出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
文楽人形遣い。初世から4世まであり,4世が最も有名。4世(1869-1962)は本名河村巳之助。大阪出身。15歳で初世吉田玉助に入門。吉田巳之助(後に簑助)の名で文楽座や彦六座,旅興行の一座で働き,東京の芝居にも出勤した。1907年に2世桐竹亀松を襲名,08年再び巳之助に戻ったあと09年4世文五郎を襲名した。15年に文楽座に迎えられてからは立女方として活躍した。明るく屈託のない性格が舞台にも反映して,その遣う女方人形は華麗で官能的な美の極致を示した。名コンビといわれた立役の初世吉田栄三の渋い芸と好対照をなし,数々の名舞台を残した。文楽の2派分裂時代は因会(ちなみかい)に残り豊竹山城少掾とともに象徴的存在であった。90歳を過ぎても舞台を勤め,最後まで娘役を遣った。49年芸術院会員,55年重要無形文化財保持者各個指定(人間国宝),56年東久邇家から難波掾を受領した。門弟に2世桐竹紋十郎がいる。なお,初世~3世は伝不詳である。
執筆者:山田 庄一
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文楽(ぶんらく)人形遣い。本名河村巳之助(みのすけ)。明治2年10月20日、大阪に生まれる。父が文楽の表方をしており、幼くして吉田玉五郎に入門したが続かず、15歳で初世吉田玉助に弟子入り、1884年(明治17)京都四条北側芝居に吉田巳之助(簑助(みのすけ))の名で出勤、その後は御霊(ごりょう)文楽座や彦六(ひころく)座に出たり東海道を流れ渡り、東京の人形座にも出たが、やがて帰阪。1907年(明治40)2世桐竹(きりたけ)亀松を襲名、さらに翌々年に4世文五郎となる。この文五郎の初世、2世、3世については経歴など不詳。15年(大正4)御霊文楽座に迎えられて立女方(たておやま)の位置につき、大正中期から昭和にかけ初世吉田栄三(えいざ)とともに文楽人形の代表的存在となった。「酒屋」のお園、「合邦」の玉手、八重垣姫(やえがきひめ)などを得意とし、華麗で可憐(かれん)かつ色気のある演技は他の追随を許さず観客を魅了した。49年(昭和24)芸術院会員。56年東久邇(ひがしくに)家より難波掾(なにわのじょう)を受領、59年文化功労者。昭和37年2月21日、92歳の高齢で没した。弟子に2世桐竹紋十郎らがある。
[山田庄一]
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…〈打込〉は,刀で渡り合う型で,戦闘の場に用いられ,足拍子が入るのが特色である。 こうした典型的な動作のほかに,歌舞伎と同様に,〈大玉造〉と呼ばれた初世吉田玉造の〈いがみの権太〉の型,〈沢市〉の型,初世桐竹紋十郎の〈重の井〉の型,初世吉田栄三の〈弁慶〉〈治兵衛〉の型,また名人といわれた吉田文五郎の〈お園〉の型など,特定のすぐれた人形遣いの演出が伝えられている。
[舞台の様式]
古浄瑠璃の舞台には次の5種の様式が存在した。…
…小柄にもかかわらず,熊谷,光秀,松王などの荒物にも優れ,根の生えたような力強さがあった。芸風は地味だが役の性根を的確につかんだ腹芸で,コンビの4世吉田文五郎の華麗な女方と好対照を見せた。古典芸能界を通じての名人の一人と賞されたが,45年12月栄養失調のため疎開先の奈良県で没した。…
※「吉田文五郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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