( 1 )「書紀‐皇極天皇元年八月」に、天皇が南淵の河上に行幸、四方を拝して祈雨の行法を行なったとの記事があるが、元日儀礼としてのものではない。
( 2 )「年中行事秘抄‐正月」に引かれる「宇多天皇御記」の寛平二年(八九〇)正月の記事に「朔四方拝云々、向二乾方一、拝二后土及五星一」とあるところから、この頃には儀礼化されていたと考えられる。
( 3 )属星を拝するところから始まる、中国陰陽思想の影響の強い儀式であり、中国風文物の移入が急であった平安初期に、朝儀として成立したものかと推定される。
年の初めに天皇が天地四方および山陵を拝して,年災をはらい,幸福無事を祈る儀式。清涼殿東庭に屛風八帖を立て,なかに高机三所を置き,香炉と灯台(燭台のこと),造花を供え,天皇は元朝の寅刻,屛風のなかに入り,北に向かって属星(しよくじよう),ついで天,西北に向かい地,次に四方,山陵を拝する。天皇は,これより以前に理髪,湯浴をすまし,式場に進む。その起源は642年(皇極1)8月に皇極天皇が南淵の河上で四方を拝し雨を祈ったのを例とするが,これは正月ではない。正月の恒例となるのは,平安時代に入ってからで,宇多天皇時代には宮廷行事として成立していたことが明らかであり,《宇多天皇御記》によれば,890年(寛平2)に始まったとある。摂関時代には摂関大臣の家でも行われ,室町時代も同じように内裏,仙洞御所,摂政大臣家で行われたが,江戸時代は内裏のみとなった。現在はやや儀式はかわったが宮廷行事として行われている。
執筆者:山中 裕
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朝廷の年中行事。天皇が元日の早朝に天地四方を拝する儀式。清涼殿(せいりょうでん)の東庭に4帖(じょう)の屏風(びょうぶ)で周囲を囲った中に御座を設け、その前に白木の机を置き、花や灯火を供える。寅(とら)の刻(午前4時)、天皇が黄櫨染(こうろぜん)の袍(ほう)を着して出御し、まず呪文(じゅもん)を唱えて属星(しょくじょう)(その人の運命を支配するとされる星)を拝し、さらに天地と東西南北の四方を拝してから、父母の山陵を拝する。起源は中国で、平安時代初期に取り入れられて以来、連綿と継続した。とくに明治維新後も存続して現在に及んでいるのは、きわめて特異な朝儀といえよう。ただし明治以後は皇居内の神嘉殿(しんかでん)の南庭で、伊勢(いせ)の両宮と四方の諸神を拝することになった。なお、朝廷以外でも公卿(くぎょう)諸臣の家で、元日の朝四方を拝する儀式が行われた。
[酒井信彦]
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…密教の北辰北斗信仰はやがて日本にもたらされたが,東密では北辰を妙見菩薩,台密では尊星王と呼び,北斗法,妙見供,尊星王法などと称する修法を盛んに行って,国土安寧,玉体安穏を祈願した。宮中では,平安時代以後,元日の四方拝に際して天皇みずから北斗の神号を称え,北辰に向かって属星を拝し,毎年3月3日と9月3日の両日には北辰に灯を献ずる御灯,北辰祭を行った。また,陰陽寮では病気や天変地異に当たって北辰を祭る玄宮北極祭をしばしば行うなど,密教,道教の北辰北斗信仰に基づく行事が盛んであった。…
※「四方拝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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