寒河江城跡(読み)さがえじようあと

日本歴史地名大系 「寒河江城跡」の解説

寒河江城跡
さがえじようあと

[現在地名]寒河江市丸内一―三丁目・南町二丁目

江戸時代の楯北たてきた内楯うちだてにある。鎌倉時代の構築と目される館跡の所在地本楯もとだてより一段高い段丘端に位置し、近年まで堀跡と推定される池が所々に残っていた。寒河江大江氏本城で、鎌倉初期に大江親広が築城したと伝えるが、八代時氏(寒河江大江氏初代)の時に大修築を加えて完成された室町時代の城館である。高橋系図(高橋文書)によると、九代信綱の子良信の傍書に「寒河江城始立、于時城主大蔵大輔時氏君御移ママ、良信供奉、新賜新地」とある。時氏のあと当城は元時―元高―高重―為広―知広―宗広―孝広―広種―兼広―高基と相伝された。

大江氏は親広の父広元の時に寒河江庄地頭となり、以後代々寒河江庄を領有、寒河江大江氏は一五世紀半ば頃から戦国大名への道を歩み始め、寒河江城を拠点に、一族家臣を領内に配置して城館を構築させた。東に新田につた・本楯・高屋たかや、北に寒河江川を越えて小泉こいずみ白岩しらいわ溝延みぞのべ(現西村山郡河北町)、西に柴橋しばはし高松たかまつ(落衣)左沢あてらざわ富沢とみざわ荻袋おぎのふくろ貫見ぬくみ(現西村山郡大江町)、南は最上川を越えて長崎ながさき(現東村山郡中山町)山崎やまざきなどである。勢力拡張の過程で伊達氏・最上氏と抗争を繰返しているが、文明一一年(一四七九)一〇月下旬、伊達成宗は桑折播磨守に「寒河江之城」を攻めさせている(「松蔵寺幹縁疏」広谷常治氏蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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