大江美智子(読み)おおえみちこ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大江美智子」の意味・わかりやすい解説

大江美智子
おおえみちこ

俳優。


初代
(1910―1939)本名竹内静子。宝塚少女歌劇(現、宝塚歌劇団)へ入り、雪組のトップスターとなる。1930年(昭和5)に退団市川右太衛門(うたえもん)プロダクションに入り、『雁金(かりがね)文七』で映画デビュー。以後、「旗本退屈男(はたもとたいくつおとこ)」シリーズなどで右太衛門の相手役として人気を集めたが、1932年に退社して、興行師保良(ほら)浅之助の世話で女剣劇一座結成した。美貌(びぼう)と早替りを売り物にファンを広げていき、これとは対照的で男性的な魅力をもつ不二(ふじ)洋子(1912―1980)と互いに覇を競い、女剣劇ブームを巻き起こした。しかし、1939年に虫垂炎のため神戸の松竹座公演中に急死した。


2代
(1919―2005)本名細谷ヤエ。初代の内弟子として大川美恵子を名のった。初代が没した1939年、初代の父親で一座の演出を担当していた松浪義雄(まつなみよしお)の強い要望で2代目を襲名。しかし、若輩ゆえ古参座員からの圧迫が強く苦難が続いたが、1942年の浅草松竹座での現代劇『木霊(こだま)』で大衆演劇コンクールの第1位を獲得するまでになった。第二次世界大戦中は、女剣劇は不健全な芸能とみなされて当局干渉を受けた。戦後は一時ストリップショーの攻勢に押されるなどしたが、1950年代後半あたりからしだいに人気を取り戻し、東京浅草を中心に各地の大劇場を賑(にぎ)わした。先代譲りの早替りを得意とし、『雪之丞変化(ゆきのじょうへんげ)』『若衆七変化』などの傑作がある。1956年芸術祭奨励賞を受賞。1965年に本拠地の浅草・常盤座(ときわざ)が映画館に転向したため各地の劇場を巡演するようになり、1970年1月浅草・東洋劇場に出演したのを最後に一座を解散した。その後は単身でゲスト出演するかたわら日本舞踊の指導にあたった。

[向井爽也]

『大江美智子著『女の花道――早替り女剣劇一代記』(1982・講談社)』

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「大江美智子」の解説

大江 美智子(2代目)
オオエ ミチコ


職業
女優 日本舞踊家

肩書
猿若流名取

本名
細谷 ヤエ

別名
名取名=猿若 清風,花柳 寿鳳美

生年月日
大正8年 2月20日

出生地
神奈川県 横浜市南区南太田町

学歴
三吉尋常小〔昭和8年〕卒

経歴
父は足袋職人で、4人きょうだいの二女(3番目)。小学校卒業後、製糸工場に勤めていたが、昭和9年女剣劇の初代大江美智子の舞台をみて憧れ、大江に入門。内弟子となって大川美恵子を名乗り、容姿が似ていたことから早変わりの吹き替えに抜擢された。14年3月初代が急死すると、劇団存続のため2代目を襲名。不二洋子、伏見澄子と“女剣劇三羽烏”と称され、華麗さと気品のある色気、エログロに流れない誠実な演技で人気を博した。初代同様、1人で何役もこなす早替わりを得意とし、当たり狂言は「雪之丞変化」「若衆七変化」。45年3月緑内障で失明を宣告されたため、「男の花道」を最後の公演に一座を解散。その後は、横浜の自宅で日本舞踊を教える傍ら、48年頃までフリーで単独出演した。自伝に「早替り女剣劇一代記 女の花道」がある。

受賞
芸術祭奨励賞(大衆演劇部門)〔昭和31年〕「五木の子守唄幻想」「天一坊」

没年月日
平成17年 (2005年)


大江 美智子(初代)
オオエ ミチコ


職業
女優 女剣劇役者

本名
竹内 静子

生年月日
明治43年 2月11日

出生地
大阪府 大阪市北区曽根崎

学歴
宝塚音楽歌劇学校卒

経歴
宝塚少女歌劇に入り、雪組のトップを経て、昭和5年退団。右太衛門プロダクションに入り、冬島泰三監督「雁金又七」で映画デビュー。以後「旗本退屈男」シリーズなどで市川右太衛門の相手役として人気をあげる。7年退社。8年女剣劇に転向して大江美智子一座を結成、不二洋子と共に空前の女剣劇ブームを巻きおこす。当たり狂言は「雪之丞変化」「奴の小万」など。14年神戸の松竹劇場で公演中に急死した。

没年月日
昭和14年 1月6日 (1939年)

伝記
松竹チャンバラ黄金時代 戦前篇―石割平コレクション 石割 平 編・著,円尾 敏郎 編(発行元 ワイズ出版 ’01発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「大江美智子」の解説

大江 美智子(1代目)
オオエ ミチコ

大正・昭和期の女優,女剣劇役者



生年
明治43(1910)年2月11日

没年
昭和14(1939)年1月6日

出生地
大阪府大阪市北区曽根崎

本名
竹内 静子

学歴〔年〕
宝塚音楽歌劇学校卒

経歴
宝塚少女歌劇に入り、雪組のトップを経て、昭和5年退団。右太衛門プロダクションに入り、冬島泰三監督「雁金又七」で映画デビュー。以後「旗本退屈男」シリーズなどで市川右太衛門の相手役として人気をあげる。7年退社。8年女剣劇に転向して大江美智子一座を結成、不二洋子と共に空前の女剣劇ブームを巻きおこす。当たり狂言は「雪之丞変化」「奴の小万」など。14年神戸の松竹劇場で公演中に急死した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大江美智子」の解説

大江美智子(2代) おおえ-みちこ

1919-2005 昭和時代の舞台女優。
大正8年2月20日生まれ。昭和9年初代大江美智子の弟子となり,大川美恵子を名のる。14年2代をつぐ。17年浅草に進出し,不二洋子とならんで女剣劇の人気をたかめる。「雪之丞変化」などの早変わりを得意としたが,45年一座を解散した。平成17年7月死去。86歳。神奈川県出身。本名は細谷ヤエ。

大江美智子(初代) おおえ-みちこ

1910-1939 昭和時代前期の舞台女優。
明治43年2月11日生まれ。宝塚少女歌劇から,昭和5年市川右太衛門プロにはいり,「旗本退屈男」の男役で当たりをとる。8年女剣劇大江美智子一座を結成,女剣劇ブームをおこしたが,昭和14年1月6日急死した。30歳。大阪出身。宝塚音楽歌劇学校卒。本名は竹内静子。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大江美智子」の意味・わかりやすい解説

大江美智子(1世)
おおえみちこ[いっせい]

[生]1910.2.11. 大阪
[没]1939.1.6. 神戸
剣劇女優。本名竹内静子。宝塚少女歌劇 (→宝塚歌劇団 ) の娘役でデビューしたのち,時代劇映画の俳優市川右太衛門に望まれ,1930年右太プロへ入社。あらゆる役柄をこなして人気を集めた。 33年女剣劇の座長となり大阪で旗揚げ,以来不二洋子と並んで 1930年代の女剣劇隆盛の一翼をになったが,神戸松竹劇場の舞台で急性盲腸炎のため倒れ,急逝した。

大江美智子(2世)
おおえみちこ[にせい]

[生]1919.2.20. 横浜
剣劇女優。本名細谷ヤエ。 1934年1世大江美智子の内弟子となって大川美恵子を名のる。 39年,1世の急死により2世を襲名。先代譲りの代表作『雪之丞変化』で2役早変りの回数をふやすなどして人気を高めた。 1950年代なかばに始る女剣劇復興期には意欲的な新作を上演,大劇場にも進出したが,視力が衰えたため 70年3月の京都南座公演を最後に一座を解散した。

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367日誕生日大事典 「大江美智子」の解説

大江 美智子(初代) (おおえ みちこ)

生年月日:1910年2月11日
大正時代;昭和時代の女優
1939年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大江美智子の言及

【剣劇】より

…第2次世界大戦後は民主思想の発達に伴い一時は急速に影を薄めたが,昭和20年代の後半にはまたかなり行われるようになった。なお,剣劇の全盛期に派生的所産として〈女剣劇〉が生まれたが,弱いとされている女性が主演して,女装あるいは男装して剣をふるって多くの男性を斬り倒すところにやや倒錯的な興味をひき,不二洋子,2代にわたる大江美智子(初代は1939年に病死,2代は1919年生れ),伏見直江,富士嶺子,筑波澄子,浅香光代(1931‐ ),中野弘子らの女剣劇一座を輩出させた。戦後はむしろ,この女剣劇が剣劇の劇団を代表するような形で人気を集めていたが,高度成長期とともに衰え,現在では一つのジャンルとしてはほとんど消滅しているといってよい。…

※「大江美智子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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