大瀬谷村(読み)おおせだにむら

日本歴史地名大系 「大瀬谷村」の解説

大瀬谷村
おおせだにむら

[現在地名]球磨村大瀬おおせ

西流してきた球磨川が中流域で北流し始める起点に位置し、通称清正公せいしようこう岩のために大きく蛇行、北と東は神瀬谷こうのせだに村、南と西は球磨川を挟み一勝地谷いつしようちだに村と熊本藩領葦北あしきた郡と接する。建久二年(一一九一)五月三日の良峯師高所領譲状案(平河文書)に「一所 同郡同庄之内尾瀬之村」としてみえ、永吉ながよし庄に属し、「さつし十束、くす五升、いた五十」の山川産物が上納されていた。

慶長国絵図では「大瀬村」として一九石八斗余とされるが、寛永一一年(一六三四)郷村高辻帳では、大瀬谷として本田高二四石八斗余・新田畑高七〇石二斗とある。

大瀬谷村
おおせだにむら

[現在地名]婦中町大瀬谷

和田わだ川最上流で、下流北西葎原むぐらはら村、北東牛滑うしなめり村。周囲の渓谷より多くの瀬がこの地に集まり、もと多瀬谷と称したと伝える(婦負郡志)正保郷帳では高八三石余、田方二町・畑方三町五反余。享保六年(一七二一)の高一〇二石余(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高九八石余・定免四ツ三歩三厘、小物成は山役二八匁七分七厘・蝋役一匁七分五厘(高物成品々手鏡)。近くに水請高一五石の山神堤があり、享保一五年三石余の永引高があった(「富山藩高物成帳」斎藤家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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