吉志庄(読み)きしのしよう

日本歴史地名大系 「吉志庄」の解説

吉志庄
きしのしよう

吉志部きしべにあったと推定される庄園。「醍醐雑事記」に「宝塔院(中略)院領 摂津国島下郡内吉志庄田十七町余池三所在同郡田外也」とみえる。同書によれば当庄はもと下野守藤原忠紀の所領であったが、彼が中宮藤原穏子に売り進め、庄として立券、さらにそこから醍醐寺に寄進され、承平七年(九三七)には同寺宝塔院領となっていた。下って南北朝期には京都仁和寺南院領吉志庄が史料にみえる。暦応四年(一三四一)一二月二一日の足利直義下知状(仁和寺文書)によると、仁木義長の代官岩内法橋祐寿が当庄内法師丸・柚木垣内を押妨し、幕府再三の停止命令にも背いたため幕府は義長を罪科に処し、当庄を仁和寺雑掌に安堵している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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