中国におけるイエズス会を中心とした旧教(ローマ・カトリック)の総称。神の訳語として〈天主〉を用いて,天主教,天主公教と称した。中国に渡来したキリスト教としては,唐代の景教,元代の也里可温教などがあるが,組織的に伝道活動を展開し,中国の宗教界,学術界に大きな影響を与えたのは,イエズス会のマテオ・リッチ(中国名は利瑪竇(りまとう))が1582年(万暦10)に来た明代末期以後のことである。
リッチは,鎖国体制をしき中華意識の強い中国で多大の困難にあいながらも中国の言語,習慣,儒教の学問などを学習して,中国知識人の信頼をかちえ,さらに西欧ルネサンスの自然科学の知識を活用して,尊敬をかちえていった。彼は中国人のよき協力者を得て,22種に及ぶ自然科学書・宗教書を中国語に翻訳した。その中で中国人の地理感覚に衝撃を与えた《坤輿(こんよ)万国全図》,ユークリッド幾何学を紹介した《幾何原本》などの自然科学書は西欧,キリスト教文化の卓越性を強調して中国人の尊敬を得るための方便であるが,彼の主著は中国で刊行された伝道書の白眉ともいうべき《天主実義》である。これは中士と西士の問答体により,中西の学術思想,信仰体系の相違を際だたせてキリスト教信仰に導こうとするもので,ここで儒仏道三教が宗教として不全未熟であること,中国の社会慣習が天主教に背いていること,とくに中国人には絶対的救済者の観念が欠落しており,自力で自己救済しようと説くのは人間が神によってそのように創造されてはいないことを知らないからである,などと鋭く批判する。このような考え方は後の天主教徒に通有のものである。
しかしイエズス会は中国に布教する際に,適応主義の方針をとって,中国の習慣と衝突することをできるだけ回避した。これに対して西欧における布教方針を直截に採用したドミニコ派,フランチェスコ派と,布教方法をめぐって激しく対立した。例えばイエズス会では,《書経》《詩経》にみえる〈上帝〉を天主と同義と解釈した。そこで,上帝を天と同義と解釈する中国奉教士人は,天主=上帝=天と解釈してキリスト教に入信し,キリスト者として生活することを〈上帝に事(つか)える〉ものと理解して,このイエズス会の天主=上帝論が上帝=天論に横すべりしてキリスト教の本旨がくらまされてしまうことにドミニコ派,フランチェスコ派は強く反対し,〈上帝〉を天主の意味で用いることの禁止を訴えた。また,祖先崇拝,孔子崇拝,世俗権力との関係などをめぐって,ローマ教皇,清朝皇帝をまきこんで激しい論争を展開した。いわゆる典礼問題である。1723年(雍正1)雍正帝は禁教令をもってこの争いに決着をつけた。イエズス会の中国文化史に果たした役割は,布教活動と並んで西欧の学問,自然科学の成果を大量に中国に紹介したことである。中国側では奉教士人をも生むが激越なキリスト教反対者をも生み(仇教運動),その論調は《本朝破邪集》に総集されている。
→イエズス会
執筆者:吉田 公平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
キリシタンの呼称の一つ。中国・朝鮮などではマテオ・リッチの「天主実義」(1601または03刊)から一般化したとされるが,日本ではそれより早く16世紀末から用いられた。教会側は天主では誤解を招く危険が大きいとして使用したがらなかったが,幕末再伝では教会をみずから天主堂と称し,明治期以降天主教が定着した。
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