坂本直寛(読み)さかもとなおひろ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「坂本直寛」の意味・わかりやすい解説

坂本直寛
さかもとなおひろ
(1853―1911)

明治期の宗教家。坂本龍馬(りょうま)の甥(おい)。嘉永(かえい)6年10月5日、土佐(とさ)藩の郷士高松家に生まれる。のち坂本家の養子となり南海男(なみお)と改める。植木枝盛(えもり)らと自由民権運動に活躍し、1884年(明治17)高知県会議員に当選。同年直寛と改名した。翌85年洗礼を受け、政治活動のほか伝道活動にも尽力保安条例入獄後、信仰による新天地の開拓を意図し、96年北光社(ほっこうしゃ)を組織して北海道に渡り、北見(きたみ)国訓子府(くんねっぷ)原野に移住。1902年(明治35)札幌のキリスト教系紙『北辰(ほくしん)日報主筆、日本基督(キリスト)教会旭川(あさひかわ)講義所伝道師を歴任以後も道内の応援伝道を続けた。明治44年9月6日札幌で死去

[桑原真人]

『土居晴夫編『坂本直寛著作集』全3巻(1970・高知市立市民図書館)』

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朝日日本歴史人物事典 「坂本直寛」の解説

坂本直寛

没年:明治44.9.6(1911)
生年:嘉永6.10.5(1853.11.5)
明治期の民権運動家。通称は南海男,号は無外。土佐国(高知県)安芸郡の郷士高松順蔵の次男。母千鶴は坂本竜馬の長姉。伯父坂本権平の養子になる。英学を志し立志学舎に学ぶ。自由民権時代に至り,馬場辰猪,植木枝盛らに伍して活発な言論活動を展開,明治17(1884)年高知県会議員,翌年キリスト教に受洗。20年三大事件建白運動に参加,保安条例に触れて入獄。26年まで県会議員だったが宗教活動に重点を移し,29年北海道に移住,北光社を組織してもっぱらキリスト教布教と開墾活動に従事,キリスト教系新聞『北辰日報』主筆も勤めた。札幌で死去。<参考文献>土居晴夫編『坂本直寛著作集』全3巻(土佐群書集成23・24・45号)。

(福地惇)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「坂本直寛」の解説

坂本直寛 さかもと-なおひろ

1853-1911 明治時代の自由民権運動家,牧師
嘉永(かえい)6年10月5日生まれ。高松順蔵の次男。母は坂本竜馬の姉千鶴。竜馬の兄直方の養子となる。立志学舎にまなび,明治14年立志社の「日本憲法見込案」起草委員となる。のち北海道で開拓や伝道につとめた。明治44年9月6日死去。59歳。土佐(高知県)出身。幼名は習吉,のち南海男(なみお)。筆名は才谷梅次郎。

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