大善寺村(読み)だいぜんじむら

日本歴史地名大系 「大善寺村」の解説

大善寺村
だいぜんじむら

[現在地名]久留米市大善寺町宮本だいぜんじまちみやもと大善寺大橋だいぜんじおおはし一丁目・大善寺南だいぜんじみなみ一―二丁目

筑後川下流左岸の平地に位置する。南部で上津荒木こうだらき川がひろ(大善寺川・宮本川)に合流する。宝暦一一年(一七六一)藩命により宮本村と改称されたが(「御書出之類」藩法集)以後も混用された。東は下荒木しもあらき村・白口しらくち村、西は荊津おどろつ村、北は住吉すみよし村・安武本やすたけほん村。東部久留米柳川往還が通り、南部を流れる広川用水や舟運に利用された。本高は九五五石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」によると古高一千二五〇石・役高一千二二〇石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では宮本村として高一千二二四石。文化四年(一八〇七)畝付帳では本田五九町九反余・開田二町三反余・畑田三町四反余・畑二五町一反余・居屋敷一町三反余。ほかに野開屋敷分として開田一町六反余・畠一五町二反余があった。旧高旧領取調帳の高一千四五一石余。

正保四年(一六四七)の大小道之帳によると広川にかかる大善寺橋(大善寺大橋)は長さ一四間・幅二間。

大善寺村
だいぜんじむら

[現在地名]郡山田村町大善寺たむらまちだいぜんじ

金屋かなや村の南、谷田やた川東岸の阿武隈高地西縁丘陵に立地。守山もりやま村から金屋村を経て郡山に至る道が通る。中世田村庄に含まれ、天正八年(一五八〇)頃と推定される三月二〇日の岩城親隆書状(秋田藩家蔵岩城文書)に「大善寺金屋此等之小屋々々」とみえ、岩城常隆が当地の砦を打破り、近辺を焼払っている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ高四九六石余、田丸氏の知行地

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android