5層6階の大天守と三つの小天守などがあり、国宝に指定されている。1601年から城主
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南北朝期~江戸期の城。兵庫県姫路市本(ほん)町にあり、白鷺(しらさぎ/はくろ)城ともよばれる。姫路平野の中央、高さ45メートルの姫山を本丸とした平山城(ひらやまじろ)の典型である。城の歴史は古く、1331年(元弘1)の元弘(げんこう)の乱のとき、播磨(はりま)守護赤松則村(あかまつのりむら)が陣を構えたのに始まり、1346年(正平1・貞和2)則村の子貞範(さだのり)が築城したと伝えられる。赤松氏は目代(もくだい)として小寺(こでら)氏を置いてこの城を守らせた。嘉吉(かきつ)の乱(1441)後、一時山名持豊(やまなもちとよ)(宗全(そうぜん))が入ったこともあるが、1545年(天文14)小寺氏が御著(ごちゃく)城に移ってからは、その臣黒田氏が拠(よ)っていた。1580年(天正8)に羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉が毛利(もうり)氏との戦いの拠点として本格的に改修し、三層の天守閣を築いた。これが現在の姫路城の始めである。天守閣解体修理のとき、現在の大天守の石垣の中から一回り小さい石垣が発見され、秀吉時代の天守閣が同じ位置にあったことが確認されている。しかし、今日みるような建物が建てられ、現在のような規模に拡張されたのはもうすこしあとで、1600年(慶長5)池田輝政(てるまさ)が姫路に入ってからであった。輝政は徳川家康の女婿ということもあり、播磨のほかに備前(びぜん)、淡路(あわじ)を領する大々名として本格的な近世城郭に大改修することを計画した。入封の翌1601年に着工し、9年の歳月をかけて完成したものである。城の曲輪(くるわ)配置は本丸、二の丸、三の丸、西の丸などからなり、内郭、中郭にそれぞれ堀を巡らして螺旋(らせん)形に配しているのが特徴といえる。天守閣をはじめ櫓(やぐら)、門など往時の建造物がほとんど残っており、日本一の城郭遺構で、築城技術がもっとも進歩した慶長(けいちょう)時代の逸品といえる。天守閣の完成したのは1609年で、そのあと1617年(元和3)に池田光政(みつまさ)が鳥取へ転封し、桑名(くわな)より本多忠政(ほんだただまさ)が入り、さらに松平(奥平)、松平(結城(ゆうき))、榊原(さかきばら)、松平(結城)、本多、榊原、松平(結城)と入れ替わり、1749年(寛延2)酒井忠恭(ただずみ)が前橋より転封され、以後明治維新まで世襲した。
姫路城の建造物は、わが国にある城の建造物としては群を抜いて多く、国宝として大小天守4棟と渡櫓(わたりやぐら)4棟、重要文化財として櫓16棟、渡櫓11棟、門15棟、塀32棟がそれぞれ指定を受けている。天守閣は連立式で、大天守、西小天守、乾(いぬい)小天守、東小天守の大小四つからなり、とくに大天守は、高さが33メートルにも及び、外観5層、内部7階の大規模なもので、現存天守としては最大規模を誇っている。国宝および重要文化財として指定されているものに、折廻(おりまわし)櫓、井郭(いぐるわ)櫓、帯の櫓、帯郭(おびぐるわ)櫓、太鼓櫓、化粧櫓のほか、イロハの記号がつけられた渡櫓および櫓があり、また、二の丸大手門である菱(ひし)の門をはじめ、いろはの記号がつけられた門もたくさんある。そのうち、「るの門」はトンネル式の埋門(うずみもん)である。
西の丸にある通称「百間廊下」は、他の城にみられない独特のもので、化粧櫓を起点とし、ヌ、ル、ヲ、ワの櫓と、カ、ヨ、タ、レの渡櫓を連ねたもので、単なる廊下ではなく、廊下の内側に20余の部屋ができているのが特徴である。1993年(平成5)、姫路城は世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[小和田哲男]
兵庫県姫路市本町の姫山にある城郭。天守,櫓などの建築群を今に遺すことで名高い。国宝で,1993年世界文化遺産に登録された。起源は1346年(正平1・貞和2)赤松貞範が姫山に城を築いたことに始まる。近世の築城は,1580年(天正8)に当時の城主黒田孝高(如水)が,毛利氏と戦うべく西下した羽柴秀吉にこの城を明けわたし,秀吉の居城として普請したのに始まる。秀吉の後もその親族が城主であったが,関ヶ原の戦後,徳川家康はここに池田輝政を封じ,西国大名に備えた。輝政は大天守,小天守,渡櫓(わたりやぐら)などからなる天守群を1609年(慶長14)までに完成させるなど,大規模な改修工事を行った。現存の天守はこのときのものである。大天守は秀吉時代の三重天守の位置に建てられ,小天守建造には古材も使われた。現存の石垣にも輝政築城以前の部分がある。また,大手門から天守に至る複雑な縄張も黒田孝高の縄張を踏襲している可能性がある。天守は外観5重,内部6階,地下1階で,完成当時の天守は江戸城を除くと最大規模であった。平面の中央部に2本の大通柱(とおしばしら)を立てた構造は,織田信長の安土城天主のやり方を模したものであろう。天守をはじめ建築はすべて白漆喰(しつくい)の総塗籠(ぬりごめ)で,屋根は軒平瓦にいわゆる朝鮮瓦を用い,瓦の重なり目にも漆喰を塗る。これは沖縄などの民家に今も見られるやり方である。白鷺(しらさぎ)城と称される由来は屋根まで白い建築群の優美さによるのであろう。家康死後の1617年(元和3)に,池田氏に代わって本多忠政がここに封じられた。その際,忠政は西の丸を整備し,長男忠刻(ただとき)とその妻千姫(もと豊臣秀頼室)の居館とした。
執筆者:宮上 茂隆
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(2014-6-4)
白鷺(しらさぎ)城とも。兵庫県姫路市にある近世の平山城。1346年(貞和2・正平元)赤松貞範が築城したのが最初とされるが,良質の史料では確認できない。その後城主は小寺氏,黒田氏と続く。1580年(天正8)豊臣秀吉が入り,3層の天守を築いた。1600年(慶長5)関ケ原の戦の戦功で池田輝政が入って新しく普請を始め,現存の5層の連立式天守を築造。池田氏ののち本多忠政が城主となり西丸を築造,現在の規模となった。姫山を本丸・二の丸とし,隣の鷺山を西丸,南側平野部を三の丸とする。城主の居館は本多氏のときから三の丸にあった。城下町は町屋すべてを外堀で囲む総構(そうがまえ)である。天守部分は国宝,中郭以内は国特別史跡。1993年世界文化遺産に指定。
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… 1600年代に入ると建築や美術の数もましてくる。彦根城,姫路城のような桃山天守建築が出現する。障壁画の分野では,当時における金銀の産出量の増加を反映して,金銀の箔や泥をより豊富に用いる傾向が見られ,障壁画は文字どおり黄金時代に入ったかの感がある。…
…国司四等官のうち大国にのみ置かれる大目(だいさかん)が712年(和銅5)に播磨国にいるので(《続日本紀》),8世紀初めより大国であったことがわかる。国府は《和名抄》によれば飾磨郡にあり,所在地はいまの姫路市で,姫路城の東または南東部と推定される。国名は《古事記》《旧事本紀(くじほんぎ)》等に〈針間〉と記され,播磨の表記が一般化するのは710年ころ以後である。…
※「姫路城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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