「日本書紀」には神武天皇即位三一年の四月、天皇が
との記事があり、続いて、
と、ヤマト地方についての神話上の別称を記す。もちろん、国成立後の大和国全域をさすものではない。また神武紀によれば、この地方には
国成立以前、大和には六
大化の改新で国郡制による大倭国が成立する。「続日本紀」には天平九年一二月(七三八)「大養徳」と改称の記事があり、同一九年には「大倭」、天平勝宝元年(七四九)には「大和」と記す。「大和」の表記は平安時代には一般化するが、「倭」は中国的な表現であり、
奈良県の歴史で最大の事象は、古代に大和朝廷がこの地方に勃興し、初期の帝都が数世紀にわたって奈良盆地、とくに東南部に存在したことである。大和朝廷自身の記録である「古事記」「日本書紀」によれば、その始祖神武天皇(神倭磐余彦)は西方九州から東へ進み、生駒山地を西から大和へ進入しようとして、土着の豪族登美の長髄彦に妨げられ、針路を変えて南方熊野地方に上陸し、吉野山地を北進して宇陀に入り、西進して
以後奈良盆地(国中地方)南部の葛城・
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
旧国名。和州。現在の奈良県。
畿内に属する大国(《延喜式》)。添上(そふのかみ),添下,平群(へぐり),広瀬,葛上(かつらぎのかみ),葛下,忍海(おしうみ)/(おしみ),宇智(うち),吉野,宇陀(うだ),城上(しきのかみ),城下,高市(たけち),十市(とおち),山辺(やまのべ)の15郡に分かれていた。大和国を地形的にみると,奈良盆地(国中),大和高原(東山中),宇陀,吉野の4地域に分かれる。奈良盆地には13郡が設置され,添上郡と山辺郡の東半部が大和高原に及んでいた。宇陀には宇陀郡,吉野には吉野郡が置かれた。吉野とは,元来,中央構造線の走る吉野川右岸(北側)の野や山を指し,吉野宮(吉野離宮)が置かれていたが,奈良時代の724-732年(神亀1-天平4)には吉野監が設置されている。山岳信仰の高まりとともに大峰山付近までを吉野と称するようになるが,それでも,さらに奥の吉野の地域が,古代において大和国として把握されていたか疑問が残る。
大和国は倭国,大倭国,大養徳国,山門国,日本国,大日本国などと表記されるほか,《万葉集》には,山常,山跡,和,大和などともみえている。藤原宮跡出土の木簡に〈倭国所布評〉と記すものがあり,707年(慶雲4)11月の威名大村骨蔵器銘文には,〈大倭国葛木下郡山君里〉の表記がみえている。一方,《続日本紀》では,大倭国,大養徳国,大和国などの表記がみえ,737年12月27日に,大倭国を改めて大養徳国としたが,747年3月16日に再び大倭国としたという。以上の史料からみると,大宝律令の施行とともに倭国から大倭国の表記に改められたと考えられる。
ヤマト(大和/倭)とはもともと奈良盆地東南部をさす地名であったが,後に大和国全体を,さらには日本全土を指すようにもなった。ヤマトの範囲は初瀬川の流域で,三輪山と香具山を結んでできるデルタ地帯(第一次ヤマト)である。シキ(磯城)やイハレ(磐余(いわれ))地域が第一次ヤマトに相当する。香久山は代々の大王の国見儀礼の舞台であるとともに,その土が呪力あるものとされ,神聖視されていた。また三輪山は《日本書紀》の記事から推測すると,古くは大王みずからがまつる山であり,大王即位の儀礼も行われたらしい。後にヤマトの範囲は拡大し,オホヤマト(大和)やイソノカミ(石上)の地域をも含むようになる(第二次ヤマト)。ヤマトの地名が何に由来するか不明であるが,あるいは三輪山の麓を意味しているかもしれない。4世紀初頭,奈良盆地東南部の三輪山山麓に,大和王権が成立した。それは,この地域に箸墓古墳,渋谷向山古墳(現在の景行天皇陵古墳),西殿塚古墳など,巨大な前方後円墳が突如として出現したことで知られる。4~6世紀代には,シキ,イハレ,イソノカミの地域に歴代の宮がほぼ連続して営まれた。文字どおり,ヤマトは古代王権の膝下の地であったといえよう。
7世紀代に入ると,飛鳥とその周辺に宮が営まれるようになり,持統朝には大和三山の間に藤原京が造営される。710年(和銅3),奈良盆地北部に営まれた平城京に都は移り,784年(延暦3)の長岡遷都まで続く。文字どおりこの時点まで,大和は一貫して日本古代国家の中枢であり続けた。
大和が国家の中心であったため,逆に大和の国府や国分寺については不明なことが多い。国府の所在地は,7世紀後半には葛上の地にあったらしく(葛上旧国府),平城遷都とともに藤原京の西南隅(軽の街(衢)(ちまた)と呼ばれた場所である)に移ったらしい。ほぼ12世紀末まで大和の国府はこの地にあり,高市国府(軽国府とも)と称された。管見の範囲では,13世紀以降の記録に今国府(現,大和郡山市今国府町)の地名が見えてくるので,鎌倉時代には大和の国府は今国府に移転したものと考えられる。国分寺と国分尼寺についても不明なところが多い。総国分寺である東大寺が大和の国分寺を,総国分尼寺である法華寺が大和の国分尼寺を兼ねていたとする考え方が存在する一方,それぞれ両者は別個であるとする説がある。後者の説では,大和の国分寺は下ッ道と横大路が交差する西南隅(現在,橿原市八木町2丁目に国分寺が所在している)に,大和の国分尼寺は橿原市法花寺町に想定している。
平安時代に入って藤原氏の勢力が増大するにつれ,興福寺と春日社は藤原氏の氏寺・氏社として尊信を受けるに至った。神仏習合思想の高揚とともに興福寺は春日社(春日大社)との一体化をはかり,1136年(保延2)ころには春日社を支配下に置くようになる。相次ぐ所領寄進を受けた興福寺では,雑役免田を大和一円に設定した。こうした興福寺荘園の増大とともに,大和国は藤原氏の知行国となっていく。
執筆者:和田 萃
中世の社寺王国大和を知るには,まず平安時代にさかのぼる必要がある。784年山背(城)国長岡京遷都によって平城京が廃されると,南大和の飛鳥地方に国府を設けていた大和国司が1国15郡を支配した。そのころ十五大寺が定まるが,これは南都七大寺(東大,興福,元興,西大,薬師,大安,法隆)に奈良の唐招提寺,新薬師寺,飛鳥の本元興寺,弘福寺(ぐふくじ)(川原(かわら)寺),京都の東寺,西寺,摂津の四天王寺,近江の崇福寺を加えたものであり(《延喜式》),これに飛鳥の両寺が加えられたのは飛鳥の復権を示している。しかし,奈良の社寺はその境内地を拡充して社寺の都の南都を出現させ,さらに社寺領荘園の設定に努めたため,国司との対立が激化した。おりから,摂関政治をはじめた藤原氏北家(摂関家)は大和国をその知行国とし,氏社春日社の祭祀を振興した。大和国の春日神領国化の始まりだが,神仏習合思想を利用して春日社との一体化を進めていた興福寺は大和国の支配を主張,1135年春日若宮社を創建,翌年から若宮祭を大和一国の大祭として興福寺境内で執行,神国大和を称して国中の社寺の末社・末寺化や社寺をまつる在地領主の土豪らの従属を強いた。土豪らを衆徒(末寺坊主),国民(末社神主)に列して在地代官とし,僧兵として武力に起用した。この末社末寺制と衆徒国民制とによって興福寺は大和国の支配組織を完成,摂関家代官の大和国司を有名無実たらしめた。
この興福寺の攻勢は,平清盛政権が大和国を知行したり,1180年(治承4)には南都焼討ちを敢行するなどの災禍をこうむって頓挫したが,間もなく源頼朝の鎌倉幕府が成立,南都復興を援助し,武家の進駐を停めたため,興福寺は大和国司および守護職の実権を掌握した。ここで春日社興福寺を盟主とする大小社寺の領主連合組織が完成,治外法権の社寺王国(宗教王国)大和が出現した。興福寺の独走には東大寺や多武峰(とうのみね)(天台宗延暦寺末寺)が不満であり,やがて新興地侍らが将軍家御家人(地頭)あるいは悪党として反体制活動を始めたり,興福寺の一乗院,大乗院両門跡の対立抗争が生ずるにいたった。しかし,社寺王国化にともない,南都仏教が復興,社寺の修造や復旧が進んだ。古代寺院が現在まで厳存するいわれである。王朝貴族の長谷寺・金峰(きんぷ)詣や南都巡礼などにあやかって民衆の社寺詣などが漸次さかんになったためでもある。
1331年(元弘1)討幕を目ざした後醍醐天皇の南都遷幸によって元弘の乱が始まり,南都に隣接する山城国笠置山(かさぎやま)落城や大塔宮護良(もりよし)親王の吉野山挙兵などが知られる。翌々33年天皇は討幕に成功し建武新政を始めたが,足利尊氏の反乱に遭い,36年(延元1・建武3)吉野山に遷幸した。吉野山金峯山寺検校を兼ねる一乗院門跡がこれを迎え,南大和の土豪らが参仕し,足利尊氏も追撃を止めたため,吉野,宇陀,宇智の3郡のほか飛鳥奥地や大和高原など大和平野(奈良盆地)の周縁部は吉野方となり,南都領を侵略横領した。南都社寺は中立をとなえ,とくに律宗の唐招提寺,西大寺の長老は公武の和解に尽力したが,社寺領奪回や悪党らの制圧を将軍家に要請するなど武家方に同調するにいたった。こうして大和では南北朝動乱が南北地域抗争として展開する。47年(正平2・貞和3)足利尊氏の執事高師直(こうのもろなお)は河内の楠木正行(くすのきまさつら)を討ち,さらに葛城山を越えて大和に入り,飛鳥を経て吉野山を攻撃し皇居を焼掠した。後村上天皇は西吉野に逃れて賀名生(あのう)に行在所(あんざいしよ)を設け,なお奮起して河内に進んだため,吉野山皇居は廃絶し,大和の南朝勢力は山地にひっそくした。
当代,衆徒・国民らは実力を増進して武士化を強めた。とくに春日若宮の祭礼に願主人(施主)の制を設け,祭祀に参与した(宮座といえる)のが注目される。衆徒・国民らは地域武士団として六党(筒井氏の戌亥脇,十市(とおち)氏の長谷川,箸尾(はしお)氏の長川,平田荘荘官らの平田,楢原(ならはら)氏の南,越智(おち)氏の散在党)を組成,毎年その2党ずつが若宮祭礼に参仕,党首が願主人となるしくみである。願主人らは金春(こんぱる),金剛,観世,宝生(ほうしよう)の大和猿楽四座をそろって参仕させ,薪猿楽も興福寺南大門に移して盛大に執行されるにいたった。やがて3代将軍足利義満が武威をあげ,西吉野地方に封じこんだ南朝を収束して動乱が終わるが,義満は神国大和を是認,興福寺両門跡を大和守護職に任じ,衆徒・国民らには忠誠を誓わせるなど,社寺の保護に努めた。なお,南朝制圧のため武家が占拠した宇陀・宇智両郡を春日社に寄進返付,宇陀郡は大乗院,宇智郡は一乗院の両門跡に支配させた。室町幕府の確立で社会経済および文化が発達し,南都は京都と並んでその中心となり,八木や竜田は宿場町として発展する。
1428年(正長1)の正長の土一揆は酒屋土蔵を対象とする徳政一揆の始まりで,近傍の宿場から馬借らが南都に迫った。徳政一揆は京都と南都に頻発する。正長の土一揆は還俗(げんぞく)将軍足利義教の就任や南朝残党の伊勢国司北畠満雅の反乱がきっかけであるが,民衆台頭の下剋上の世の到来を示している。このおり,大和中部の衆徒・国民の葛藤が拡大,幕府の討伐軍に筒井氏が加わると,飛鳥の越智氏が南朝残党らと一味して対抗したため,南北大和の10年戦争が展開し(永享大和合戦),筒井,越智らは中央政界に結ばれて大名化を進める。この合戦を契機として後南朝が吉野奥地で勢いづき,大和南北両党が幕府管領家の細川・畠山両家の抗争に巻きこまれ,河内の畠山両家合戦に参じて激突したのが応仁の大乱に移行する。大和では永享大和合戦以降は戦国乱世に突入したといえる。北大和の筒井氏,古市氏,南大和の十市氏,越智氏が四強といわれ,衆徒・国民らが国衆(くにしゆう)として大小名化を競ったが,平和要望の郷村にその活動は制約され,いぜん社寺の領主的権威にすがって保身をはかったため,強力な戦国大名は出現しない。
当代,奥地の吉野郡の僻地化,伊勢北畠氏の勢力の及んだ宇陀郡,紀伊(河内)畠山氏が支配した宇智郡には,それぞれの人文に伊勢・紀伊色が強まり,大和の歴史的舞台は大和平野部に縮まった感もある。しかも,この大和平野部(国中(くんなか))は従来の南北両分がさらに南和(飛鳥),中和(十市),北和(奈良)に3分されるし,北和にはなお東山中,西山中が生ずるなど,地域的分立が進んだ。大和は平地・山地を擁して地勢は複雑であり,先進・後進および僻地を網羅し全国の縮図の観を呈する。とくに平野部では大小溜池の濫立や環濠集落で知られるように,群小村落がひしめいていた。なお,地域的分裂に乗じて曹洞宗や一向宗が吉野郡にはじまって南大和に流布する。
やがて16世紀半ばには,筒井氏は古市,十市,越智氏の衰退に乗じて独走勢力となったが,おりから細川氏の家老三好長慶が台頭,その家臣の堺代官松永久秀が大和をねらって信貴山(しぎさん)城を築き,1559年(永禄2)久秀は大和守護職を称して乱入,幼児の筒井藤勝(順慶)ら国衆を追って奈良に進出し,翌年にはその北郊に多聞山城を築いて居城とした。近世城郭の第1号といわれる雄壮な構築であり,4階だての多聞櫓がそびえた。大和は初めて他国武士に長期占領され,社寺王国も閉幕することになるが,京都や堺の町人らとさかんに交流した奈良町人や国衆の一部は,むしろ久秀に迎合している。
主家を奪い将軍足利義輝を殺した松永久秀に対して,三好三人衆が蹶起し,成人して興福寺衆徒となり陽舜房順慶と称した筒井藤勝の反撃に協力した。67年多聞山城に追いこまれた久秀は追撃する三好三人衆が陣営をとる東大寺大仏殿を夜襲し,その火矢で大仏殿は炎上した。久秀の没落は必至となったが,翌68年織田信長が足利義昭を奉じて上洛するのを迎え,これに降参して大和の切取りを許されて危地を脱した。しかし義昭と信長との不和に乗じて信長に反乱,73年(天正1)には義昭を蹶起させたが,ともに敗れ,久秀は多聞山城を信長に渡して信貴山城に閉居した。信長に起用されていた筒井順慶は76年大和守護に任ぜられ,信長の石山本願寺攻めに参加,大和では高市郡の今井や吉野郡の上市,下市の本願寺御坊を攻略,なお郡山を居城(郡山城)に定め,80年に天守閣をあげてこれを完成した。同年,信長は検地を実施して社寺や国衆らにその所領を注進させ,国衆の社寺従属(僧兵)を禁じたり,社寺領の横領を糾明したが,処分は未了のまま82年本能寺で倒れた。明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉の山崎合戦に順慶は光秀の招きには答えず,郡山城で戦局を観望,勝利した秀吉のもとに参じて保身した。出世の恩人の光秀を憤死させた打算的行動が,後日痛罵されて〈洞ヶ峠(ほらがとうげ)の順慶〉と評されるが洞ヶ峠に出陣したというのは虚飾である。
秀吉は近畿随一の大名の順慶を利用するため大和をしばらく順慶に与えたが,85年,政権安定化工作の一環として弟の秀長を郡山城主として大和,和泉,紀伊の3国を支配させた。順慶の養嗣子の定次は伊賀上野城に国替えとなり,また社寺領を削減し,国衆らはすべて国外に去るか帰農するかの択一を厳命した。兵農分離や政教分離を強行し,武家封建支配の徹底をはかったものである。入国した秀長は郡山城とその城下町を拡充,奈良の商業や在郷の酒造などを禁止したり,僧兵跋扈の多武峰を城北の地(現,大和郡山市の大職冠の地)に移遷するなどして,城下町郡山の振興をはかった。社寺の商工業や武力を禁止,武家によるそれの掌握を示したものである。なお,秀吉は直臣の本多俊武を飛鳥の越智氏旧跡の高取城,伊藤掃部を宇陀郡に入れて秀長に与力させたが,大和の国情に対応する大名配置を考案したといえる。
95年(文禄4)の太閤検地(文禄検地)の実施で大和国惣高は15郡45万石とされ,奈良惣町と城下町郡山が町を称したほか,約1500の多数におよぶ村落が確立,大小名や社寺に朱印領が給される。たまたま,郡山城の豊臣氏が絶えて秀吉の奉行の増田(ました)長盛が入城(20万石),大和はむしろ秀吉の直領化した。なお朱印領の交付によって社寺は蘇生した。筒井順慶の郡山築城前後から大和は兵火を免れ,秀吉兄弟の神仏崇信によって社寺も救われ,大和にはいち早く平和が到来したといえよう。
1600年(慶長5)関ヶ原の戦で西軍に属した増田長盛を追放して大和を接収した徳川家康は,足利将軍家や豊臣秀吉らと同じく南都社寺や大和を厚遇し,大大名は入部させないで,直領化をはかった。
徳川氏はまず国奉行を入れたが,13年奈良町や朱印社寺を所管する奈良奉行が置かれ,その他の直領には代官を入部させた(1664年南都代官所を新設して直領を統括,これは1795年に五条に移される)。ちなみに大名配置を15年(元和1)の豊臣氏滅亡後にみると,郡山城水野勝成(6万石,間もなく松平忠明12万石),高取城本多正武(2万5000石)のほか,竜田に片桐孝利(4万石,叔父の貞隆は小泉1万5000石),宇陀松山に織田信雄(のぶかつ)(3万石),式上(しきのかみ)/(しきじよう)郡に織田長益(2万石,柳本・芝村両藩祖),葛上郡に桑山元晴(御所2万石),桑山一晴(新庄1万6000石)であり,間もなく竜田片桐氏や桑山両氏は廃絶,松山織田氏は転封,その跡は直領となった。大和では郡山・高取に城郭がそびえるが,その他の大名は1万石の小身者などで陣屋を構えるに過ぎない。ちなみに幕末に大名は郡山柳沢氏(15万石),高取植村氏(2万5000石)のほかは柳生氏,小泉片桐氏,柳本・芝村織田氏,新庄永井氏,田原本平野氏(各1万石)があげられる。なお,伊賀藤堂氏が大和高原や東部大和で4万石を知行し,奈良近郊の古市村に代官所を設けた。
大名領は惣国高(45万石)の半ばをかぞえるが,郡山藩を除いては旗本知行所とほぼ同類であり,これと天領(幕府直領,旗本知行所)や社寺領が交錯したため,いぜん村落の分立などの旧態はつづき,大名の誅求などは制約された。封建支配はもちろん徹底するが,天下泰平がもたらされ,なお伝統の保存が許されたので住民生活には急変はない。気候上やや水不足ではあるが,耕地は肥沃な地味に恵まれ,とくに北大和では麻織物(奈良晒),南大和では綿作,山地では林産などがさかんになったため村民や町民らが確立し,村や町が発達した。元禄時代前後から農村には大和棟を載せる白壁の農家が群がり,町場では堅固な町屋建築が並んだ。やがて,地主や町人らの土地集積などもはじまったが,むしろ中堅村民が確立し,“静かで豊かな大和の農村”が出現した。また古社寺が復興して賽者を呼び,南都八景や花の吉野山をはじめ南北大和の名所をさぐる奈良見物や大和めぐりがさかんに行われるようになった。東大寺の大仏修理や大仏殿復興(1708)の供養法会は数十万の参拝客を誘い,奈良見物の圧巻となった。ちなみに,近世寺院制度によって,浄土宗,浄土真宗,融通念仏宗,日蓮宗などの各宗も大和に流布した。なお,天台宗や臨済宗は振るわず,曹洞宗は南大和でさかんなのが特異だし,いぜん郷村鎮守を支配する真言宗が栄えた。
近世後期,百姓一揆が起きたが,村落分立や住民の保守気質がこれの大挙を阻んだ。1753年(宝暦3)芝村藩預り支配の十市郡葛本村ほか8村が協議して年貢減免と預り替えを京都所司代に箱訴(はこそ)し,翌年には同藩領の村もこれに加わったため,庄屋年寄衆をはじめ村民200余人が一味徒党の罪で処断されたのが大騒動だが,これは天領が大名預所となり,過重課税となったので是正をもとめたものである(芝村騒動)。また1818年(文政1)幕府直領の吉野郡では旗本中坊氏の知行する竜門郷(中坊氏知行は15村)で領下14村(1村は不参)の百姓数百人が結集,代官浜島清兵衛の誅求の非を強訴し,浜島を殺害するにいたった。これは直領の吉野郡が山地のせいで殊遇されたのにくらべ,竜門郷のみは苛政に泣くという不満が爆発したものである(竜門騒動)。両一揆はいずれも幕府直領なみを望んだものであり,徳川将軍家の大和優遇がうかがえる。なお,年貢減免要求や豪農豪商宅を襲撃する打毀(うちこわし)などもおこったが,百姓一揆ともども大騒動というほどのものでもない。
1863年(文久3)神武陵に攘夷祈願のため,孝明天皇の大和行幸の計画が発表されたが,これに関連して公卿中山忠光を擁した勤王志士が隊伍を組んで五条代官所を襲撃,代官鈴木源内を斬って挙兵した。天誅組の蹶起だが,政変で大和行幸は中止され,天誅組は討伐をこうむることとなった。十津川郷士が将軍家の恩顧をあえて破棄して勤王に郷論を統一し,天誅組にいったんは呼応したが,これが違勅行動となるというので天誅組と決別した。政局混乱の所産だが,この天誅組の蹶起は明治維新の暁鐘となる。
執筆者:永島 福太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
五畿内(きない)の一部。近畿地方の中央やや南寄り、現在の奈良県全体を含む地域の旧名。古代には奈良盆地内のみを意味し、吉野、宇智(うち)、宇陀(うだ)、東山中(ひがしさんちゅう)は、その後に繰り込まれたが、この地が大和政権発生の本源地であることから、日本全体を意味することばともなっている。
日本の統一政権である大和政権は、4~5世紀のころ、盆地の南東部、磯城(しき)、磐余(いわれ)、飛鳥(あすか)の地を中心として発展したが、朝鮮半島を経て中国の文化や仏教を受容(538)して以来、その基礎を固め、飛鳥文化を現出し、飛鳥寺、法隆寺など多くの寺院も建造された。その後、中国の都城制を採用して藤原京(694)をつくり、さらに北部の奈良の地に平城京(710)を築き、唐文化に倣って華麗な天平(てんぴょう)文化を開花させ、東大寺、興福寺など南都七大寺の文化が栄えた。784年(延暦3)都が長岡京、ついで平安京に移ると、奈良は南都とよばれ、皇室や藤原氏の故地として、伝統的文化を色濃く伝え、南都六宗を奉ずる仏教王国として特異な存在を続けた。なかでも興福寺は春日(かすが)神社の神威を借り、衆徒・国民などの兵力を養って他の寺社を圧迫し、国司を追放し、多数の荘園(しょうえん)を擁するに至った。かくて南都は平安末期に平家と争い、その焼打ちにより大打撃を受けたが、皇室、藤原氏、源頼朝(よりとも)らの援助によって立ち直り、やがて国内にも寺社の庇護(ひご)によって多くの地元産業を発生させた。一方吉野山には平安中期以来、修験(しゅげん)宗が興隆し、熊野地方と結ぶ宗教上の聖地となった。南北朝時代、京都の武家方に対する南朝の半世紀にわたる対峙(たいじ)は、この宗教的・経済的背景があったからである。
室町時代に入ると、旧来大寺院の制肘(せいちゅう)下にあった各所の郷村には、地侍(じざむらい)を中心とする民衆勢力が台頭し、幕府や寺院の統制力が失われるに乗じてしだいに成長を遂げ、徒党を結び相互に争うに至った。筒井(つつい)、古市(ふるいち)、十市(といち)、越智(おち)、箸尾(はしお)などはもっとも有力なものである。やがて国内へも他の諸宗教宗派が浸潤し、中央政界の雄たる細川、畠山(はたけやま)氏、さらに下って三好(みよし)三人衆や松永久秀(ひさひで)の侵入があり、対内対外の抗争動乱の時代が続いた。しかし1568年(永禄11)織田信長が京都に進駐すると、筒井順慶(じゅんけい)は巧みにこれと提携し、松永久秀を討滅し、国内諸党をも圧服し、信長の大和代官となった。織田氏が滅ぶと大和一国は豊臣(とよとみ)政権の直轄領となり、秀吉の実弟秀長(ひでなが)が郡山(こおりやま)城に入り、河内(かわち)、和泉(いずみ)をもあわせて100万石を治めた。ついで、文禄(ぶんろく)検地では大和一国は44万石と査定された。
関ヶ原の戦いが終わり江戸時代を迎えると、初期の大名の改易・断絶・国替を経て、国中は七大名のほか直轄領、旗本・御家人(ごけにん)の知行所(ちぎょうしょ)、寺社の朱印料など100近い給地に細分されるという複雑な支配様相となっている。しかし長い平和な時代のなかで、街道は大坂への諸道をはじめ、京街道、伊勢(いせ)街道、阿保(あお)街道、また吉野川沿いの道も整備され、それにつれて都市も、奈良、郡山、今井をはじめ八木、桜井、三輪(みわ)、丹波市(たんばいち)、田原本(たわらもと)、竜田(たつた)、高田、御所(ごせ)、新庄(しんじょう)、五條(ごじょう)、下市(しもいち)、上市(かみいち)、吉野、松山など地方の大集落も発展した。地元の産業は中期ごろからしだいに活気を呈し、米、種油、奈良晒(さらし)、木綿、材木、茶、薬種、酒、素麺(そうめん)、煙草(たばこ)、紙、葛粉(くずこ)などが生駒(いこま)、金剛(こんごう)の山脈を越え、大和川の川舟を利用して大坂その他の地方へ輸出された。奈良、吉野、長谷(はせ)寺、當麻(たいま)寺などへの観光旅行が盛行したのも中期ごろからである。後期になるとやや沈滞ぎみとなるが、伊勢参宮への数度のお陰参りも暴発的に起こっている。
1863年(文久3)夏には天誅(てんちゅう)組が蜂起(ほうき)して、平和な国中を震撼(しんかん)させたが、概して平穏に明治維新を迎えた。1871年(明治4)まず幕府直轄領が新政府に収められ、各藩もついで廃され、一括して奈良県となった。その後76年に至り堺(さかい)県に合併され、さらに81年大阪府下に入ったが、多大の不便を生じたため、地元では独立の運動が起こり、87年奈良県の再設置が認められた。
[平井良朋]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
倭国・大倭国とも。畿内の国。現在の奈良県。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では添上(そうのかみ)・添下・平群(へぐり)・広瀬・葛上(かずらきのかみ)・葛下・忍海(おしのみ)・宇智・吉野・宇陀・城上(しきのかみ)・城下・十市(とおち)・山辺・高市(たけち)の15郡からなる。国府は葛上郡,高市郡と移り,平安中期以降は平群郡(現,大和郡山市),国分寺は東大寺(現,奈良市),国分尼寺は法華寺(現,奈良市)におかれた。一宮は大神(おおみわ)神社(現,桜井市)。「延喜式」の調は銭のほか,箕と鍋などの土器。ヤマト王権の所在地として古くから開け,694年(持統8)には藤原京,710年(和銅3)には平城京がおかれた。平安時代以降,奈良は南都とよばれ,南都七大寺や春日大社などの社寺の町として栄えた。鎌倉・室町時代は興福寺の勢力が強く,守護職を掌握した。戦国期には松永・筒井・越智氏らが割拠。江戸時代は小大名領・幕領・寺社領があった。1868年(明治元)奈良府や藩・県が成立。71年の廃藩置県ののち奈良県が成立。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…関ヶ原の戦後,はじめ大久保長安配下の奉行衆が奈良支配にあたったが,1613年(慶長18)よりかつて興福寺の被官であった中坊氏が起用され,これ以後奈良奉行の職名がおこった。しかし中坊氏の時代には,中世において大和支配の権を有していた春日社・興福寺対策にその主要な任務があり,民政上の権限は確立しておらず,また大和国内の幕領代官をも兼任するなど,制度的には過渡的な段階にあった。64年(寛文4)土屋利次の奉行就任以降,奈良奉行と代官の職掌は分離され,奈良および大和一国の民政一般を管掌するようになり,奉行所機構も整備されて制度的確立を見た。…
※「大和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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