基本情報
面積=3691.09km2(全国40位)
人口(2010)=140万0728人(全国29位)
人口密度(2010)=379.5人/km2(全国14位)
市町村(2011.10)=12市15町12村
県庁所在地=奈良市(人口=36万6591人)
県花=ナラノヤエザクラ
県木=スギ
県鳥=コマドリ
近畿地方中央部に位置し,三重県,和歌山県,京都府,大阪府に囲まれた内陸県。
沿革
県域はかつての大和国全域にあたる。江戸時代末期には郡山藩をはじめ,高取,小泉,櫛羅(くしら),芝村,柳生,柳本の各藩と,奈良をはじめとする天領,興福寺,春日大社などの寺社領が入り組んでいた。1868年(明治1)大和鎮台が置かれて旧天領を管轄,その後大和鎮撫総督府,奈良県,奈良府と変わったが,翌年奈良県に戻され,また68年には田原本(たわらもと)藩が立藩し,70年には吉野・宇智両郡を管轄する五条県が置かれた。71年廃藩置県によって藩はそれぞれ県となったが,同年これら10県は統合され,大和全域を管轄する奈良県が成立した。しかし76年堺県(和泉)に併合されていったん消滅,さらに81年には堺県の廃県に伴い大阪府に併合されたが,87年大和地方が分離して奈良県が再置され,現在に至っている。
奈良県の遺跡
縄文時代の遺跡としては,まず木津川水系で早期~後期の集落遺跡である大川(おおこ)遺跡(山辺郡山添村),大和川水系では縄文後・晩期および弥生~平安時代の集落遺跡の橿原(かしはら)遺跡(橿原市)と中期末~後期前半の天理式土器の標式遺跡である布留(ふる)遺跡(天理市),吉野川水系では縄文~奈良時代の複合遺跡である宮滝遺跡(吉野郡吉野町)と晩期の集落遺跡である丹治(たんじ)遺跡(吉野町)などがある。
弥生時代の遺跡では唐古(からこ)遺跡(磯城郡田原本町)が著名。奈良盆地中央部にある集落遺跡で,畿内弥生式土器の編年研究の基準となった。纏向(まきむく)遺跡(桜井市)は弥生~平安時代の集落址だが,ことに弥生~古墳時代の土器の変遷や古墳の出現を考えるうえで重要な遺跡である。この近くにある箸墓(はしはか)古墳(桜井市)は全長278mの前方後円墳で三輪山麓の大型前方後円墳中最古とされ,ここの前方部から出土した壺は桜井茶臼山古墳(桜井市)の後円部頂上に方形に配置されていた有孔のそれに類似する。いずれも代表的な前期古墳。柳本古墳群(天理市)は時期的にこれに次ぎ,〈景行陵〉〈崇神陵〉など約35の前方後円墳を含む。前期中葉を中心とし,初期大和政権の首長墓を含むと考えられる重要な古墳群である。前期後半の前方後円墳佐味田宝塚古墳(北葛城郡河合町)は,中期の巣山古墳(広陵町)などとともに馬見(うまみ)古墳群を形成する。新沢千塚(にいざわせんづか)(橿原市)は5世紀を中心とする大古墳群。佐紀(さき)古墳群(奈良市)は〈日葉酢媛(ひはすひめ)陵〉や〈神功皇后陵〉などを含み,前期末葉に中心をもつ西群と,ウワナベ古墳や〈磐之媛(いわのひめ)陵〉などを含む中期を中心とする東群からなる。金錯銘をもつ鉄刀を出土した東大寺山古墳(天理市)や,方墳の五条猫塚(ねこづか)古墳(五条市),前方後円墳の宮山古墳(御所市)も著名である。見勢丸山(みせまるやま)古墳(橿原市)は全長318mと前方後円墳としては県内最大であるばかりでなく,後期のそれとしては日本最大でもある。全長26.2mの横穴式石室も日本で最大規模。八角形墳の牽牛子塚(けごしづか)古墳,壁画で有名な高松塚古墳,それにマルコ山古墳などはいずれも高市郡明日香村にある7世紀代の終末期古墳。同じ明日香村の石舞台古墳は巨大石室が露出し,方墳または上円下方墳の可能性が強い。またやはり明日香村の鬼の俎(まないた),鬼の厠(かわや)などの石造物もこの時期の石槨である。三輪山祭祀遺跡(桜井市)は三輪山を対象とする5~6世紀を中心とする祭祀遺跡。
歴史時代では飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)址(明日香村),藤原京址(橿原市),平城京址(奈良市)などの宮殿址や都城址,飛鳥寺址(明日香村),山田寺址(桜井市),川原寺(かわらでら)址(明日香村)などの寺院址など重要な遺跡は枚挙にいとまがない。太安麻呂墓(奈良市)は墓誌の出土で知られ,金峰山(きんぷせん)経塚(吉野郡天川村)は平安~鎌倉時代にわたる経塚群。
→大和国
執筆者:狐塚 裕子
北と南の対照
奈良県の地形は,ほぼ中央を東西に走る中央構造線によって北半部の内帯と南半部の外帯に分けられる。北半部が主として平地と丘陵性の山地からなるのに対して,南半部は壮年山地からなるという対照をみせる。北半部の中央には地溝性の奈良盆地が開け,周辺には東に笠置山地(大和高原),西に生駒山地,金剛山地など,主として花コウ岩からなる標高400~600m程度の丘陵性の山地が南北に連なる。奈良盆地は日本の古代史の主舞台で,6世紀末からの100余年間,南東部の飛鳥・藤原地区に初期の宮都が置かれ,続いて北部の現在の奈良市に710年(和銅3)平城京が営まれ約70年間繁栄した。盆地には京都と結ぶ南北方向の道のほか難波や中京方面と結ぶ東西方向の道も発達し,古代からその交流は盛んであった。一方,南半部は紀伊山地中北部の吉野山地で,標高1400~2000mの山地と深い谷からなり周囲からの隔絶性が高く,最高部の大峰山周辺は中世以来西日本の修験道の根本道場として知られる。気候的にみても南北の対照は著しい。北半部のとくに奈良盆地は温暖寡雨の瀬戸内式気候に属しているが,海洋から離れているため寒暑の差の激しい内陸性気候を示す。夏の平均気温は27~28℃,冬は3~4℃で年較差が大きく,降水量は1400mm内外と少ない。一方,南半部の吉野山地は山岳気候であり,夏は20~24℃,冬は0~3℃と冷涼で,降水量は2000~4000mm以上,大台ヶ原山南東斜面はことに3500~5000mmの多雨地域として知られる。
このような地形上,気候上の南北の対照は,植生などの自然的な面はもとより,産業や開発,さらに民家などの人文的景観においても大きな影響を与えてきた。寡雨の北半部には大和川などが流れるが,流量が少ないためかつては1万以上の灌漑用の溜池や,多くの横井戸,かくし井戸がみられた。雨の多い南半部では,吉野川上流に津風呂ダム(1962完成),大迫ダム(1973完成)をつくって貯水し,灌漑期に導水トンネル(1956完成)を通して奈良盆地へ引水する吉野川分水事業が進められ,1984年までに奈良盆地のほぼ全域に灌漑用水がゆきわたるようになった。また民家の様式においても対照的で,奈良盆地では草屋根の両切妻を白壁のしっくいで塗りかため,冬の乾燥期の火災防止の意図がみられる大和棟が特徴的であったのに対し,吉野山地では急な傾斜面に石垣を築き,表からは1階,裏からは2階,3階とみえるような吉野造が特徴的である。北と南の対照はさらに奈良盆地を中心とする農業地域と吉野山地の林業地域,人口の過密と過疎,交通網の整備と未整備などの点においても指摘することができる。
奈良盆地の変容
近世の奈良盆地には奈良,郡山,八木,三輪などの都市が繁栄していたが,明治維新の際,神仏分離と廃仏毀釈(奈良),城郭廃止(郡山)などによって衰退した。その後,奈良博覧会社の設立,奈良公園の開設などの事業が進められ,奈良は観光地として復興していった。1890年関西本線の湊町~奈良間が開通して大阪方面と結ばれ,99年までには和歌山線,桜井線が全通して奈良盆地の主要都市を連ねる環状線が完成した。明治末以降,電気鉄道の敷設が盛んとなり,1914年生駒トンネルが完成して近鉄奈良線が開通したのをはじめ,昭和初期までに同橿原(かしはら)線,南大阪線,吉野線などが開通した。第2次大戦前まで農林業と墨,筆などの伝統工業のほかに目だった産業のなかった奈良県の人口は50万人台にとどまっていた。1950年代に具体化された吉野川分水事業の進展によって奈良盆地の水不足は緩和され,かつての水田二毛作地域は野菜,果樹,花卉などの近郊農業地域に急速に変わった。一方,60年代以降都市化,工場地化が進んで耕地が減少し,県全体で兼業農家はすでに1981年には約90%にまで増加し,第2種兼業農家は全農家数の約76%を占めている(1995)。関西本線の複線化や高速道路の建設など交通体系の整備に伴って県北部で宅地開発が始まり,奈良盆地全域,生駒山地,金剛山山麓部などに大規模な新興住宅地の建設が進んだ。人口は1975年に100万人を超え,95年には143万人にも達している。90-95年の人口増加率4.0%は埼玉県の5.5%,滋賀県の5.3%,千葉県の4.4%,沖縄県の4.2%に次ぐ高率で,奈良盆地とその周辺の景観は著しく変わっている。
伝統工業と近代工業
奈良県の産業には古い伝統をもつ墨,筆,漆器,奈良人形,赤膚(あかはだ)焼など,社寺の器物や仏師の余業にかかわるものが多く,現在でも墨は全国の約9割,筆は約4割の産額を上げている。また桜井市一帯でつくられている三輪そうめんは奈良盆地南東部の地形と気候条件に適しており,1000年以上の歴史をもっている。
ほかにも大和の風土にとけこんだ物産は多く,しかもその大部分が現在まで姿を変えつつも継承されている。役行者(えんのぎようじや)が作ったとされる陀羅尼助(だらにすけ)の系統を引く製薬業は,御所(ごせ)市,高取町で盛んであり,単なる配置薬を脱して近代的製薬会社に成長している例が多い。また吉野山地の杉のみがき丸太や杉,ヒノキ製のはし,下市町の割りばし,生駒市の茶筅,奈良市の奈良酒,奈良漬,大和郡山市のキンギョ養殖なども全国的に名を知られている。近世に盆地内で栽培された麻,ワタから発達した奈良晒(さらし)や大和絣(かすり),奈良蚊帳(かや)などの麻・綿織物業は,明治30年代に本格的に工業化が進んで,大和郡山市や大和高田市の綿糸紡績,メリヤス工業,北葛城郡の靴下工業,奈良市の布団工業などに転化している。また1963年に始まった県の新総合開発計画が進展するにしたがい,大和郡山市などに機械,金属,電気機器などからなる工業団地の進出が目だつ。県の製造品出荷額の割合は一般機械が23%,電気機器が17%など(1995)である。
国中,西山中,東山中,奥,南山の5地域
奈良県は中央構造線を境に北部と南部に二分されるが,さらに自然条件や歴史,産業,商圏の違いも考えあわせて北部を国中(くんなか)(奈良盆地),西山中(にしさんちゆう)(生駒・金剛山地),東山中(笠置山地),奥(宇陀・竜門山地)に四分し,これに南部の南山(なんざん)(吉野山地)を合わせて5地域とする。
(1)国中 奈良盆地のほぼ全域にあたり,面積は県域の約1/10にすぎないが,古代以来大和国随一の平地として中心的な地位を占めてきたため,現在もこの称がある。県庁所在地の奈良市のほか,橿原市,大和郡山市,天理市,桜井市および田原本町など県の主要都市の大部分の面積が含まれる。四周を丘陵と山地に囲まれ,〈青垣 山ごもれる〉の表現がふさわしい。盆地は寡雨地域にありながら,河川の堆積作用が現在も続いているため洪水多発の地域でもある。県の交通網はこの地域に著しく集中し,人口密度も他地域に比べて圧倒的に高く,農業,工業,商業などの面でも県の中心地域をなす。また平城宮址などの史跡や古墳,東大寺,春日大社などの古社寺の集中が著しく,京都と並んで四季を通じて観光客が多い。
(2)西山中 奈良盆地西側の山地部にあたり,大和川によって北の生駒山地と南の金剛山地に分けられる。生駒市全域,御所市の大部分,奈良市,大和郡山市,大和高田市,五条市,香芝市,葛城市の各一部のほか周辺の町村を含む。両山地とも大阪の市場に近いため施設園芸による花卉や野菜栽培が行われているが,1960年以降の宅地開発の進展に伴って兼業農家や離農が著しく増加している。人口も1990-95年の間に大和高田市8.2%,生駒市7.2%,香芝市7.4%とかなりの伸びをみせている。山地の尾根筋は金剛生駒国定公園に指定されている。
(3)東山中 奈良盆地の東側,大和高原とも呼ばれる笠置山地の範囲で,奈良・天理・桜井各市の東部,山辺郡の全域および宇陀市の一部が含まれる。小起伏の丘陵と谷がひろがり,水稲,茶の栽培や野菜の抑制栽培が行われる。この地域の商圏は奈良・天理・桜井各市のほか三重県の上野市(現,伊賀市),名張市にも属している。
(4)奥 笠置山地南側の宇陀山地とその西に続く竜門山地からなり,宇陀市の一部と宇陀郡の全域,高市郡,吉野郡の一部の町村が含まれる。県北半部の中では山村的性格の強い地域で,林業や茶,野菜の抑制栽培などが行われ,木材の集散地である桜井市の商圏に属する範囲が広い。名張街道の周辺は室生赤目青山国定公園に指定されている。
(5)南山 吉野山地の範囲にあたり,五条市の大半と吉野郡のほぼ全域が含まれる。細分すれば口吉野地区(吉野川流域),奥吉野西部地区(十津川流域),奥吉野東部地域(北山川流域)に分けられる。〈近畿の屋根〉と呼ばれるのにふさわしく深いV字谷の卓越する壮年期の山地が広がる。森林の生育に適した自然条件にあり,近世以来良質の吉野材が商品として注目され,林業地域として知られる。木材はかつては吉野川,北山川,十津川で流送されたが,明治以降の林道の開設と整備,1950年代以降の電源開発によるダム建設の進展によりトラック輸送に代わった。また十津川流域などではダム築造によって耕地,宅地などが水没し,隔絶性の強かった山村地域が大きく変わりつつある。大台ヶ原山,大峰山一帯は吉野熊野国立公園,西端の護摩壇山周辺は高野竜神国定公園に指定されている。
執筆者:高橋 誠一