太田 操(読み)オオタ ミサオ

20世紀日本人名事典 「太田 操」の解説

太田 操
オオタ ミサオ

昭和期の社会運動家 日本赤色救援会中央財政部員。



生年
明治37(1904)年1月1日

没年
平成8(1996)年3月22日

出生地
大分県

旧姓(旧名)
椎原

別名
筆名=近藤

学歴〔年〕
大分県立高等女学校卒

経歴
上京し、新潮社の「婦人の国」記者となる。のち同郷の作家林房雄の薦めで前衛座演劇研究所に入るが、間もなく同座から分離したプロレタリア劇場に所属。次いで日本プロレタリア芸術連盟の結成に参画し、書記に選ばれた。この時、同連盟の中央常任委員であった太田慶次郎を知り、結婚。昭和3年夫や徳田球一らと共に超党派の解放運動犠牲者救援会を組織、その常任委員として救援活動に従事した。5年には国際赤色救援会(のち日本赤色救援会)に加わり、中央財政部員・中央救慰委員として活躍するが、同年4月に検挙された。出獄後も救援会の活動を続け、7年には日本共産党に入党。戦後は静岡県伊東に移り、夫の政治活動を支えた。また、「アララギ」派に所属する歌人としても著名

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「太田 操」の解説

太田操 おおた-みさお

1904-1996 昭和時代の社会運動家。
明治37年1月1日生まれ。太田慶太郎の妻。「婦人の国」記者,前衛座研究生をへて,日本プロレタリア芸術連盟書記となる。昭和3年夫らと解放運動犠牲者救援会を組織し,救援活動につとめる。7年共産党に入党。平成8年3月22日死去。92歳。大分県出身。大分高女卒。旧姓は椎原。筆名は近藤操。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例