国崎村(読み)くにさきむら

日本歴史地名大系 「国崎村」の解説

国崎村
くにさきむら

[現在地名]川西市国崎

一庫ひとくら村の北東に位置する。永和元年(一三七五)七月二五日の多田院諸堂造営料棟別銭郷村注文(多田神社文書)にみえる「頸崎」は国崎か。慶長国絵図に村名がみえ、高一〇八石余。延宝七年(一六七九)検地帳(国崎部落有文書)では高一二三石余で、炭を生産、入炭代銀七五匁が課されていた。領主の変遷は平野ひらの村と同様。享保六年(一七二一)の村明細帳(同文書)によれば高一二二石余、家数は寺一・庵一を含めて六〇、総人数二一九、牛一五。農間に男は池田・伊丹で柴木売り、かなやま(鉱山)稼を行っていた。酒屋一軒で酒株一石五斗・酒造高三斗、米商売一・木挽二・鍛冶一(ただし農具細工)・炭焼三。山方多く、寒気強く、両毛作は全体の約三割にとどまるうえ、村内に銅山が多く谷々から悪水が入り込む難儀の地であるとしている。

国崎村
くざきむら

[現在地名]鳥羽市国崎町

志摩半島の東端にあり、北は石鏡いじか村、南は相差おうさす村に接する。「倭姫命世記」には「島国国前潜女取奉王貫鮑」とあり、国前としていて志摩国の東端にあることに由来する。鎧崎よろいざき大津おおつ岡山おかやまかま宮の谷みやのたにには遺跡があり鎧崎遺跡からは八稜鏡が出土した。国崎は古来神宮の御贄の地で、熨斗鮑を奉納してきた。「神鳳鈔」に「国崎」、「神宮雑例集」に「志摩国、六十六戸、 伊雑神戸、国崎本ノ神戸、鵜倉神戸、慥柄神戸」とあり「国崎鵜倉慥柄等嶋者、朝夕御饌御贄所也」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報