デジタル大辞泉
「南島」の意味・読み・例文・類語
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なん‐とう ‥タウ【南島】
[1] 南方に所在する島。
※本朝文粋(1060頃)一二・池亭記〈
兼明親王〉「南島之五大夫作
二老伴
一。東岸之一脉泉為
二知音
一」
[2]
※続日本紀‐文武二年(698)四月壬寅「遣下二務広弐文忌寸博士等八人于南嶋一覔上レ国」
[二] 西太平洋のサイパン・パラオ一帯の島々のこと。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
南島
なんとう
古代の種子・屋久両島以南、沖縄先島諸島以北をほぼさし、現在の南西諸島におよそ該当するとみられる。「続日本紀」文武二年(六九八)四月一三日条に「南嶋覓国」とみえるのが早い。同書霊亀元年(七一五)正月一日条に「南嶋奄美、夜久、度感、信覚、球美等来朝」とあり、およその範囲が知られる。ここではそのうち現鹿児島県に属する諸島について記述する。南島人が初めて文献にみえるのは、「日本書紀」の推古天皇二四年から舒明天皇三年の間に散見される「掖玖人」「夜勾人」などの帰化・漂着・遣使などの記事とみられる。これらの記事のヤクは個別屋久島をさすのではなく、南島地域の総称であろう。南島・南島人の表記でみえるのは天武朝以後で、「日本書紀」天武六年(六七七)二月是月条に「多禰嶋人」、同一一年七月二五日条には多禰人(種子島人か)・掖玖人(屋久島人か)とともに阿麻弥人(奄美大島の人か)がみえ、交易あるいは朝貢していることが知られる。文武二年の覓国使派遣では、文忌寸ら八人の覓国使が戎器を支給されて派遣されており、朝廷は支配領域として南島を取込むため、かなり強制的な施策が推進されたと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
南島
なんとう
三重県中南部,南伊勢町西部の旧町域。熊野灘に臨む。 1955年吉津町,島津村,鵜倉村,中島村が合体して南島町が発足。 2005年南勢町と合体して南伊勢町となった。地名は,この地が志摩国に属し,南志摩と呼ばれ,南島 (みなみしま) があてられていたことにちなむ。集落はリアス小湾の奥に孤立して点在,これらを結んで国道 260号線が通る。交通は長い間海上交通に頼っていた。産業はブリ定置網,真珠,ハマチ,クロノリの養殖とミカン栽培が主。孤立的集落のため民俗学的にも貴重な習俗が残る。竈 (かまど) 集落と呼ばれる竈のつく8集落があって八ヶ竈と呼ばれた。平家落人の隠田集落ともいわれ,八ヶ竈八幡神社の珍しい竈方祭 (かまがたまつり) の催事を伝える。海岸部は伊勢志摩国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典(旧版)内の南島の言及
【琉球】より
…1372年から1879年までの約500年間,沖縄の公式名称として用いられた。〈南島〉という場合もある。現在の沖縄県の県域を中心に,地理的,文化的には奄美(あまみ)諸島(鹿児島県)をも含む。…
【沖縄[県]】より
…このように,稲作その他の生産過程を表現することが,そのまま豊穣につながっていくのだという言霊信仰があり,それを基盤にしてクェーナ的古謡が生まれてきたようである。こういうクェーナ的古謡の形態と発想は,奄美,沖縄,宮古,八重山などの南島古謡に共通な基本的性格であるといえる。沖縄のウムイはクェーナを基盤にしながら,オモロという新しい歌形を生みだす母体になったものである。…
【父島列島】より
…[小笠原諸島]の中心をなす列島。北緯27゜02′~12′,東経142゜09′~15′に位置し,最大の父島(面積25km2),兄島(8km2),弟島(5km2)を中心に孫島,西島,東島,南島などの小島からなる。列島の総面積は39km2。…
※「南島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」