デジタル大辞泉 「大御所」の意味・読み・例文・類語
おお‐ごしょ〔おほ‐〕【大御所】
2 親王の隠居所。また、隠居した親王の尊称。
3 将軍の隠居所。また、隠居した将軍の尊称。江戸時代、特に徳川家康・
[類語](1)権威・第一人者・
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…そして鎌倉時代的な家督の場合は,一族一門の利益代表,利害関係の調停者という点に本質があったが,室町時代以降になると,とくに有力家の家督らは,一家の利益を守るため,公を無視した専制的性格を示すのがふつうであった。そしてそれは,しばしば大殿,大御所の尊称をもって呼ばれた。【鈴木 国弘】
[近世]
近世においては,主として家の経済的基礎となる財産すなわち家産を指して用いられたが,その相続人をも家督と呼ぶこともあった。…
…関ヶ原の戦で家康の覇権が成立すると秀吉支配下の一氏は移封され,家康譜代の内藤信成が駿府,大久保忠佐が沼津,天野康景が興国寺(駿東郡),酒井忠利が田中(藤枝)に配され,小藩分立となった。
[駿府の大御所]
1605年家康は将軍職を秀忠に譲り,駿府を退隠の地と定め,翌年には駿府城主内藤信成を近江長浜に移した。そして07年大名助役で拡張工事中の駿府城に入った。…
…1836年には甲斐の郡内騒動,三河の加茂一揆など数万の農民をまきこんだ一揆が勃発し,翌年には大坂で元町奉行所与力の大塩平八郎が貧民の救済を求めて乱を起こした。この事態に対して,水戸藩主徳川斉昭(なりあき)ら領主階級の一部は幕藩体制の危機ととらえていたが,幕府では将軍家斉(いえなり)が引退したものの大御所として隠然たる勢力をもち,大奥を中心に豪奢な生活を送り,改革を嫌い,太平の世の政治を続けていた。41年家斉が没すると,老中首座の水野忠邦は将軍家慶(いえよし)を擁して家斉側近派を追放し,幕政の改革を開始した。…
…この地位は1600年の関ヶ原の戦の後はますます強化されたが,なお〈世間後見〉という実力上のものにすぎず,名実ともに日本の統一的支配者となるには03年の天皇による将軍宣下が必要であった。 1605年には将軍職を秀忠に譲り,将軍が徳川氏に世襲されるべきものであることを天下に示すとともに,官位の束縛を受けない大御所として公家・寺社勢力を含めた全国支配の実権を握りつづけた。12年ごろから全国の公家,寺社,大名に朱印状を発給すべく準備を始めたが,実現しないうちに14年大坂の陣の開始によって中断。…
…諡(おくりな)は慎徳院。1797年(寛政9)世子(せいし)となり西丸に入り,1837年(天保8)将軍職に就いたが,政治の実権はなお大御所家斉にあった。41年家斉の死後,家斉の側近勢力を排して幕政を親裁し,老中水野忠邦を重用して天保改革をすすめた。…
…家康隠退後の住居の予定であったのであろう。家康自身は西丸には住まなかったが,2代秀忠以後は将軍隠居後の大御所,あるいは将軍世子(せいし)の居城として使用された。西丸の面積は6万8385坪(紅葉山,山里を含む)で,建坪6574坪(1852建設)の西丸殿舎が建っていた。…
※「大御所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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