宍咋庄(読み)ししくいのしよう

日本歴史地名大系 「宍咋庄」の解説

宍咋庄
ししくいのしよう

宍喰町域一帯に比定される京都長講堂領庄園。領家は紀伊高野山蓮花乗れんげじよう(現和歌山県高野町)。史料上は「完咋」とする場合が多い。建久二年(一一九一)一〇月日の長講堂領目録(島田文書)に「穴唯庄」とみえ、後白河上皇が院御所六条殿に設けた長講堂に付属されていた。「完咋庄」の成立時期は「任保延之取帳、可運上年貢之由」とあることから(宝治元年六月日「高野山住僧解状」高野山文書、以下断りのない限り同文書)、保延年間(一一三五―四一)頃と推定される。貞応三年(一二二四)以後と推定される宣陽門院領目録(島田文書)には女房別当三位家領のうちに「完咋庄」とあり、本家は後白河上皇の皇女宣陽門院、領家は別当三位(藤原綱子あるいは姉の邦子か)と考えられる。建保四年(一二一六)当庄領家職は紀伊高野山蓮花乗院に寄進されたことから(「高野春秋編年輯録」同年八月六日条)、以後は高野山領となった(寛元四年五月日金剛峯寺調度文書目録)

仁治二年(一二四一)頃に「地頭堺相論」など在地の支配をめぐって高野山は地頭と対立があったようであり(嘉元三年八月日金剛峯寺御影堂奉納文書新定目録下)、宝治元年(一二四七)地頭の光綱が高野山が実施する大検注に従わず、また「山海雑物椙小榑」などを運上するのみで、これらを年貢と号して田代の別当年貢を納めないとして訴えている(前掲宝治元年高野山住僧解状)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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