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原敬【はら・たかし】
9件の用語解説(原敬で検索)
朝日日本歴史人物事典の解説-
生年:
安政3.2.9 (1856.3.15)
没年: 大正10.11.4 (1921)
明治大正期の政党政治家。南部藩(岩手県)藩士原直治,リツ子の次男。本宮村(盛岡市本宮)生まれ。幼名健次郎。号は一山,逸山。明治4(1871)年南部家が東京に設けた英学校共慣義塾に入るが,学資に窮して受洗,7年神父エブラルの従僕として新潟に赴く。8年帰郷。分家して平民となり,9年司法省法学校に2位で合格。12年食堂の賄への不満が暴発した騒動で退校処分。同年郵便報知新聞社に入社,社説も執筆し,甲府の『峡中新報』にも寄稿。15年退社。同年立憲帝政党系の『大東日報』(神戸)主筆となり井上馨に知られる。同年末外務省御用掛,16年清仏関係の緊迫によりフランス語の能力を買われ天津領事。李鴻章と交渉。清仏戦争の記録は詳細,本省への報告は的確であった。18年在仏公使館書記官,22年帰国し農商務省参事官,次いで大臣秘書官。陸奥宗光農商務大臣に傾倒し,25年陸奥辞任に伴い辞職。同年陸奥外相に招かれて外務省通商局長,28年外務次官,29年朝鮮公使。 陸奥の死を機に30年官界を去り,大阪毎日新聞社に編輯総理として入社,翌年社長。新機軸により同社の発展に尽くした。33年伊藤博文の立憲政友会創立準備に参画,9月設立されると政友会に入り総務委員幹事長。12月星亨が辞任した逓相を継ぐが,34年6月内閣総辞職で辞任。大阪の北浜銀行頭取となり,36年5月まで務める。この間35年岩手県より立候補して衆院議員。以後没するまで連続当選。伊藤立憲政友会総裁下では伊藤と桂太郎首相の2度の妥協による政友会の動揺を最小限に止めた。以後西園寺公望総裁を助け,桂と交渉して39年1月第1次西園寺内閣を成立させた。自らは内務大臣として内務省の改革,「政友会知事」の増加に努め,郡制廃止法案で山県系を震撼させ,内閣の柱石となる。第2次西園寺内閣と大正政変(1913)後の第1次山本権兵衛内閣の内務大臣として行財政整理を推進した。シーメンス事件で内閣総辞職後は第3代立憲政友会総裁として寺内正毅内閣の準与党となり党勢を回復,大正7(1918)年9月政権を獲得。4大政綱(国防,産業,交通,教育)を掲げ,積極政策を展開,選挙資格などの選挙制度を改正したり,港湾の充実,高等教育機関の増設,海軍の充実に努め,国勢調査を創始した。外交はアメリカとの協調を重視し,西原借款を停止し,シベリア撤兵に着手した。一方,普通選挙は時期尚早とし,民本主義には理解を示さず,社会主義は抑圧した。この間政友会会員の横暴,恐慌後の不況,社会政策の不十分などがあり,その施政は独裁的とみられ,11月4日中岡艮一の凶刃に倒れた。高い識見と卓抜な指導力で党勢を伸ばし,本格的政党内閣を成立させたことが最大の功績。生涯授爵を拒む。<参考文献>原奎一郎『原敬日記』福武書店版6巻,原敬文書研究会『原敬関係文書』全10巻・別巻1
(山本四郎)
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世界大百科事典 第2版の解説-
はらたかし【原敬】
1856‐1921(安政3‐大正10)
明治・大正期の政治家。盛岡藩重臣の次男。1871年(明治4)上京してカトリックの神父の学僕となり苦学。76年司法省法学校に入学,79年〈賄(まかない)征伐〉で退校,改進党系の《郵便報知新聞》記者となる。82年官僚派の《大東日報》主筆に転進。井上毅,井上馨に認められ同年外務省に入り,翌年天津領事として赴任,才腕を示し,85年パリ公使館書記官に転じた。89年,外相大隈重信をきらって農商務省に移り,陸奥宗光の知遇を受け,通商局長を経て,95年外務次官に進んだ。・・・
▼原敬について記述のある項目
普選運動【ふせんうんどう】 三教会同【さんきょうかいどう】 毎日新聞【まいにちしんぶん】 内閣総理大臣【ないかくそうりだいじん】 大正時代【たいしょうじだい】 政友会【せいゆうかい】 警視庁【けいしちょう】 足尾鉱毒事件【あしおこうどくじけん】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説-
原敬 はら-たかし
 
1856-1921 明治-大正時代の政治家。
安政3年2月9日生まれ。井上馨(かおる),陸奥宗光(むつ-むねみつ)にみとめられて外務次官,駐朝鮮公使。明治31年大阪毎日新聞社長となる。33年政友会結成に参画し,のち総裁。35年衆議院議員(当選8回)。大正7年内閣を組織,陸・海・外務の3大臣以外の閣僚に政友会党員をあてた。衆議院に議席をもつ最初の首相で,平民宰相とよばれる。大正10年11月4日東京駅頭で中岡艮一(こんいち)に刺殺された。66歳。陸奥盛岡出身。司法省法学校中退。幼名は健次郎。号は一山など。
【格言など】墓標は位階勲等を書かず,単に「原敬墓」と銘記すること(遺書)
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。収録人物のデータは2009年1月20日現在のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説-
原敬 はら-けい
 
⇒はら-たかし
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デジタル大辞泉の解説-
はら‐たかし 【原敬】
[1856~1921]政治家。岩手の生まれ。外務省退官後、大阪毎日新聞社社長に就任。立憲政友会創立に参画し、逓相・内相を歴任後、総裁に就任。大正7年(1918)平民宰相として初の政党内閣を組織し、交通の整備、教育の拡張など積極政策を行った。東京駅頭で刺殺された。
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百科事典マイペディアの解説-
明治・大正の政治家。陸奥(むつ)盛岡藩家老の子。司法省法学校中退。改進党系の《郵便報知新聞》記者を経て官僚派の《大東日報》主筆となる。井上馨,陸奥宗光の知遇を得て外務省の次官まで進んだ。
(1856-1921)
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美術人名辞典の解説- 政治家。岩手県生。幼名は健次郎、号は一山。立憲政友会総裁となり、政党政治家として最初の政党内閣を組閣。平民宰相として世論の支持を得た。大正10年(1921)歿、65才。
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大辞林 第三版の解説-
はらけい【原敬】
⇒ はらたかし (原敬)
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大辞林 第三版の解説-
はらたかし【原敬】
(1856~1921) 政治家。盛岡の人。新聞記者・外交官などを経て大阪毎日新聞社社長。立憲政友会創立に参加。逓相・内相を務め,政友会総裁となる。1918年(大正7)最初の政党内閣を組織し平民宰相と称されたが,強硬政策が反発を買い東京駅で暗殺された。
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原敬に近い言葉→上原敬二
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