛んに行われた。巫医が単なる祈禱師であったか,薬物なども併用したかは,漢時代の方士などとの関係とともに明らかでない。病気の治療に用いたまじないの例は馬王堆3号漢墓(前168築造)から出土した《五十二病方》のなかなどに見ることができる。まじないの類は時代によっては宗教行為とも結びついて盛んになり,後漢末から六朝時代には太平道や五斗米道(ごとべいどう)などの運動のなかで護符を飲むことが流行した。唐時代もまじないを重視した時代で,それを用いて治療する咒禁(じゆきん)科は中央医療機関である太医署に設置された4診療科のうちの一つに挙げられていた。まじないは明時代の太医院にも祝由科として残されていたが,その比重は低下した。
中国医学の治療法のうちで最も重要なものは薬物療法であるが,その記録は周時代から出現する。《周礼》によると,周の時代には食医,疾医,瘍医,獣医が置かれて,保健衛生業務をつかさどったとされている。このうち疾医と瘍医が現在の内科医と外科ないし皮膚科医に相当し,これらを監督する行政長官が〈医師〉で,患者が死亡した場合にはその治療経過を報告させていた。秦・漢以後は太医令などの医官が置かれ,そのほかに天子や皇族の病気を診療する侍医,軍隊には軍医が存在し,地方行政機関にも医官がいたことが知られている。《脈経》の撰者の王叔和は晋の太医令であったとされる人で医者であろうが,太医令が医療担当官であったか医療保健行政の長官であったかは明らかでない。最近の出土品の研究結果によると,前漢初期から後漢初期までの期間の薬物療法の進歩は著しいものがあるから,この時代に医療水準は大幅に向上したと考えられる。薬物療法はその後も発展し,六朝時代には現在でも使用されているような処方を含む処方集が多数編纂(へんさん)された。
隋・唐時代になると医療制度は整い,唐では太常寺に太医署を置き,医学教育を含む医療行政全般と診療をつかさどっていた。太医署には医,鍼,按摩,咒禁の4科があり,天子と皇族の健康管理のためには尚薬局があった。唐時代には《新修本草》や《広済方》を編纂して頒布するなど,中央,地方の医療水準の向上に努力が払われ,医療担当者の質を高めるために資格試験や年末の勤務評定を実施したり,不法行為の罰則を定めたりしている。中央と地方の行政兼診療機関は宋以後も設置されているが,その機構は医療の進歩とともに変化している。宋の時代には本草書の改訂や《素問》(《黄帝内経》),《傷寒論》などの主要な医書の標準テキストの制定と刊行などが行われた。これは印刷術の発達にも影響されたものであるが,医者や知識人たちの医学知識を向上させ,金・元時代などの著名な医家を輩出させる一因になった。このほか崇寧年間(1102-06)には和剤恵民薬局を設立して薬剤を製造して常備し,需要に応じて販売している。この薬品はのちに売薬に移行し,医療の普及に役立った。鍼灸療法は周の末期ころから始まって薬物療法と並行して発達し,六朝初期には一応完成し,医学の重要な1分科として独立して医療に貢献した。
中国の医療の大部分は民間の医者によって支えられたと考えられ,多くの著名な医者が知られているが,医療を職業とした人たちのほかに,文化人たちが近親者の不時の用に備えるなどの目的で医書を研究したのが中国の医学の特徴の一つで,これは医療,とくに医学思想の向上に大きく役立った。しかし《肘後方》のような簡単な処方だけを集めた処方集が繰り返して編纂されていることは,地方の一般庶民階級を対象とした医療は,このような教養のある階級の出身である医者にかかることも薬品を手に入れることも困難であるという低い水準にあったことを示している。中国ではたびたび伝染病に悩まされたが,人痘(ヒトの天然痘のかさぶたを接種する方法)のような例外は別にして,一般にその療法は発達しなかった。中国にも六朝から唐代にかけて仏教とともにインド医学が流入し,元の時代にはイスラム医学も流入した。前者は中国医学に影響を与えたことは確かであるが,完全に取り込まれてしまって,その痕跡を見つけるのは困難であるし,後者は17世紀以後に流入した西洋医学とともに,異質のものとして伝統医学には影響を与えなかった。
執筆者:赤堀 昭
これまでの日本医療史の記述の特徴は,その知識・技術の外来性の起源をとくに強調することにあった。神話においても,日本人に農業とともに医療技術を教えた少彦名(すくなびこな)命は外来者で,使命を終えると常世国に帰ったとされる。7世紀に古代国家が成立したとき,朝鮮半島から多くの技術者が渡来し,天皇家および豪族たちの体制強化に協力しているが,そのなかに医療専業者も混じっていた。8世紀には中国大陸との正規の国交が盛んになり,隋・唐の医療技術が入ることになるが,〈養老令〉などで,唐制をモデルにした官僚機構(内薬司,典薬寮など)が整備されるなかで,医療に関する官衙(かんが)や制度も法令に盛り込まれることになった。そこでは医学教育施設や教育法,試験なども記載されているが,記載どおりに実施されたかどうかについては確証はない。あったとしても,この官衙の主要任務は宮廷の医療需要に応ずることで庶民の利用へ門を開くものではなかった。12世紀鎌倉時代までは,ほぼこのような状態であった。
平安時代末期,貴族社会が崩壊し,宮廷医療によって生活していた医師たちは,サービスの対象を変えなければならなくなった。これと同時に一般庶民レベルにおいても,病気の場合,専門家の医療を受けられる経済的余裕をもったものが増えてきた。また仏教の大衆化も進んだが,この際,布教活動の一環として行われた救療活動は,大衆に対して専門的医療との距離を近づけた。さらに戦国時代には,外科(金創)の需要を高める。こうして一般庶民へのサービスによって生計をたてる開業医的な形式が広がっていった。それらのなかで富裕階層を患家にもつ医師たちは,大きな成功をかちえ,さらに金力をもって,私費で中国に渡って医学を学んで帰ったものもある。こうした成功した医師たちのもとへは医師志願者が集まるようになり,さらに進んで,私的な医学教育施設を開くものも現れた。日本では他の技芸の場合と同様,このようにして生まれた師と門人の関係を〈流〉と呼んで,タテ系列の結社をつくるが,西欧におけるような同業者どうしの組織化は起こらなかった。
このころ外国から伝わった医療としては,16世紀にポルトガル船が漂着して以来,キリスト教宣教師によるものがある。彼らによって西欧の知識・技術による医療活動が行われ,これに接近した日本人にいわゆる南蛮流が生まれた。また鎖国後には,長崎における通訳が,オランダ人やオランダ商館づきの医師から医学を学んで,一派を開くこともあった。
以上のように,日本の医療は諸外国からの影響を受けながら発達してきたのであるが,では,これらの外国起源の医学が,どれほど原型を忠実に伝えたものであるかということになると,疑義のあるところで,多分に表面的なものにとどまり,内容的にはかなり日本的な解釈やくふうがなされている。江戸時代の,中国で発展してきた医学理論を放棄して,古典を経験に即して解釈し直す,いわゆる古医方派の登場はその一例である。経験による実証の重要性の発見が蘭学への接近となり,さらに医学の西欧化の道を開いていった。
→アラビア医学 →医学 →医者 →インド医学 →中国医学 →病院 →病気
執筆者:中川 米造
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
字通「医」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…日本語で医学という場合,最も広義には,医療の技術へ焦点をあてた医術,倫理性に焦点をあてた医道,および医療のための知識に焦点をあてた医学の三つを含み,ときにこの二つ,あるいは一つを意味する。最も狭義には3番目の自然科学の一部としての人間生物学を意味する。…
…医療をめぐる法的問題を考究する学問。法的判断のために医学的判断や資料を提供する〈法医学〉とは異なる。…
…
【医者の役割と地位】
社会学的にとらえると,医者とは医療に関して高度の知識や技術を保持しており,感情的に安定し,緊急事態においても動揺せず,さらにみずからの知識や技術を病人の救助という社会的な善に向けるという役割期待にこたえているものをいう(T.パーソンズ)。したがって現代社会では,高度の知識・技術の保持者であることを示すために,(1)高等教育を受けていること,しかも他の多くの職能者より長年月学習し,(2)その教育訓練の内容も近代社会でもっとも信頼され,また感情的な安定を保持するため,客観性を手段とした知識であると一般に認められている科学を基本にして行われているうえに,(3)医師法などに基づき独占的に医療を行うことを国の免許によって法的にも保証された職能者である。…
…医療の行為のうち,患者を診断し,適切な処方箋を発行することを医師が責任をもって行い,処方箋に基づいて誤りなく医薬品の調製を薬剤師が行い,患者に交付するという医師・薬剤師の責任分担を明確にした制度をいう。ヨーロッパでは,早くから医薬の分化の萌芽があり,6世紀の文献上にすでに〈医師が処方し,ピグメンタリウスpigmentarius(薬剤師の前身と考えられる薬種商)が調剤する〉との記述が認められる。…
…一般的にいえば医療に関する統計という意味になるが,〈医療〉という用語だけをとりだして,その意味する範囲や内容などについて考えてみても,以下のように,大きな広がりをもっていることがわかる。すなわち,〈医療〉は医術によって病気をなおすこと,という説明だけでは舌たらずで,このことと自然治癒力とのかかわりあいで考える必要があるし,一方学問領域の関係では,医学ならびに保健学との重なりあいや境界などに対する検討が必要となる。…
… このようにmedicineの意味する内容には時代による変遷はあったけれども,いつの時代にあってもmedicineの目的が病気を治すことにあったことはもちろんである。しかし,このmedicineのめざす方向は,近代に入って,医療medical careと医学medical scienceの2方向に分化する。つまり,それ以前の臨床臨学的なmedicineは,病気を治療するにしたがって経験的な蓄積もでき,また治療するためには,知識としてそれらの蓄積を整理し体系づける必要に迫られたということである。…
※「医療」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加