城下郡(読み)しきのしもぐん

日本歴史地名大系 「城下郡」の解説

城下郡
しきのしもぐん

磯城しき郡の大部分および現天理市南西部を占めた郡。古くは城上郡とともに磯城県・磯城郡の地域(→磯城郡。天平一九年(七四七)の大安寺伽藍縁起並流記資財帳に「式下郡村屋」、「続日本紀」天平勝宝三年(七五一)一〇月八日条に「大倭国城下郡」とあり、早くから「式下」「城下」両様の表記がみられる。「延喜式」(民部)に「城下」とあり、「和名抄」でも「城下郡」として賀美かみ大和おおやまと三宅みやけ鏡作かがみつくり黒田くろだ室原むろはら六郷を列挙する。刊本は「之岐乃之毛」と訓じているが、しだいに式下の表記が用いられるようになり、シキゲ郡といわれるようになり、明治三〇年(一八九七)四月一日に式下しきげ郡は式上郡・十市郡と合併して磯城郡となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の城下郡の言及

【磯城】より

…《日本書紀》神武即位前紀には磯城邑(しきむら)がみえ,兄磯城(えしき),弟磯城(おとしき)という有力豪族がおり,後に弟磯城が磯城県主となったとある。磯城県は4~5世紀ころの成立とみられるが,その地域が中心となって奈良時代の城上(しきのかみ)郡,城下(しきのしも)郡ができる。崇神天皇の磯城瑞籬宮(みずがきのみや),垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや),景行天皇の纏向日代宮(ひしろのみや),欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)などが営まれたことが《日本書紀》にみえ,この地域は磐余(いわれ)地域とともに狭義のヤマトの主要部分を占め,古代の政治・文化の中心であった。…

※「城下郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android