南京大虐殺(読み)ナンキンダイギャクサツ

デジタル大辞泉 「南京大虐殺」の意味・読み・例文・類語

ナンキン‐だいぎゃくさつ【南京大虐殺】

日中戦争初期の昭和12年(1937)、南京を占領した日本軍による、中国軍捕虜や一般市民に対する大規模な略奪・暴行・虐殺事件

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「南京大虐殺」の意味・わかりやすい解説

南京大虐殺
なんきんだいぎゃくさつ

日中戦争で、日本軍が南京を占領した際に略奪・虐殺などが行われた事件。南京事件ともよばれる。

 1937年(昭和12)8月には戦争が華北から華中に拡大し、日本軍は上海(シャンハイ)で中国軍の激しい抵抗に遭った。ようやく中国軍を退却させた11月、中支那方面軍(司令官松井石根(いわね)大将)は指揮下の上海派遣軍(司令官朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)中将)と第10軍(司令官柳川平助(やながわへいすけ)中将、杭州(こうしゅう)湾上陸)の2軍団を、首都南京(11月20日に国民政府は南京から重慶(じゅうけい)への遷都を発表)に進撃させた。

 12月13日、日本軍は南京を占領。その際に南京城の内外で中国の軍人、一般市民を含む非戦闘員の殺害や略奪などの行為があり、日本軍は遺棄死体数を8万4000と発表した。犠牲者の数は極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決文では20万人以上(松井石根に対する判決文では10万人以上)とされ、また埋葬された屍骸は約15万5000体と述べられている。極東国際軍事裁判の結果、松井石根元大将が死刑となり、南京で開かれた国防部審判戦犯軍事法廷では、元第六師団長谷寿夫(ひさお)中将らが死刑となった。

[編集部]

「大虐殺」をめぐる論争

日本人の多くが、南京大虐殺のことを知るようになったのは、第二次世界大戦後の東京裁判と並んで、朝日新聞記者・本多勝一(かついち)(1932― )の『中国の旅』(1972)に負うところが大きい。しかし、このベストセラーに対して、鈴木明(1929―2003)『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973)が反論を加えたが、鈴木主張は、事件の存在そのものを否定するものではなく、事件が誇大に伝えられていることを強調するものであった。

 その後、田中正明(1911―2006)『“南京虐殺”の虚構』(1984)が発表されると、その内容が事件の存在そのものを否定するものであったため、日本の歴史家だけでなく中国をも巻き込む国際的論争に発展した。こうしたなかで、旧陸軍の正規将校の団体である偕行(かいこう)社が、『南京戦史』(非売品、1989)を公刊して、少なくとも約1万6000名に上る捕虜などの殺害があったことを認めたため、論争は一段落した。

 ところが、1990年代のなかば以降、中国の対日批判などに対する反発もあって、虐殺否定論がふたたび台頭する。その代表的存在が、東中野修道(おさみち)(1947― )『「南京虐殺」の徹底検証』(1998)だが、同書の特徴は、捕虜や投降兵などの殺害が行われたことはいちおう認めたうえで、その違法性を否定するところにある。

 被虐殺者の数については、中国政府が約30万説をとっているが、日本の国内では、10数万から20万前後とする説、4~5万とする説、1万前後とする説、事件そのものの虚構説などの諸説が存在する。数の面でこれだけの違いが出る一つの理由は、虐殺の定義と範囲が論者によって異なるからである。なお、日本政府自身は、南京で不法行為が行われたことを認めており、文部省(現文部科学省)の検定を通過した、中学校や高校用の教科書でも、南京大虐殺事件についての言及がある。

[吉田 裕]

『鈴木明著『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973・文芸春秋)』『鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』(1999・飛鳥新社)』『洞富雄著『決定版 南京大虐殺』(1982・現代史出版会)』『洞富雄編『日中戦争南京大残虐事件資料集』全2巻(1985・青木書店)』『洞富雄著『南京大虐殺の証明』(1986・朝日新聞社)』『田中正明著『“南京虐殺”の虚構』(1984・日本教文社)』『吉田裕著『天皇の軍隊と南京事件』(1986・青木書店)』『本多勝一著『南京への道』(1987・朝日新聞社)』『南京戦史編集委員会編『南京戦史』(1989・偕行社)』『藤原彰著『南京の日本軍』(1997・大月書店)』『ジョン・ラーベ著、平野卿子訳『南京の真実』(1997・講談社)』『東中野修道著『「南京虐殺」の徹底検証』(1998・展転社)』『秦郁彦著『南京事件――もうひとつの日中戦争史』(中公新書)』『笠原十九司著『南京事件』(岩波新書)』『北村稔著『「南京事件」の探究――その実像をもとめて』(文春新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「南京大虐殺」の意味・わかりやすい解説

南京大虐殺 (ナンキンだいぎゃくさつ)

日本軍が南京において行った虐殺。1937年7月7日の盧溝橋事件後,日本軍は中国への全面侵略に突入し,8月13日には上海攻略に着手,9月5日には全中国沿岸封鎖宣言を発したが,中国軍の強い抵抗に遭い,次々と大量の軍隊を増派した。こうした情勢のなかで,第2次国共合作が成立し,抗日統一戦線が築かれた。11月20日,国民政府は首都の重慶への遷都を発表,12月13日,日本軍は首都南京を占領した。占領に際し,南京城内外で日本軍は中国の軍人・捕虜・一般市民を大量に虐殺した。このとき南京には,《ニューヨーク・タイムズ》紙のダーディン記者をはじめ3人の外国人記者がおり,その見聞記が世界の新聞に報道された。翌38年《マンチェスター・ガーディアン》紙の中国特派員ティンパーリーが編集した《外国人の見た日本軍の暴行》は代表的なものである。その犠牲者の数について,中国側は極東国際軍事裁判において43万人と発表した。同判決も〈日本軍が占領してから最初の6週間に,南京とその周辺で殺害された総数は20万以上であったとされているが,それが誇張でないことは埋葬された死骸が15万5000に及んだ事実によって証明されている〉と述べている。虐殺に及んだ背景としては,上海以降の戦線での中国側の強い抵抗への敵愾心,補給が追いつかなかったことなどが考えられるが,所詮は義のない侵略戦争を進めた日本軍国主義の所産である。当時の中支那方面軍司令官松井石根(いわね)大将は,責任を問われて戦後,死刑に処せられた。
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百科事典マイペディア 「南京大虐殺」の意味・わかりやすい解説

南京大虐殺【ナンキンだいぎゃくさつ】

1937年12月南京を占領した日本軍による虐殺・略奪事件。中国軍は日本軍入城前に撤退していたが,日本軍は1938年2月までに約20万人,中国側の発表では43万人の中国人を虐殺。これにより抗日の機運が激化した。この事件はのち極東国際軍事裁判で大きな問題となった。当時の中支那方面軍司令官松井石根(いわね)大将は,責任を問われて死刑に処せられた。
→関連項目戦後補償南京事件羽田孜内閣松井石根

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南京大虐殺」の意味・わかりやすい解説

南京大虐殺
ナンキンだいぎゃくさつ
Nanking Massacre; Nanking Atrocities

日中戦争初期に日本軍が行なったといわれる中国兵捕虜ならびに民間人に対する集団殺戮・暴行事件。当時の国民政府の首都南京占領に伴い,日本軍は 1937年 12月の南京攻略作戦時およびその後の数週間にわたって中国軍捕虜や非武装の一般市民をも含め虐殺・略奪行為を行なった。第2次世界大戦終了後,極東国際軍事裁判において当時の軍司令官だった陸軍大将松井石根がこの事件の責任を問われ死刑に処せられ,南京の軍事法廷では陸軍中将谷寿夫が起訴され死刑となった。虐殺行為の規模などについてはいまだ各方面で論争が続いている。被害者数についても数千人規模とするものから 30万人以上が犠牲になったという説までさまざまである。

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旺文社世界史事典 三訂版 「南京大虐殺」の解説

南京大虐殺
なんきんだいぎゃくさつ

日中戦争中の1937年12月から翌年にかけて,日本軍が中華民国の首都南京とその周辺で行った虐殺事件
南京を占領した日本の中支那方面軍は,捕虜となったり戦意を失った中国の兵士や民間人を虐殺し,女性を暴行して放火・略奪などを行った。実際には南京攻略の途上でも同様な事件が頻発しており,虐殺された被害者数は合計で10万人とも20万人ともいわれる。

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