大島庄(読み)おおしまのしよう

日本歴史地名大系 「大島庄」の解説

大島庄
おおしまのしよう

越智郡大島に存在した京都醍醐寺領の荘園。成立事情は明らかではないが、平安時代末期には、本家職は鳥羽上皇、領家職は中院家の領有するところであった。大治三年(一一二八)伊予国衙が、官使らを派遣し、示を打って荘域を定めた時には、荘内の吉浦よしうら方の田は四三町、甘原方の田は三七町で、本家の収納分は、五斗の年貢そのほかを合わせて段別七斗で、そのほかに畠地子麦段別二斗、塩地子三〇石、桑代絹二〇疋、交易綿一両、宿人年間四人などの貢納が規定されていた。もっとも畠地子麦は、年貢輸送の際の梶取の食料および賃金に充当されることとなっていた。またこのほかに、預所に三升、公文に一升、出納に一升の給米が計上されていた。

鳥羽上皇は、一品宮すなわち第一皇女嬉子内親王が、長承二年(一一三三)若くして逝去したので、その遺骨を山城醍醐寺円光院の仏壇の下に納め、その菩提のため、供僧六口を置き、円光院内の廊御堂で、毎日阿弥陀供養を行わせた。


大島庄
おおじまのしよう

信濃川自然堤防上に立地した現長岡市街を中心とする庄園。初見は藤原摂関家の家政機構と年中行事をまとめて元永元年(一一一八)から保安二年(一一二一)の間に成立したと考えられている「執政所抄」で、四月の条に「漆五升、御倉町、大島御庄下」とある。賀茂詣の際の神宝を作るために漆を供出しており、摂関家領であった。その後当庄は関白藤原忠実から娘高陽院に与えられた。仁平二年(一一五二)一二月、高陽院は逆修を修し、八月に僧侶らに出す食事を太田おおた(現長野市)・大島両庄に賦課している。しかし久寿二年(一一五五)女院が没すると再び摂関家に回収され、「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に載せる関東知行国乃貢未済庄々注文に「殿下御領大嶋庄」とみえる。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)によれば、摂関家の分立に伴って近衛家に相伝されており、同家は一定の得分のみを収取する本家職で、庄務権は保持していなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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