江戸時代における町人の大名(藩)への金銀貸付け。藩は年貢米その他蔵物の中央都市への回送・売払いによって幕府発行の全国貨幣を獲得し,その貨幣を領内では自給できない物資の購入と,参勤交代,江戸在府,御手伝普請など幕府への勤役のための支出にあてた。この循環のなかで,現実には蔵物の回着時期・回着量によって入手しうる貨幣と,藩が必要とする貨幣との間に時期や量のずれが生じる。このずれを埋めるのが大名貸であるが,借手からみれば大名個人の負債ではなく藩債である。中央都市とは三都であり,近世初期に全国的な集散市場としての基礎が築かれ,運河網の完成にともなって諸藩の蔵屋敷も設置・整備・拡大され,登米(のぼせまい)が増して最大の領主米市場となった大坂を第一とする。京都は高級織物,美術工芸品の生産・流通都市であったが,領主米市場としては大津,大坂に包含されていた。江戸は幕府所在地であり,諸藩の貨幣支出が大部分江戸でなされ,大消費都市として加工品を大坂から移入した。江戸への廻米は商人米としてが多く,領主米市場としては大坂に及ばず,大名貸も大坂が最も多い。
藩は江戸で恒常的な貨幣支出を必要としたから,大坂で定期的に借り入れて,大部分は江戸へ送金し,蔵物が売れてから返済した。諸藩の大坂蔵屋敷でこの資金の出納を行うのが掛屋であった。大名貸は掛屋によって主として〈江戸仕送り〉という形でなされた。その場合,大坂から江戸への下り商品の増大,大坂の江戸への貸越しの恒常化が江戸仕送りの為替送金を可能ならしめ,両替商が掛屋として最もよくこれを担当しえた。毎年その年の大坂登せ蔵物売払代で返済される当用貸としての江戸仕送りが繰り返された。年によって大名領国の凶作で登米量が減じて売払代銀で返済しきれなかったり,御手伝普請などによる支出増により,不足額が証文貸となっても,その後何年間かの登米売払代で返済されるならば当用貸の延長ないし派生といえる。《難波雀》(1679)によれば1軒の両替屋が数藩の掛屋を兼ねている場合があり,その両替屋だけですべての貸付けをしたわけではなく,逆に掛屋でない藩へも貸し付けている。そのさい登米代銀先納の形をとるのが一般的であったとみられる。
1718年(享保3)以後の米価下落は藩の収入減となり,大名貸の元利払い棚上げやふみ倒しを実行した藩や,大坂の貸手である両替屋との取引断絶が少なからず生じた。しかし両替屋はすでに多額の貸付けをもち,返済能力ありとみられる藩との関係を絶つことはできず,取引継続の線で藩債整理をすすめ,貸付先の選別につとめた。
その選別で除外された藩は,浜方からの借入れに依存した。浜方とは,幕府が米価引上策として堂島米会所における米切手売買,帳合米取引を行う米仲買と,帳合米取引の清算機関たる米方両替とであって,米切手を担保とした大名貸である。その米切手は未着米に発行されたという意味で〈先納切手〉,また実米の裏づけがないという意味で〈調達切手〉と俗称された質入切手である。浜方の大名貸が増大し,蔵元や掛屋にも浜方出身者が進出し,これを含めて数人の館入(立入)が扶持・知行を与えられて恒常的に貸付けに応じ,江戸仕送りも数人の館入に分担された。この段階での大名貸の推移は米切手売高と実米登高とのへだたりの度合に集約されており,これを把握する蔵元が藩の経済力を熟知して藩財政に助言を与え,貸手を統轄して大名貸を合理的に処理しようとした。条件の悪い藩は大坂の大名貸から疎外されたが,幕府は1761年(宝暦11)以後,取り立てた御用金を公銀として大名に貸し付け,また有力な大名貸町人や両替屋に特定親藩への貸付けを命ずるなど,金融市場への直接統制を加えた。
執筆者:森 泰博
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江戸時代、高利貸商人が、諸藩大名領主に金銀を貸し付けること。近世前期には、京都の両替商や朱印船貿易に従事していた豪商などが、財政窮乏の大名に高利貸付をするが、一方的な債権破棄にあって、倒産する商人も多い。中期以後は、大坂の堂島米市場の発展により、大坂の両替商、蔵元(くらもと)商人などが、廻米(かいまい)を担保とする大名貸を展開し、藩財政と大坂高利貸資本が結び付いて、大名貸資本が巨大な資本を蓄積するのである。とくに元禄(げんろく)期(1688~1704)以降、領主経済の窮乏化に伴い、蔵米(くらまい)販売代金を保管・出納する掛屋を勤める御立入(おたちいり)商人の大名貸はますます増加した。薩摩(さつま)藩、仙台藩などの大藩の借金は100万両以上に上った。藩財政は、これら金主の富商によって制せられ、彼らは諸大名より扶持(ふち)を給され、大名貸の代表的存在となった大坂の鴻池(こうのいけ)などは、岡山・広島藩はじめ各藩から受ける扶持米が1万石にも及んだ。金利は、月8朱が多かったが、幕末には月4朱ほどにまで低下したという。
[川上 雅]
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江戸時代,大名領主に金銀を貸し付けること。領内外の広範な農工商が行い,とくに京都,ついで大坂・江戸といった大都市では,これを専業とする鴻池(こうのいけ)屋などの商人も現れた。17世紀後期以降,典型的に展開した大名貸は,大名の江戸での貨幣支出の膨張に対し,掛屋(かけや)・蔵元(くらもと)に任命した大坂町人に月ごとの仕送りをさせ,年貢米の廻送・売却で決済するいわゆる当用貸が中心であり,これに臨時貸付けが加わった。しかし年貢米の廻送はしばしば滞り,とくに享保年間以降は米価下落・幕府の抑商政策の影響で大名貸は不利となり,不良債権が増大した。この多くは維新政府の藩債処分により切り捨てられ,多くの商人が打撃をうけた。
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… 石高制にもとづく江戸時代の領主経済は,原則として米納年貢の収取によって賄われたから,領主の歳入は秋の収穫期に限られたわけであるが,参勤交代の負担や天災による歳入の減収,役替え,家督相続,江戸屋敷の類焼など臨時支出の頻発によって,収納期前の領内外からの借入金が,早い時期から恒常化していた。京都,大坂の富商に代表される大名貸は,将来の年貢米を担保とし,収穫期に中央市場に回送される領主米の販売代銀で返済するのが一般であったが,債務の累積によって返済の延滞や切捨てがたび重なるにつれて,領主権力の及ばないそのような領外からの借入を困難にしていった。領主にとって最も安易に借入を調達しうる方法が,領内における年貢先納であった。…
…江戸で明暦年間(1655‐58)以前から続いた本両替商の名。とくに米沢,秋田,会津など東北諸藩への大名貸を行い,大坂の鴻池と並び称された。米沢藩では三谷に禄高700石の待遇を与え,金融面だけでなく上杉鷹山(ようざん)の殖産興業政策に深くかかわり,蠟,青苧(あおそ),絹織物の一手販売まで行わせていた。…
※「大名貸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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