富墓庄(読み)とみつかのしよう

日本歴史地名大系 「富墓庄」の解説

富墓庄
とみつかのしよう

富塚とみつか町を遺称地とし、柴山しばやま潟北岸の柴山町から西岸片山津かたやまづ町、さらに南の富塚町に至る加賀市北東部一帯に比定される。富塚庄とも書き、柴山庄(芝山庄)ともよばれる。京都北野社領。建保六年(一二一八)の官符宣によれば、庄務は高辻(菅原)家が長く知行していた(御前落居記録)。また菅家長者記(加賀志徴)には当庄は「自古無主荒廃之地」であったものを再開発して文暦二年(一二三五)八月二三日に北野社の法華八講料所としたとある。

応永二〇年(一四一三)一一月二日の預所筑前守知職寄進(菅生石部神社文書)に富墓庄預所分のうち田三段三〇代、畠二ヵ所・山一ヵ所を菅生すごう社に寄進したとあり、寄進の対象となった田は「片山津老阿前」と「柴山湯屋谷」にあった。また天涯てんがい山とよばれる山林は東を湖(柴山潟)、南を「毘沙門堂林」、西と北を「大道」に囲まれており、現片山津町の西丘陵地に比定される。同寄進状は前部を欠くので詳細は不明だが「東限 僧坊地、南限 湖上、西限 承仕畑、北限 天神馬場」を範囲とする神社敷地も寄進の対象となったようである。応永三〇年八月一二日、足利義持は高辻治長の当庄知行分を北野宮寺に寄進した(集古文書)。しかし永享四年(一四三二)治長の死によって高辻庶流家は断絶、そのあとを嫡流家の高辻長郷が回復しようとして相論を展開し、同年一二月二日幕府より預所職を安堵された(御前落居記録)。文明九年(一四七七)九月二七日の足利義政御教書(集古文書)によると治長知行分とは、「彼庄一円被寄附宮寺訖」ということになっているが、当時の実態は「為根本社領、本役百斛社納」することにあり、本役一〇〇石を北野社司松梅院に納めるか否かが争点になっていた。だが延徳三年(一四九一)五月六日、松梅院禅予が社家奉行松田長秀に提出した北野社領諸国所々事(北野社家引付)には「一、加賀国富墓庄去年雖被成下御下知、猶押領」「一、同富墓庄本役百貫文高辻家押領、依之御神楽退転之」と併記されており、また「北野社家引付」延徳二年一一月二四日条に、かつては七〇〇貫文が納入されていたのが現在は一〇〇貫文さえ運上されず、しかも高辻家勝訴となっては本役一〇〇貫文(一石=一貫文)の上分も危ういとみえる。

永享三年一〇月八日、将軍足利義教は松梅院禅能の入質地を同じ北野社司の光聚院雑掌に渡すよう土倉方一衆中に命じたが、このなかに当庄も含まれている(御前落居奉書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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