大工原銀太郎(読み)だいくばらぎんたろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大工原銀太郎」の意味・わかりやすい解説

大工原銀太郎
だいくばらぎんたろう
(1868―1934)

農学者、教育者。長野県下伊那(しもいな)郡飯田(いいだ)の鈴木家に生まれ、1883年(明治16)大工原孝吉の養子となる。1894年帝国大学農芸化学科を卒業。翌1895年農商務省農事試験場技師となり、鉱質酸性土壌の酸度定量法を確立、大工原酸度とよばれた。さらにその分布を母岩別、地質系統別に調べ、日本の土壌ほとんど全部が酸性土壌であるとした。酸性中和による改良策を試験し、農地の施肥改善に画期的貢献をした。1911年(明治44)農学博士。1917年(大正6)特許局技師を兼ね、人造肥料の開発指導に関与した。1919年九州帝国大学農学部設置に伴い、教授に迎えられ、総長に任じられた。1930年(昭和5)辞任し、同志社大学総長となる。著書に『土壌学』がある。

石山 洋]

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20世紀日本人名事典 「大工原銀太郎」の解説

大工原 銀太郎
ダイクハラ ギンタロウ

明治〜昭和期の農学者 九州帝国大学総長;同志社大学総長。



生年
慶応4年1月4日(1868年)

没年
昭和9(1934)年3月9日

出生地
信濃国下伊那郡飯田(長野県)

学歴〔年〕
帝大農科大学(現・東大農学部)農芸科〔明治27年〕卒

学位〔年〕
農学博士

経歴
明治28年農商務省農事試験場技師となり、42年東京帝大農科講師、大正3年特許局技師を兼任。この間肥料研究のため英・独・仏・オーストリアに留学。朝鮮勧業模範農場長、水源高等農林学校長を経て、10年九州帝大教授、15年総長に就任。昭和4年辞職し、同年同志社大総長。土壌学、肥料学を中心とする農芸化学を研究し、土壌酸度測定法の「大工原法」を確立。酸性土壌の研究に業績を残し、その後の土壌改良、施肥改善、土地利用、農作物増産に貢献した。著書に「土壌学講義」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大工原銀太郎」の解説

大工原銀太郎 だいくばら-ぎんたろう

1868-1934 明治-昭和時代前期の農芸化学者。
慶応4年1月3日生まれ。明治28年農商務省農事試験場技師となり,大正10年九州帝大教授,15年総長。のち同志社大総長。土壌学,肥料学を研究し,土壌酸度測定法「大工原法」を確立した。昭和9年3月9日死去。67歳。信濃(しなの)(長野県)出身。帝国大学卒。旧姓は鈴木。著作に「土壌学講義」。

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367日誕生日大事典 「大工原銀太郎」の解説

大工原 銀太郎 (だいくはら ぎんたろう)

生年月日:1868年1月3日
明治時代-昭和時代の農学者。九州帝国大学総長;同志社大学総長
1934年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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