多紀庄(読み)たきのしよう

日本歴史地名大系 「多紀庄」の解説

多紀庄
たきのしよう

丹波国多紀郡内に成立した庄園。永治元年(一一四一)八月二五日の鳥羽院庁下文(九条家文書、以下断りのない限り同文書)によれば、多紀郡宗我部そがべ草南条くさのなんじよう両郷内の多紀庄の四至は「東限山辺里一坪東阡陌、南限草南条山峯、西限大野楊佐恵并海田里卅六坪西阡陌、北限佐田岬并香味里一坪北阡陌」とある。正確な比定は困難であるが、山辺里のように波々伯部ほほかべ保に含まれる地と共通地名がみられ、また後述するようにいずみ村を含み、後河しつかわ庄と境相論を行っていることなどから篠山盆地中央部に位置したと推測してよい。春日社を産土神とする東本庄ひがしほんじよう口県守くちあがたもり春日江かすがえ・泉などを庄域とする説もある。この四至表記には一見条里制を思わせるものがあるが、数詞による条里表記がみられないなど、必ずしも一町方格の条里地割が施行されていたとは限らない。上記史料によれば多紀庄はもと勅旨田で、承和一〇年(八四三)上毛野内親王(平城天皇皇女)家領として立券されたが、のち領主が転々と替わり、大治年中(一一二六―三一)宣旨によって藤原師時の所領として立庄される。師時の死後娘友子が継承するが、その死後弟師行が伝領し、師行は歓喜光かんきこう(現京都市左京区)に寄進し、師行の子孫が預所を相伝した。歓喜光院は鳥羽上皇寵姫美福門院の御願寺で、永治元年の建立に際して多紀庄はその経済的基盤として寄進された庄園の一つであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報