射水郡(読み)いみずぐん

日本歴史地名大系 「射水郡」の解説

射水郡
いみずぐん

面積:七六・七五平方キロ
小杉こすぎ町・しも村・大門だいもん町・大島おおしま

令制以来の射水郡は越中国の北西部に位置し、北は海(富山湾)、北から西は能登国鹿島かしま郡・羽咋はくい郡、南は礪波となみ郡、東は婦負ねい郡に接し、現在の射水郡三町一村のほか氷見ひみ市の全域、新湊市の大部分、高岡市の過半および富山市の一部にあたる。なお戦国期から江戸時代初期にかけて当郡から氷見郡(氷見庄)が分立(→氷見郡、同郡を除いた地域はその時期なか郡と称した。

当郡の海岸線には十二町じゆうにちよう潟・放生津ほうじようづ潟が広がり、能登国とは宝達石動山ほうだつせきどうさん丘陵で画される。郡の中央に二上ふたがみ山があり、この二上丘陵・西山にしやま丘陵の北は氷見地域で、二上山の南方および東方には射水平野が広がる。氷見地域の大部分は低山性丘陵で、阿尾あお川・上庄川などの下流には小沖積平野が放射線状に延びている。十二町潟北東の現氷見市中心部の旧氷見町はその要の位置にあり、慶長一四年(一六〇九)前田利長によって開かれた高岡町に次ぐ射水郡の町として放生津町(現新湊市)とともに栄えた。広大な射水平野には小矢部おやべ川・千保せんぼ川・庄川などが礪波郡から流れ、かつては合流して一流となり伏木ふしき(射水湊)に注いでいた。小矢部川は二上丘陵の南に沿う緩流河川で、古来越中の交通史上重要な歴史的役割を果してきた。伏木湊は穀倉地帯の射水平野・礪波平野を背後にもつ良港として海運の拠点となっていた。近世初期の庄川本流はほぼ現在の千保川の流路を流れていたが、寛文一〇年(一六七〇)から正徳四年(一七一四)にかけて中田なかだ川・大門川筋に付替えられ、能町のうまち村・米島よねしま(現高岡市)付近で小矢部川に合流していた。また鍛冶かじ(現在は鍛治川と記す)下条げじよう川・東神楽ひがしかぐら川などの運搬作用による埋積土で放生津潟が埋立てられ、しだいに縮小していった。そのため放生津潟周辺は低位な湿田地帯で、この自然的条件が地域の大きな特色となっていた。なだ浦は岩石の多い海岸であるが、氷見・雨晴あまはらしから奈呉なご浦までは砂浜海岸が続いていた。海中の大陸棚は狭いが氷見、伏木・堀岡ほりおか(現新湊市)などの沖ではフケ、アイガメとよばれる海底谷が発達している。

〔古代〕

郡名は天平一九年(七四七)三月三〇日に大伴家持の詠んだ「二上山賦」割注に「此山者、有射水郡也」(「万葉集」巻一七)とあるのが初見。「射水」の訓は「万葉集」巻一七に「伊美都」「伊美豆」、「和名抄」東急本郡部に「伊三豆」とある。「続日本紀」大宝二年(七〇二)三月一七日条に「分越中国四郡、属越後国」とみえるが、これらの諸郡は大宝令の規定によって成立したもので、当郡もそれ以前は「射水評」として存立した可能性が高い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報