戦国時代の武将。政弘の嫡子。周防権介,のち左京大夫。周防,長門,豊前,筑前,石見,安芸の守護。細川政元に追われた前将軍足利義稙(義材)を保護し,1508年(永正5)中国勢を率いて上洛,将軍義澄,細川澄元を追い義稙を将軍に復させた。義興の在京は10年に及び管領代として山城守護を兼ね幕政を補佐し,11年には澄元らの反撃を洛北船岡山に破り従三位に叙された。以上の中央進出の背景には勘合貿易をめぐる細川氏との確執があり,16年義稙より貿易の主導権を獲得,寧波(ニンポー)の乱(1523)以後独占するに至る。しかし長期の領国不在は安芸国人層の離反と出雲の尼子経久の進出を招き,18年帰国し21年(大永1)以降尼子勢と安芸を中心に交戦した。支城鏡山城を陥れられたのに対し,友田氏の桜尾城を討ち毛利元就を味方につけるなど反撃したが,28年安芸佐西郡門山城に在陣中病を得て山口で没した。
執筆者:加藤 益幹
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(佐伯弘次)
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山口を本拠とした戦国大名。政弘(まさひろ)の子。幼名亀童(きどう)丸。父の没する前年1494年(明応3)家を継ぎ、周防(すおう)、長門(ながと)、豊前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)、石見(いわみ)、安芸(あき)、のちに山城(やましろ)の守護を兼ねた。初世には家臣統制に苦心したが、武断よく領内を安定させた。前将軍足利義材(あしかがよしき)(義稙(よしたね))が義澄に追われて山口にきたのを保護し、1508年(永正5)軍を率いて京に上り、義稙を復職させ、細川氏にかわって管領代(かんれいだい)として10年間にわたり幕政をつかさどった。大内氏は足利氏一族の三管領家でないため管領にはなれなかったのである。公家(くげ)、諸大名との交際の作法に意を用い、伊勢(いせ)貞久から『大内問答(おおうちもんどう)』の書を伝授され、武家には珍しく従三位(じゅさんみ)となった。明(みん)貿易権を手中に収め、尼子(あまご)氏と戦った。
[福尾猛市郎]
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1477~1528.12.20
戦国期の武将。周防・長門両国ほかの守護。政弘の子。1494年(明応3)家督。細川政元に将軍職を廃された足利義稙(よしたね)は,1500年周防国山口に下り,義興に保護された。08年(永正5)義稙を擁して上京,足利義澄・細川澄元を追い,義稙は将軍職を回復,義興は細川高国とともに実権を握り,管領代となった。11年京都船岡山の戦に勝利し,澄元らの反撃を退けた。18年領国経営に専念するため帰国。おもに安芸で尼子経久と勢力を争い,25年(大永5)には毛利元就(もとなり)を配下においたが,まもなく死没。
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… 応仁の乱(1467)には大内与党の厳島神主竹原小早川らは西軍に,武田・毛利・吉川・沼田小早川らは東軍に属し,71年(文明3)には武田元綱や毛利豊元が西軍に応じた。乱後武田氏では元綱の子元繁が金山城主となり,99年(明応8)温科国親の反を平らげ,1507年(永正4)義稙を奉じて上洛する大内義興に従ったが,15年帰国するとかえって己斐城等を攻め,17年山県郡有田に出陣して敗死した。すでに12年有力国衆9人は一揆契状を結び国許の不安に対処しようとしたが,山陰の尼子経久が16年帰国して南下を企て,20年ころから芸備の諸豪族を服属させ,23年(大永3)には東西条の鏡山城を占拠し,またその後援により友田興藤が桜尾城に入り厳島神主となった。…
…1515年(永正12)ころ家を継ぐ。初政で前代からの一族の反乱軍になやまされたが,大内義興の援などもうけてのりきり,後に義興の安芸出兵に援軍を送ったりした。また肥後へは次男菊法師丸を菊池重治(義国,義宗,義武とも)として送り込んだ。…
※「大内義興」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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