右松村(読み)みぎまつむら

日本歴史地名大系 「右松村」の解説

右松村
みぎまつむら

[現在地名]西都市右松・右松一―五丁目

調殿つきどの村の南方に位置する。中央部を一ッ瀬川(穂北川)が流れ、集落は同川右岸沿いに縦断する米良めら街道に沿って形成された。同街道から東方に分岐し、一ッ瀬川の祇園ぎおん(渡船一)を渡って高城たかじよう(現木城町)へ至る往還が通じていた。村の北部、制札場が立つ辺りには町場が形成され、一帯は右松町ともよばれた。日下部系図(郡司文書)にひく久安五年(一一四九)三月一〇日の日下部尚守譲状によれば尚守は在国司職とともに「右松村田畠等」を次男盛平に譲っており、村の四至は「東限赤坂、南限河、西限河、北限中屋可代橋」であった。東限の赤坂は新田原にゆうたばる台地にあった坂、南限の河は三財さんざい川、西限の河は鳥子とりこ川、北限の中屋可代橋は、現在該当する地名は残されていないが、北に接するつまとの境界にあった一ッ瀬川の橋と推定される。古代当地は三宅みやけ地区にあったと推定される日向国府への入口にあたったと思われ、官道の渡しが存在したとみられる。日向国のなかで唯一の国衙領として、国の在庁官人の筆頭と考えられる在国司が所持したことは当地の重要性を物語っている。実子のなかった盛平は文治三年(一一八七)二月一〇日に在国司職と当村を田部栄妙に譲った(日下部系図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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