安藤直次(読み)あんどうなおつぐ

改訂新版 世界大百科事典 「安藤直次」の意味・わかりやすい解説

安藤直次 (あんどうなおつぐ)
生没年:1554-1635(天文23-寛永12)

江戸前期の武将徳川頼宣付家老で紀州田辺領主。3万8000石余を領す。父は杢之助基能。三河国に生まれ,幼名千福丸,彦四郎,のちに彦兵衛。家康側近として信望厚く,1619年(元和5)頼宣について紀州入国。幕府への忠誠とともに,頼宣をよく補佐した。家康が頼宣に〈直次をみること父のごとくせよ,違うことなかれ〉と言ったといわれ,頼宣に数々の忠告をしたという逸話が伝えられている。
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朝日日本歴史人物事典 「安藤直次」の解説

安藤直次

没年:寛永12.5.13(1635.6.27)
生年天文23(1554)
江戸時代前期の紀伊国田辺城(和歌山県田辺市)城主,紀伊徳川家の付家老。三河国(愛知県)生まれ。父は杢助基能,重信は弟。幼名千福丸,通称は彦四郎,のち彦兵衛,帯刀に任ぜられる。幼少より徳川家康に仕え,多くの合戦で武功をあげ,また武略にも優れていた。駿府の家康の側近となり年寄衆として幕政に参与した。慶長15(1610)年家康の10男頼宣の守役となる。元和5(1619)年,付家老として頼宣に従い紀伊に移り3万8800石を領した。性格は実直で,ときには若輩であった頼宣を諫めたという。<参考文献>安藤直雄編『藤厳公伝記』

(小柴良介)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安藤直次」の意味・わかりやすい解説

安藤直次
あんどうなおつぐ

[生]天文23(1554).三河
[没]寛永12(1635).5.13.
安土桃山~江戸時代初期の大名。幼名千福。彦四郎と称し,のち彦兵衛と改称。基能の子。幼少より徳川家康に仕え,姉川の戦い,さらに小牧・長久手の戦いにそれぞれ大功があった。慶長5 (1600) 年以降,元和2 (16) 年まで老中となり,遠州掛川2万石を領したが,同5年徳川頼宣が紀伊和歌山に入部するに及び,御付家老となり,田辺3万 8000石を領した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安藤直次」の解説

安藤直次 あんどう-なおつぐ

1554-1635 織豊-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)23年生まれ。安藤基能(もとよし)の長男。安藤重信の兄。徳川家康の近臣。老中として本多正純(まさずみ)らと幕府の中枢をになう。家康の10男徳川頼宣(よりのぶ)の守役をつとめ,元和(げんな)5年紀伊(きい)和歌山藩主になった頼宣の付家老として,遠江(とおとうみ)掛川藩主から3万8800石の紀伊田辺城主となった。寛永12年5月13日死去。82歳。三河(愛知県)出身。通称は彦兵衛,帯刀(たてわき)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の安藤直次の言及

【田辺[市]】より

…関ヶ原の戦の後,浅野幸長が紀伊に入国,田辺には重臣浅野氏重が配された。1619年(元和5)徳川頼宣が紀州藩主となると,田辺には付家老安藤直次(3万8000石)が配されて新宮とともに支藩的存在となり,実質的には城下町であった(正式に田辺藩となるのは1868年)。田辺城は会津川河口左岸にあり,海辺に位置するため,幕末に海岸警備が強化された際には二丸近くに台場が築かれた。…

※「安藤直次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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