(鈴木靖民)
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生没年不詳。「ひめこ」とも読める。『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)にみえる弥生(やよい)文化後期の倭の女王。2世紀後半(後漢(ごかん)の桓(かん)帝・霊(れい)帝の時代)に起きた倭の大乱は、倭国内の小国群が邪馬台(やまたい)国の一女子卑弥呼を倭の女王に「共立」することによって鎮まった。卑弥呼は神の妻として「鬼道」に長じ、結婚せず、シャーマン的王として人々を臣服せしめた。倭王になって以来、神に仕えるために宮殿にこもり、人々の前に姿をみせなかったという。彼女に飲食を給し、辞を伝えるのは1人の男子だけであり、一方においては婢(ひ)1000人が侍するというように神秘的ベールに包まれていた。卑弥呼には男弟があり、卑弥呼の意(神の託宣)に従い政治的・軍事的政務を担当したという。卑弥呼は239年(景初3)に難升米(なんしょうまい)らを帯方(たいほう)郡、そして洛陽(らくよう)に派遣し、生口(せいこう)・斑布(はんぷ)を献上して魏に朝貢した。魏は卑弥呼を「親魏倭王」に任命し、金印紫綬(しじゅ)を賜与した。
243年(正始4)には伊声耆(いせいき)・掖邪狗(えきやく)らを朝貢させたが、その後、南に位置する男王・卑弥弓呼(ひみきゅうこ)を擁する狗奴(くな/くぬ)国との戦争に突入した。卑弥呼は247年、魏に載斯烏越(さいしうえつ)を派遣し、その戦況を報告せしめている。魏は卑弥呼の要請にこたえたのか国境警備官の張政(ちょうせい)を介して詔書・黄幢(こうどう)を倭にもたらしたという。卑弥呼はその前後に死んだらしく、その墳墓は径100余歩(約120メートル)を数え、奴婢100余人が殉葬された。その後、男王がたったが、国中が従わず、卑弥呼の一族の女で年13の壹与(いよ)が擁立されて内乱は終息した。卑弥呼に関しては記紀のどの人物に比定されるかが問題とされており、邪馬台国の位置論争とのかかわりのなかで、天照大神(あまてらすおおみかみ)、神功(じんぐう)皇后、倭姫命(やまとひめのみこと)、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命が候補にあがっている。その倭の女王卑弥呼が皇室系譜に当然入るべきという先入観は学問的とはいえない。卑弥呼は「だれか」よりも「いかなる人物か」を政治・外交・社会・宗教など多面的側面から明確にすることが肝要である。
[関 和彦]
《魏志倭人伝》に見える邪馬台国の女王。178-183年(後漢霊帝の光和年間)ごろに倭国で戦乱があり,卑弥呼が倭国内の諸小国の首長によって邪馬台国の王に共立された結果,邪馬台国をふくむ倭国の戦乱は,いちおう終息した。卑弥呼は,呪術的宗教の司祭にたけ,民衆を心服させる能力を備えていた。卑弥呼は,結婚適齢期に達していたが,夫はおらず,現実的な政治の面は,弟に助力をあおいで国を治めていた。卑弥呼は,王となって以来,人々の前に姿をあらわすことがなく,ただ1人の男子が,卑弥呼に飲食を給し,事柄の伝達のために,卑弥呼の居室に出入りしていた。こうした卑弥呼の姿は,まさに〈幽閉された原始的国家の王〉そのものである。卑弥呼は,239年6月に,難升米(なんしようまい)らを帯方郡に派遣し,さらに魏の朝廷に朝貢することを願い出させた。帯方郡の長官劉夏(りゆうか)は,役人を遣わして難升米らを魏の都洛陽に送りとどけた。この年の12月,魏の皇帝は,卑弥呼に詔書を出して,卑弥呼を〈親魏倭王〉とし,金印紫綬を仮に授け,卑弥呼の献上した男女の生口10人,斑布2匹2丈に対する返礼の品物として銅鏡100枚,5尺刀2口などを贈ることを明らかにした。この詔書と品物は,翌240年に魏使によって卑弥呼のもとにもたらされた。卑弥呼は,さらに243年にも使者を魏へ派遣し,生口,倭錦,丹,短弓矢などを魏の皇帝に献上した。このころから,邪馬台国とその南に位置していた狗奴(くな)国とが対立し,この戦乱の状況を,卑弥呼は,247年に魏へ報告するため使者を帯方郡へ送った。この戦乱は,卑弥呼にとって厳しいものであったらしく,戦いの最中に卑弥呼はその生涯を閉じる。《魏志倭人伝》には,大きな墳墓を作り,奴婢100余人を殉葬したとある。死後,男王を立てたが国中服さず,卑弥呼の宗女臺與(とよ)を王とし国中が定まったという。
→邪馬台国
執筆者:佐伯 有清
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「ひめこ」とも。「魏志倭人伝」にみえる邪馬台国(やまたいこく)の女王。倭の諸国間に大乱がおこったとき,それを収拾するため諸国の王に共立されて女王となった。独身で鬼道をよくしたことから,シャーマン的要素が指摘される。また男弟が助けて国を治めたという記述から,男女で支配者の権能をわけもつヒメ・ヒコ制の原形としても注目される。239年から4回中国の魏(ぎ)に朝貢。最初の遣使で魏の皇帝から親魏倭王の称号と金印紫綬をうけた。南の狗奴(くな)国の王である卑弥弓呼(ひみここ)と対立,247年に戦闘状態に陥ったことを帯方郡に連絡して督励使をうけたが,この戦の最中に命を失ったらしい。墓は径100余歩と伝えられ,奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳にあてる説もある。
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邪馬台国(やまたいこく)の女王。『魏志』倭人伝によれば,呪術を得意とし,30近い周辺の諸国を従えていたとされる。239年に魏に使いを送って冊封を受け,親魏倭王の印と銅鏡100枚などを授かったといわれる。
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…後世ではたとえば清制の貴妃や親王,郡王,貝勒(ベイレ),公主,夫人等の任命をこの語でよんだように,封侯身分と観念されるものの叙任を意味した。冊封の対象は内臣にとどまらず外族にも及び,倭の女王卑弥呼が曹魏朝から〈親魏倭王〉に封ぜられたり,足利義満,豊臣秀吉が明朝から〈日本国王〉に封ぜられたのも冊封の例になる。冊書は本来は竹簡を編綴した竹冊であったが,後世は玉冊や綾錦の類も使用された。…
…日本では592年(崇峻5)に即位したと伝えられる推古天皇が,存在確実な最初である。それ以前では,《三国志》魏志倭人伝に,2世紀末から3世紀後半まで女王卑弥呼(ひみこ)と台(壱)与(とよ)とが倭の邪馬台国を支配したとある。《日本書紀》では神功皇后が仲哀天皇の死後69年間摂政したとするが,史実かどうか疑わしい。…
…【澁澤 龍】
[中国と日本]
中国の夏の時代(約4000年前)にすでに貢物として用いられ,《魏志倭人伝》が書かれた三国時代には,主要な薬の材料の一つでもあった。同伝には,魏王から卑弥呼に絹,金,銅鏡などとともに真珠,鉛丹各50斤を賜ったとある。また,邪馬台国の風俗,産物を述べた中に,真珠,青玉を出すとあり,邪馬台国でも真珠を採っていたと思われる。…
…帯方郡はまた海を隔てた倭国に対する制圧の目的もあった。有名な3世紀前半ころの倭の女王卑弥呼の使者の魏への朝貢もこの帯方郡を経由するものであった。帯方郡は魏が238年,公孫氏を滅亡させるとともに楽浪・帯方2郡も同時に魏の支配下におかれたが,やがて西晋が魏に代わると西晋の支配におかれた。…
…この関係にもとづいて,兄弟姉妹が政治的・宗教的支配権を分掌する支配体制ができ上がった。その典型例は,邪馬台(やまたい)国の卑弥呼(ひみこ)と男弟による共治体制,賀茂神社の斎祝子(いつきのはふりこ)とその兄弟の神官による祭祀体制などにみられる。《古事記》の狭穂彦・狭穂姫(さほびこさほびめ)の物語などもヒメ・ヒコ制を念頭におかないと十分には理解できない。…
…《魏志倭人伝》によると,邪馬台国は,女王の都する所で,官に伊支馬(いきま),弥馬升(みましよう),弥馬獲支(みまかくき),奴佳鞮(ぬかてい)の四つがあり,7万余戸の人口があったという。この国の王は,2世紀末に近いころに倭国内の諸小国の首長によって共立された女性の卑弥呼(ひみこ)であった。女王以前には男王が立てられていたというが,当時の邪馬台国の王家は,卑弥呼が生まれた家の近親者によって王位が継承されていたということはなかったであろう。…
…奈良県桜井市にある大規模な前方後円墳がそれだといわれる。姫を邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)に比定する説もあるが,ともあれ大古墳の主という伝承自体,当時の巫女的女性の権威の大きさを物語っている。【倉塚 曄子】。…
※「卑弥呼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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