君侯とそれを取り巻く廷臣たちの集団が宮廷であるが,歴史上宮廷は,政治的・文化的にしばしば重要な役割を演じた。すでに中世初期カロリング朝(752-987)において,カール大帝の宮廷が学芸復興に大きく貢献したことはよく知られている。大帝はアーヘンの宮廷に,イギリスからアルクインを招くなどして,いわゆるカロリング・ルネサンスの拠点としたのであった。また,12世紀南フランスではアキテーヌ公の宮廷が,トルバドゥールの発祥の地となり,宮廷風恋愛の温床となっている。しかし,宮廷が真の重要性を帯びるようになるのは,中世後期のことである。この時期にいたって各地の領邦君主領はその基礎を固め,諸侯の宮廷が領邦の政治的・文化的中心として権威と栄光とを競うようになった。中世の秋に妖しい光芒を放ったブルゴーニュ公家の宮廷は,その代表的なものである。ブルゴーニュ公は,ディジョンとネーデルラントのヘント(ガン)に宮廷を構えたが,その宮廷生活の栄耀は,ホイジンガの《中世の秋》(1919)にみごとに描き出されている。イタリアの都市国家においても,それぞれの君侯は豪壮な宮殿を構え,廷臣を集め芸術家を抱えて栄華を競った。フィレンツェのメディチ家,ミラノのスフォルツァ家はその典型である。作家カスティリオーネはウルビノの宮廷に範をとり,優雅さと良き趣味とを兼ね備える典型的宮廷人の姿をその著《廷臣論》(1528)に描いたが,これはやがて最盛期を迎える宮廷文化の典範となるべきものであった。
これら領邦君主の宮廷は,中央への権力集中が進展する16世紀に入ると,なお割拠状態の続いたドイツ,イタリアを別とすれば,しだいにその栄光を失い,国王の宮廷がその独占的な地位を明確にし始める。しかし,この段階では,国王はなお全王国を十分に掌握するにいたっていなかったから,征服したばかりの諸地方に自らの権威を示すべく,頻繁に地方を巡回せざるをえなかった。そのために,〈移動宮廷〉がこの時代の特徴となる。フランス・ルネサンスを代表する国王フランソア1世は,ロアール河畔に多くの王城を構えたばかりでなく,広く王国を巡回し,首都パリにとどまることは少なかった。巡幸のたびに,国王の側近のみならず,外交使節や貴婦人たち,要するに宮廷全体が,国王のあとを追って移動したのである。
国王の宮廷が真に定着し,王国の政治・文化のかなめとなるのは,17世紀,ヨーロッパ諸国における絶対王権の確立以降のことである。強力な王権を前にしては,有力貴族も高位聖職者も,競って宮廷に馳せ参じ国王の恩恵にあずからざるをえない。ルイ14世によるベルサイユ宮殿の建造は,まさにこの新しい時代を象徴するものであった。ルイ14世は1682年ベルサイユに移り住むが,その盛時には1000人を超す宮廷貴族や高位聖職者が,この広大な宮殿に居室を与えられ,その従者の数は4000人に及んだという。ノルベルト・エリアスが〈宮廷社会〉と呼んだ特異な世界が,ここに現出するのである。
この宮廷社会の中核は国王一族よりなる王室であったが,それは同時に国王権力の中枢機関でもあった。そこでは,公と私が分かちがたく絡みあっている。国王の日常は,起き臥しから食事に至るまで,すべて公開され,公の儀式として営まれていた。他方,国王はあたかも一家の主人のごとく,家父長的権威をもって宮廷社会に君臨する。そこには,サン・シモン公が子細に描き出した厳格な身分秩序が設けられ,煩瑣な格式が強制された。宮廷には,代表的な作家や画家,音楽家が集められ盛大な宴が繰り広げられたが,すべては太陽王ルイ礼賛へと収斂する。こうして,時代の政治的・文化的価値を独占する宮廷社会の構造は,そのまま全社会へと投影され,国王を頂点とする絶対王政期の社会を特徴づけたのである。
ベルサイユの宮廷は,やがて近隣諸国で模倣され,フリードリヒ大王のサンスーシ宮殿や,マリア・テレジアのシェーンブルン宮を生むが,そこで模倣されたのは,まさにベルサイユの宮廷社会であり,それを軸とする絶対王政の社会であった。
絶対王政と深く結びついたこの宮廷は,宮廷対地方という構図で展開したイギリス革命において地方に打ち破られ,フランス革命においてもまた,ルイ16世のパリへの連れ戻し,ついでその処刑によって解体することになる。
執筆者:二宮 宏之
中国では,宮廷というのは帝王の居処のことであり,宮庭とも書かれ,〈朝廷〉〈宮闕(きゆうけつ)〉あるいは単に〈朝〉〈闕〉といわれ,しばしば商品交易の場である〈市〉と対して呼ばれた。《周礼(しゆらい)》考工記によれば,国都を造営する際には,中央に王宮をおき,東に宗廟,西に社稷(しやしよく),前方つまり南に〈朝〉,後方つまり北に〈市〉を設けたし,《周礼》全体の記述からみると,天子には三朝があったことになり,路門より内側を天子の日常起居する場所である燕朝といい,路門外,応門内を天子が毎日臨御して政事をみる場所たる治朝といい,応門外,皋門(こうもん)内を朝士が政事をつかさどる場所たる外朝といったとされ,全体を内朝と外朝とに二大別するときは燕朝と治朝をあわせて内朝といったのである。
秦・漢以後の歴代の宮廷つまり朝廷が,《周礼》に記述されていたとおりの構造をもっていたわけではないが,大綱においては,その構想は尊重されていたとみてよい。すなわち,天子たる皇帝を中心に皇后をはじめとする多くの女官や宦官,外戚の勢力の渦まいた内朝と,宰相をはじめとする中央官僚たちがひしめいた外朝は,歴史的にみると,つねに微妙な緊張関係におかれていた。皇帝が,宰相以下の百官のいる外朝を信頼しきった時期もあれば,内朝の宦官や外戚の意向に従って政治を行い,外朝の中央政府を単なる事務執行機関と化してしまった時期もあったのである。宮廷あるいは朝廷というのは,内朝と外朝をあわせた総称であるが,ごく一般的な用法でいえば,内朝のみが宮廷であり,外朝は政府とみた方がよかろう。
宮廷に建てられた宮殿は,それぞれの時代文化を代表するものであった。秦の始皇帝は阿房宮をはじめとする700余の宮殿を建てたというし,漢代の未央(びおう)宮や甘泉宮なども大規模なものであった。隋・唐時代の長安もこれらと同じであって,たとえば唐の長安城の北端中央におかれた宮城たる太極宮には,儀式場たる太極殿や両儀殿のほか,門下省と中書省の建物があり,太極宮の西に掖庭宮,東に東宮が位置していた。これら三宮の南に皇城とよばれる官庁街が林立していたのであって,太極宮が内朝に,皇城が外朝に当たるわけである。ところが,太極宮(西内)の地域が湿度の高い悪条件の場所だったので,太宗のときに東北の地に大明宮(東内)をたて,さらに玄宗のときには皇城の東の方に作られた興慶宮(南内)が事実上の宮城となった。これらを総称して三大内と呼んだ。宋の宮殿も唐制をつぐが,いわゆる征服王朝であった遼の上京と金の上京は,本城に接続して漢城を設け東を正面にしたし,元の大都では宮城が南端近くにあってモンゴルの風習に従うところが多かった。明・清時代に北京紫禁城に造営された宮殿の規模は,故宮の名で現存している。南の天安門から午門をへて儀式場である太和・中和・保和の3殿が縦に並び,その東西に文華殿と武英殿が配されていて,これが外朝にあたる。乾清門の北が内庭つまり内朝であって,乾清宮,坤寧宮などが配された。
歴代の宮廷は,政治の中心であっただけではなく,宮廷音楽,宮廷文学の場であり,宮廷画家が活躍した。漢代には,雅楽が天地祖先をまつる儀式音楽として制定されたし,賦という文学形式が宮廷でもてはやされた。三国時代には魏の曹操父子のいわゆる三曹が当時の文学界をリードしたし(建安文学),南朝斉の竟陵王や梁の簡文帝のサロンではまさに宮廷文学が花開き,宮体と呼ばれる詩体が流行した(永明文学)。唐代では,とくに玄宗治世の宮廷で,西域伝来の音楽などが異国情緒をただよわせたのであって,王建が七言絶句のかたちで詠んだ宮詞は,当時の宮廷内部の秘事や遺聞を今に伝えてくれる。なお,画院に属した宮廷画家は,漢代以後いつも存在したが,とくに宋の徽宗が芸術を好んだために重んぜられたし(翰林図画院),清初にはイエズス会修道士カスティリオーネ(郎世寧)のごとき宮廷画家さえ出現したのである。
執筆者:礪波 護
中東・イスラム世界においても宮廷は,単に君主の生活の場であるにとどまらず,文化的にも政治的にも重要な意味をもっていた。イスラム世界における宮廷制度は,アッバース朝期にカリフがしだいに神権的専制君主化していく過程の中で発展を遂げていったといわれる。その後,イスラム諸王朝にも引き継がれ,オスマン帝国において,最も完成した形をとった。宮廷は文化的にも重要な意味を有し,一方では宮廷儀礼が発達し作法の発展の場となるとともに,他方では文人・学者に活動の場を提供し,また建築家や工芸家の活動を支える一つの核ともなり,学問と芸術の発展に資するところが大であった。しかし,より重要なのは,宮廷のもっていた政治的役割であった。中東・イスラム世界における国家の権力構造の家産制度的特質に照応し,君主の家政は,国政と密接不可分に結びつき,宮廷は権力構造の中で最も重要な一画をなしていた。とりわけ特徴的であるのは,君主の家政の場としての宮廷に属する奴隷(マムルーク,グラーム)出身者の軍事的・政治的使用である。宮廷出身の奴隷の軍事的・政治的使用は,広く中東・イスラム世界に見いだされるが,セルジューク朝,ルーム・セルジューク朝を経て,オスマン朝に受け継がれ,オスマン朝において,その最も制度的に完成した形態をとるにいたった。
オスマン朝の宮廷制度は,15世紀以降に本格的に発展した。とりわけ15世紀後半,メフメト2世によるコンスタンティノープル征服の後,新都イスタンブールに,従来の首都ブルサとエディルネにおける宮殿に加えて,〈旧宮殿〉,〈新宮殿〉(別名トプカプ宮殿)が新たに造営され,制度的にも著しい発展を遂げた。オスマン朝では,宮廷はペルシア語からの借用語で〈サライ〉と呼ばれ,君主の公務の場としての外廷と,君主の私的生活の場としての内廷と,宮廷の女性の生活の場としてのハレム(後宮)とに分かれていた。このうち内廷には,多数の小姓(イチ・オウラーン)が勤務し,小姓は,少なくとも16世紀末ごろまでは,大多数が戦争捕虜および帝国領内のキリスト教徒臣民の子弟からデウシルメにより徴収された少年からなり,奴隷身分に属するグラームであった。内廷は君主の生活の場であると同時に,大多数がグラームからなる小姓の教育訓練機関としての性格ももっていた。小姓は内廷での教育訓練の後に,帝国の支配組織の諸部門に転出し,その重要な担い手となった。オスマン朝における宮廷は,制度的に最も完成した形態をとったが,同時に,その政治的重要性も最も強いものとなった。オスマン朝の権力構造の中で,中枢としての位置を占める大宰相職(サドラザム)就任者のうち,西欧化開始以前の大宰相のほぼ半数が宮廷出身者であったことは,その政治的役割を如実に示している。
執筆者:鈴木 董
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…【秋山 元秀】
【ヨーロッパ】
西欧初期中世において,旅とは主として軍事遠征か交易の旅,あるいは伝道のための旅であり,その形にはとくに珍しいものはない。初期中世のみならず中世後期にいたるまで,西欧社会において国王は首都を定めていなかったから,宮廷自体が移動していた。カール大帝の生涯の軌跡をみるとパリ,アーヘンを中心として旅にあけくれた一生だったことがわかる。…
※「宮廷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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