大ヶ谷村(読み)おおがやむら

日本歴史地名大系 「大ヶ谷村」の解説

大ヶ谷村
おおがやむら

[現在地名]那須町芦野あしの

湯舟ゆぶね村の北、丘陵山間部に位置し、東は蓑沢みのざわ村、西は横岡よこおか村、南は芦野町。近世を通して旗本芦野領。慶安郷帳では「大かや村」とみえ、高三〇石余、改革組合村では高三四石余、家数一。享保一三年(一七二八)の将軍徳川吉宗の日光社参の際には奥州街道芦野宿の助郷(勤高三一石)を勤めている(「芦野宿当分助郷帳」熊久保康正文書)。明治二年(一八六九)の村明細帳(神田恵吉文書)によると、高三四石余、田方二町一反余(うち一町余は荒地引)、畑方一町二反余(うち六反は荒地引)、家数一・人数七、馬二。


大ヶ谷村
おおがやむら

[現在地名]岡崎市大柳おおやなぎ

大沼おおぬま道を青木あおき川に沿って上ると安戸やすどを過ぎる辺りより急坂となり峠に至る。それより西北山麓に散在する村。北は山嶺を隔てて日影ひかげ村、南は青木川の上流を挟んでやなぎ村、西は大沼道をもってたき村に通じる。近世は、初め岡崎藩領で、宝暦一二年(一七六二)より幕府領、明和七年(一七七〇)再び岡崎藩領となり明治に至る。寛永期の村高帳には「大が屋村」とも記す。額田手永に属し、享和二年書上には高二五八石余、人別三三二人、うち男一六七・女一六五、馬四。


大ヶ谷村
おおがやむら

[現在地名]榛原町勝間かつま

法士ほうじ村の北西に位置し、勝間田かつまた川の中流左岸に立地する。東は地蔵じぞう峠、高根たかね山へと続く。文禄二年検地高目録に「大かや村」とみえ、高八二石余。正保郷帳では田方七六石余・畑方六石余、ほかに西ノ宮領五斗がある。


大ヶ谷村
おおかだにむら

[現在地名]大東町大ヶ谷

上佐世かみさせ村の東、あか川の支流佐世させ川中流域に位置する。「雲陽大数録」に村名がみえ、高二二〇石。「郡村誌」によると戸数四三(うち社二)・人数一九〇、民業は農業三〇戸・工業六戸、物産は生人参二〇〇貫・楮三〇〇貫目・荒苧一二〇貫目・薪五千貫目。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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