吉田光由(読み)ヨシダミツヨシ

デジタル大辞泉 「吉田光由」の意味・読み・例文・類語

よしだ‐みつよし【吉田光由】

[1598~1673]江戸前期の数学家。京都の人。幼名、与七。通称七兵衛。出家して久庵。毛利重能角倉素庵に学び、「塵劫じんこう」のほか古暦便覧」「和漢合運」などを著した。

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精選版 日本国語大辞典 「吉田光由」の意味・読み・例文・類語

よしだ‐みつよし【吉田光由】

江戸時代和算家。京都の人。幼名与七、通称七兵衛、号は久庵。毛利重能の門弟。明の程大位の「算法統宗」を手本として絵入りの「塵劫記」を著わした。慶長三~寛文一二年(一五九八‐一六七二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田光由」の意味・わかりやすい解説

吉田光由
よしだみつよし
(1598―1672)

江戸時代初期の数学者。通称七兵衛、号は久庵。京都嵯峨(さが)の角倉(すみのくら)の一族で、角倉了以(りょうい)は光由の外祖父にあたる。光由は幼時から数学を好み、毛利重能(しげよし)について数学を学んだ。このころ、中国のそろばん書『算法統宗(さんぽうとうそう)』を入手、重能にこの書による教授を頼んだが、重能は十分読むことができなかった。そのため外伯父の角倉素庵(そあん)に教授を受け、これを理解した。

 この『算法統宗』を手本にして著述したのが『塵劫記(じんごうき)』(1627)である。この書は光由の環境を反映して、内容は富裕な町人を対象としたものが多い。その名が高くなるにつれて諸大名から招かれたが、眼疾のために仕官はせず、一時、肥後(熊本県)の細川忠利(ただとし)の客分となったが、忠利死後は京都に戻った。晩年は盲目となり、素庵の子玄通の家に身を寄せた。著書に、『塵劫記』のほか、『和漢編年合運図』(釈円智の著に手を加えたもの。1645)、『古暦便覧』(1648)がある。

[大矢真一]


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改訂新版 世界大百科事典 「吉田光由」の意味・わかりやすい解説

吉田光由 (よしだみつよし)
生没年:1598-1672(慶長3-寛文12)

江戸初期の数学者。《塵劫記》(1627)の著者として名高い。幼名は与七,号を久庵という。豪商角倉(すみのくら)の一員で,一族の角倉素庵から中国の《算法統宗》を学び,これを手本として《塵劫記》を著作する。吉田は初め毛利重能に学ぶ。《塵劫記》の著者として広く知られ,細川忠利に招待され熊本に出かける。九州各地で指導したらしい。細川侯が没したのと眼病のため,郷里の京都嵯峨に帰る。晩年は失明し,一族の玄通に養われる。渋川春海によれば,光由は8尺のノーモンを立て,太陽の影を測り,冬至を調べたという。《塵劫記》は内容も挿絵もじょうずに編纂(へんさん)され,江戸時代を通してもっともよく読まれた本の一つである。光由の著書には,前記のほか《和漢編年合運図》(1645),《古暦便覧》(1648)がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉田光由」の意味・わかりやすい解説

吉田光由
よしだみつよし

[生]慶長3(1598)
[没]寛文12(1672)
江戸初期の数学者。幼名与七,号久庵。豪商角倉氏の一族で,初め毛利重能につき,のち同族の角倉素庵から中国の『算法統宗』を学び,これに範を得て寛永4 (1627) 年『塵劫記』を著した。本書は掛算割算の九九,そろばん操作の図解,比例算,検地算など社会生活に直接関係ある事項を取上げ,もっぱら実用問題の解法を述べ,またねずみ算など遊戯的問題を加えるなど工夫を凝らしていて,江戸時代を通じて最もよく流布した和算書の一つであった。著書にはほかに『和漢編年合運図』 (45) ,『古暦便覧』 (48) などがある。

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百科事典マイペディア 「吉田光由」の意味・わかりやすい解説

吉田光由【よしだみつよし】

数学者。通称七兵衛,号久庵。京都嵯峨の角倉(すみのくら)氏の一族。初め毛利重能,のち角倉素庵につき数学を学び,中国の《算法統宗》を手本にそろばんの計算法を説明した《塵劫記(じんこうき)》を刊行(1627年),数学の普及に貢献した。
→関連項目割算書

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「吉田光由」の解説

吉田光由
よしだみつよし

1598~1672.11.21

江戸前期の数学者。幼名与七,通称七兵衛,号は久菴。京都の豪商角倉の一族で,祖父宗運と角倉了以(りょうい)は従兄弟。はじめ毛利重能(しげよし)に学び,のち了以の子素庵(そあん)から中国の「算法統宗」を教科書として与えられ,これを研究して「塵劫(じんこう)記」(1627)を著した。多くの工夫がされ,同書は江戸時代の出版物に大きな影響を与えた。肥後国熊本藩細川氏に招かれ,九州各地で指導した。晩年は失明,角倉与一に養われた。著書「古暦便覧」「和漢編年合運図」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉田光由」の解説

吉田光由 よしだ-みつよし

1598-1673* 江戸時代前期の和算家。
慶長3年生まれ。毛利重能(しげよし),一族の角倉素庵(すみのくら-そあん)にまなぶ。明(みん)(中国)の数学書「算法統宗」をもとに「塵劫(じんこう)記」をあらわした。熊本藩主細川忠利(ただとし)にまねかれておしえたが,忠利の没後京都にもどった。寛文12年11月21日死去。75歳。京都出身。幼名は与七。通称は七兵衛。号は久庵。著作はほかに「和漢編年合運図」「古暦便覧」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「吉田光由」の解説

吉田光由
よしだみつよし

1598〜1672
江戸前期の和算家
京都の豪商角倉 (すみのくら) 氏の一族。毛利重能 (しげよし) ・角倉素庵らに数学を学んだ。中国の『算法統宗』を翻案して『塵劫 (じんごう) 記』を著し,和算の発展をうながした。門人に横川玄悦らがいる。その他の著書に『古暦便覧』『和漢編年合運図』など。

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世界大百科事典(旧版)内の吉田光由の言及

【算法統宗】より

…日本にも江戸時代のはじめに伝わり,1675年(延宝3)に湯浅得之が復刻本を刊行した。これより以前,吉田光由は《算法統宗》を学び,これを範として〈そろばん〉の計算を中心とした《塵劫記(じんごうき)》(初版,1627)を刊行した。この書もまた庶民の間に流行し,多くの異版が出版された。…

【塵劫記】より

…江戸初期の数学書。著者吉田光由(みつよし)は豪商角倉家の一員である。吉田は,中国の《算法統宗》を一族の角倉素庵から教わり,これを手本としてまとめたのが《塵劫記》(1627初版)である。…

【数学パズル】より

…最古の数学パズル書と見られる,バシェ著の《愉快で楽しい問題》には多くの代数パズルがあり,その中には百五減算の原形である六十減算や油分け算も含まれている。百五減算は吉田光由の《塵劫記》下巻(1631),中根彦循の《勘者御伽双紙》上巻にも紹介されており,相手の年齢を当てるパズルである。今,相手の年齢を3,5,7で割ったときの余りを尋ね,その返事がa,b,cであったとする。…

【和算】より

…明治以前の日本人が研究した数学。研究者により,その初めを,(1)上古,(2)1627年(寛永4)刊の吉田光由著《塵劫記(じんごうき)》,(3)74年刊の関孝和著《発微算法(はつびさんぽう)》とする3通りがある。
[奈良・平安時代]
 養老令(718)によれば,官吏養成のための学校である大学寮を設置し,現在の中学生くらいの少年がここで勉強した。…

※「吉田光由」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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