吉原遊廓(ゆうかく)は江戸唯一の公許の遊里である。1600年ごろ(慶長の初め)、江戸城築構のための物資の搬入陸揚げ地である麹(こうじ)町辺、鎌倉河岸(かし)、常盤(ときわ)橋近辺には、この仕事に従事する人々を目当てに多くの私娼(ししょう)が散在した。庄司甚右衛門(しょうじじんえもん)(?―1644)はこれらの散娼を一括して公許の遊里を開設する請願をし、1617年(元和3)日本橋葺屋(ふきや)町続きの低湿の土地を埋め立てて昼間だけの営業が許可され、翌1618年開業した。これをのちに元(もと)吉原と称するが、元吉原開基については異説もある。その後、市街地への人口増加につれ江戸城前面の土地が狭隘(きょうあい)となり、また風俗上にも問題があって、明暦(めいれき)の大火の吉原焼亡後、1657年(明暦3)秋ごろまでに浅草寺(せんそうじ)の奥、山谷(さんや)地区に移転して昼夜間の営業が再開され、これより新吉原と称される。ここの町屋敷はほかの江戸の町屋敷と同じく、町奉行(ぶぎょう)―町年寄の支配の下に、各町の名主による自治体で、江戸町一、二丁目、京町一、二丁目、角町(すみちょう)の五町で構成され、1668年(寛文8)市中の風呂屋(ふろや)女その他の隠し売女(ばいじょ)を検挙収容した際に、伏見(ふしみ)町、堺(さかい)町が新設されるが、その後も五町の名主役によって差配(さはい)され、吉原五町と称される。
遊女屋は大見世(おおみせ)、中(ちゅう)見世、小(こ)見世と区別されていたものを、中期になって、大籬(まがき)(総籬)、半籬(まじり)、小格子(こごうし)、切見世(きりみせ)と変化する。その抱え遊女の品等によって家屋構造にも一定の制限があった。遊女の等級は、太夫(たゆう)、格子、端(はし)の三級であったが、1668年大量の隠し売女の収容によって、散茶(さんちゃ)、梅茶(うめちゃ)の階級を新設し、1758年(宝暦8)ころ太夫、格子の消滅と揚屋(あげや)の廃止に伴って、散茶が呼出(よびだ)し、昼三(ちゅうさん)、付廻(つけまわ)しにかわり、梅茶が座敷持(ざしきもち)、部屋持の名称となる。これらの遊女の下に新造(しんぞう)と禿(かむろ)がある。禿は少女のうちから姉女郎(あねじょろう)の雑用にあたり、諸芸・諸事を見習いながら一人前となってゆく。
廓(くるわ)内の遊女の数を、禿を除き記すと、1642年(寛永19)987人、1689年(元禄2)1520人余、1734年(享保19)2180人余、1770年(明和7)2130人余、1799年(寛政11)3780人余、1819年(文政2)3870人余、1849年(嘉永2)4680人余。この数はそれぞれの年の「吉原細見」による。
遊興の席には男女の芸者(男は幇間(たいこ)ともいう)が侍(はべ)ったが、後年内(うち)芸者と称される「おどりこ」は1740年(元文5)ごろに発生している。芸者見番(けんばん)に統一されるのは1779年(安永8)ごろとなっている。楼主と遊女との雇用関係は年季奉公の形式で期間は満9か年、足掛け10年なので、俗に「苦界(くがい)十年」のことばがある。遊興費は、制度と、金・銀・銭(ぜに)の三貨による通貨価値の変遷が繁雑で、概略できないが、諸雑費を含めると細見標示価格の2、3倍となる。端的に米価で示すと、太夫、格子の場合は米2石(約260キログラム)から1石、中級遊女はその2分の1ないし4分の1くらい。最下級の切見世のごく短時間の場合は3升(約3.9キログラム)くらいとなっている。遊女はそれら遊興費に相当する容色・教養・諸芸を身につけていた。吉原を「悪所(あくしょ)」といったのは、このように奢侈(しゃし)・華美に流れる生活圏へ足を運ぶことへの戒護である。
おはぐろ溝(どぶ)によって隔離されていたこの陸の孤島は、ほかの江戸の町屋敷と違って、遊女をはじめとして遊女屋、引手(ひきて)茶屋その他ここに付属して生活する人々が、この町にいて十分に生活できるよう人間生活に必要な物資・技術を供給する商人、職人、医師までが配置された自給自足の街であった。1725年(享保10)にはすでに、ほかの町屋敷にはみられない掘抜き井戸が7基も設備されるという、生活文化の面では江戸の第一級地でもあった。
江戸時代末期から明治にかけては、深川をはじめ岡場所の急激な発展により衰微、昔日のおもかげを失いつつも、遊廓としては1958年(昭和33)の売春防止法施行まで存続した。廃業後は旅館業に転じたり、さらに特殊浴場街となっている。
[花崎清太郎]
『台東区役所編・刊『新吉原史考』(1960)』▽『花咲一男著『江戸吉原図絵』『続江戸吉原図絵』(1976、1979・三樹書房)』▽『喜熨斗古登子述、宮内好太朗編『吉原夜話』(1982・青蛙房)』▽『蘇武緑郎編『吉原風俗資料』(1983・日本図書センター)』▽『尾崎久彌著『吉原図会』(1983・日本図書センター)』▽『石井良助著『吉原』(中公新書)』
静岡県富士市の東部、潤井(うるい)川下流左岸の地区。鎌倉時代の東海道の宿駅。戦国時代には吉原湊(みなと)を控えた流通の拠点として道者・商人の問屋が存在し、江戸時代には東海道五十三次の宿駅。当初吉原宿は今井地内にあったが、津波の被害で移転し、17世紀後半に依田原(よだはら)、伝法(でんぽう)、瓜島(うりじま)に落ち着く。1948年(昭和23)市制を敷いて吉原市となり、1966年富士市に合併。JR東海道本線吉原駅があり、岳南鉄道も通じる。6月に行われる吉原祇園祭(よしわらぎおんまつり)は富士市最大の祭としてにぎわう。
[川崎文昭]
江戸時代以来つづいていた東京の遊郭地。江戸幕府は集娼制(しゆうしようせい)を確立するため,1617年(元和3)3月に従来江戸市中数ヵ所に散在していた遊女屋を集めて葺屋町(現,中央区日本橋人形町付近)に傾城(けいせい)町(遊郭)をつくることを許可した。その土地は埋立地で,ヨシ(アシ)などが繁茂していたので〈葭原(よしわら)〉と呼ばれ,後に縁起のよい字にかえて〈吉原〉と称したという。ここに江戸町と京町を建設するのに約1年半を費やし,18年11月に一斉開業し,数年後に京町2丁目(新町ともいう)と角町(すみちよう)とを追加建設した。41年(寛永18)以後夜業を禁じられ,そのため一時私娼(湯女(ゆな))が勢いを得ていた。56年(明暦2)に本所あるいは浅草山谷(さんや)のいずれかへ移転を命じられた。これは江戸の市街の発展に伴い,かつての葭原が商業地帯に近接した繁華地となったための政策の見直しであり,翌57年の明暦大火による類焼は移転を決定的とし,業者らは浅草山谷(現,台東区千束4丁目)の地を選び,同年8月に移転を完了した。以後この地を〈新吉原〉と呼ぶのに対し,旧地を〈元吉原〉と称するようになった。新吉原への移転に反対した業者に対し,幕府は敷地の5割増,引越料1万両余の下付,夜業の許可,火消役などの町役免除を条件とした。しかし,これらは吉原を優遇したのでなく,特殊な一郭として一般市中からの隔離を図ったものである。新吉原は揚屋(あげや)町を新設したほかは元吉原とだいたい同型に形成され(新吉原の地割については図参照),後に伏見町,堺町(その後閉鎖)が開かれた。新吉原への経路は,江戸市中から浅草へ出,日本堤から五十間道へ入り,衣紋(えもん)坂を下りて大門(おおもん)口へ至るのが普通であった。大門は吉原の玄関で,夜10時から翌朝までは大戸をしめ,くぐり門を通行させた。その他の出入口は非常口で平常は開放されなかったが,周囲のどぶ(〈おはぐろどぶ〉と俗称)には臨時に使用する〈はね橋〉が用意されていた。大門の内側左右には番所,会所があって,それぞれ幕府と吉原町の役人が詰めて郭内の取締りにあたった。郭内を〈五丁町〉と総称したが,江戸町,京町1丁目,角町を〈大町(だいちよう)〉と呼び,上格の町とした。仲ノ町には揚屋の衰滅した宝暦期(1751-64)以降,両側に引手茶屋が並んだ。吉原は,元吉原以来明治時代までに24回も全焼したが,被災後は仮指定地(今戸,深川など)での仮宅(かりたく)営業が認められた。仮宅には開放感があって遊客も多く,遊郭に利益をもたらした。
吉原は1750年(寛延3)以降だいたい2000~3000人の遊女をかかえ,春の夜桜,秋の灯籠,にわか(俄)などの行事に多数の遊客を集め,江戸の一大享楽地であるとともに一種の社交場でもあり,江戸文化の発展にも影響を与えていた。その案内書である〈吉原細見〉が約150年間毎年発行されつづけたのは,日本の代表的遊郭であったことを物語っている。しかし江戸時代末期には,古風な格式と沈滞した空気および遊興費の高いことなどで,深川その他の私娼街に客の一部を奪われるに至った。さらに明治時代以後の花柳街の急激な発展は吉原を衰微させ,単なる売春地帯に堕した。1946年の公娼廃止後はいわゆる〈赤線地帯〉として存続したが,もはや昔日のおもかげを失い,58年2月の売春防止法によって一斉廃業を余儀なくされた後,一部は旅館,娯楽場として転業再開,さらに特殊浴場街となって今日に至っている。
→芸者 →細見 →娼妓 →遊郭
執筆者:原島 陽一
駿河国(静岡県)富士郡の東海道の宿駅。鎌倉時代より見え,《春能深山路》弘安3年(1280)11月24日条に〈よしわらとて小家のあるに立ち入て〉とある。戦国時代には吉原湊が流通の拠点として発達した。1554年(天文23)の今川義元判物によれば,矢部孫三郎は吉原の道者商人問屋,渡船の支配を免許され,諸役を免除された。当時,駿河国内の清水・沼津両湊と並ぶ重要な湊でもあった。1601年(慶長6)東海道の宿駅に指定された。津波や漂砂などの災害をうけ,39年(寛永16)鈴川,今井の元吉原から中吉原に移り,82年(天和2)北方の伝法,瓜島に移された。宿は本町,伝馬町,東本町,西本町,東横町,西横町,六軒町,寺町,追分町から成り,加宿の伝法村と合わせ町並みは12町10間であった。《東海道宿村大概帳》によれば戸数653,人数2832,本陣2,脇本陣3,旅籠屋60であった。近在へ魚を販売に出る者も多かった。1948年市制施行,66年富士市と合体。
執筆者:川崎 文昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
江戸の遊廓。1618年(元和4)それまで市中に散在していた売春宿を日本橋葺屋(ふきや)町に集めたのが始まりで,市域の発展により中心街に近くなったため,明暦の大火後の57年(明暦3)に浅草の先(現,台東区千束4丁目)に移転させた。以後,正式にはこれを新吉原,旧地を元吉原と称した。新吉原は約2万坪。周囲に溝を設け,出入りは大門(おおもん)の一方口とし,外観上も特別の区域とした。仲の町(ちょう)とよばれる中央の広い道路で左右に二分し,江戸町(ちょう)・京町(まち)・角町(すみちょう)など5町をおいた。開設時には揚屋(あげや)もあったが,18世紀中頃に廃絶し,代わって引手(ひきて)茶屋が遊興の中心となった。つねに3000人ほどの娼妓を抱えたが,幕末に退潮したまま明治期以後も存続し,1958年(昭和33)の売春防止法の施行で消滅した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…吉原における上級遊女の別称。新造,禿(かむろ)などが専属の姉女郎を〈おいらの〉〈おいらがとこ〉などと呼んだのがなまって〈おいらん〉になったというが,ほかにも語源説があり,詳細は不明。…
…なかで,遊女屋が経営する歌舞伎の座を遊女歌舞伎と呼ぶ。京では六条三筋(みすじ)町の遊女屋が四条河原で,江戸では吉原の開設当初は吉原の中に,のちには中橋でそれぞれ舞台を設け,男装したスター級の遊女である太夫(和尚とも呼んだ)の歌や踊りを中心に競って歌舞伎を興行した。お国歌舞伎との第一の違いは,当時最新の楽器である三味線をスターが弾いていることで,50~60人もの遊女を舞台へ登場させ,虎や豹の毛皮を使うなど,いっそう豪奢な舞台ぶりに,数万人もの見物を集めたという。…
…《あづま物語》(1643)は新しく出た太夫を新造とよんでいるが,後にはかむろ(禿)あがりの,姉女郎の部屋に同居中のものを新造といった。吉原ではかむろが14歳ぐらいになると新造として披露した。このとき歯黒めはするが,まだ振袖を着ていたので〈振袖新造〉といい,姉女郎の名代を勤めたりする見習の遊女であり,修行や人気など時期をみて,袖留をしたうえ部屋を与えて一人前の遊女にした。…
…1720年(享保5)の自序がある。江戸の吉原遊廓について,遊女の起源や吉原の創設からを詳しく述べた書。吉原について記したもっとも早い解説書として近世以来珍重されている。…
…江戸吉原の遊女人口は享保年間(1716‐36)以降,3000人から4000人を数えるが,階層の低い遊女が半数を占めており,こうした遊女は死亡した後も無縁仏として,三ノ輪(みのわ)(現,荒川区南千住2丁目)の浄閑寺や,新鳥越橋南詰(現,台東区浅草7丁目)にあった土手の道哲(どうてつ)(浄土宗西方寺の俗称。現在,豊島区西巣鴨に移転),日本堤の正憶(しようおく)院(現在,足立区大谷田に移転)の山門の中に,なにがしかの銭を添えて投げ込まれた。…
…地名は,江戸初期にこの付近に人形師や人形商が集中していたことに由来する。1617年(元和3)江戸幕府が現人形町交差点付近に遊郭の建設を許可し,翌年〈吉原〉として開業,57年(明暦3)の浅草千束村への移転まで続いた。1872年(明治5)南隣の日本橋蠣殻(かきがら)町に芝赤羽橋から水天宮が移って以来,その門前町として発展し,日本橋かいわいで唯一戦災にあわなかったこともあって,現在も水天宮通り(都内最古のアーケード街)を中心に老舗(しにせ)が多く,下町情緒を色濃く残す商店街が形成されている。…
…遊廓にあった茶屋の一種。引手茶屋がもっとも発達した江戸吉原では,高級遊女と遊興しようとする客は,まず引手茶屋にいった。そこで芸者,幇間(ほうかん)らを招き,酒食をとって遊ぶうちに,指名の遊女が従者をつれて迎えにくるので,適当なころに同道して遊女屋へいくのが通常の遊興形式であった。…
…静岡県東部,富士川左岸にある市。1966年吉原市(1948市制),富士市(1954市制),鷹岡町が合体して現在の富士市となる。人口22万9187(1995)。…
※「吉原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加