大谷地村(読み)おおやちむら

日本歴史地名大系 「大谷地村」の解説

大谷地村
おおやちむら

[現在地名]白河市豊地とよち弥次郎窪やじろうくぼ

白河城下北方約二キロ、阿武隈川の支流高橋たかはし川上流部に位置する。白河城下より会津若松城下に通じる白河街道(会津街道ともいう)沿いの最初の村で、大谷地新田村ともみえる。村の南東水田が広がる。村の長さ南北一町一七間。寛文一二年(一六七二)写の六郡絵図(須賀川市立博物館蔵)には「新小萱之内大谷地村」と記され、江戸時代初期には東方の新小萱にこがや村の一部であった。本村の北に端村二枚橋にまいばし新田があり、「白河風土記」によれば、享和年間(一八〇一―〇四)大里おおさと(現天栄村)の吉右衛門が開墾したという。

大谷地村
おおやちむら

[現在地名]下田村大谷地

五十嵐いからし川上流域の河岸段丘面に立地。北は南五百川みなみいもがわ村。正保国絵図に村名がみえる。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では一二〇石六斗余・家三〇戸。文化一一年(一八一四)の森町組家数書上帳(金子泰夫氏蔵)は「家数五拾軒、内壱軒村役も相勤不申男之壱人もの小屋すまへ外ニ三軒肝煎組頭等除ク」と記す。元治元年(一八六四)の「越後土産」は特産物として下田大谷地紙をあげる。元和六年(一六二〇)の当村肝煎六兵衛紙方肝煎任命の覚(明治三年「大谷地村紙漉立由来」金子泰夫氏蔵)に「其方儀此度紙方肝煎ニ被仰付候」とあり、村上藩堀氏時代に御用紙制度が整備されたことがわかる。

大谷地村
おおやじむら

[現在地名]福島市笹谷ささや

松川左岸にあり、北と西は下大笹生しもおおざそう村、東は北沢又きたさわまた村、南の松川対岸は南沢又村。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録信夫しのぶ「大やちの内、すけ原在け」とあり、大石備後に安堵されている。近世村としての成立時期は米沢藩領時代の末とみられるが、前田まえだ熊野神社の由緒書に、元和年間(一六一五―二四)上杉氏の給人が当地の開墾にあたり、その成功を祈願して熊野大権現の社を建立したとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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